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■■■五代群雄伝■■■

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 01:58:33 ID:MrQnEw320
中国史上屈指の乱世五代十国時代。

栄華を誇った大唐帝国が崩壊し、秩序が失われた中原で群雄が覇を競い、異民族が侵入した戦乱の時代。

この激動の時代を駆け抜けた英雄たちを語れ。


2 :無名武将@お腹せっぷく:2006/10/24(火) 02:02:00 ID:D4HbLrDN0
乙です。 でももう寝るです。

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 02:03:27 ID:MrQnEw320
と言うわけで、五代の戦乱の幕開けに位置づけるべきは、
唐朝に致命的な打撃を与えた黄巣の乱だと思う。
であるからして、五代の英雄たちを語るなら、
まずは黄巣の乱に参加した黄巣、王仙芝、後に唐朝を滅ぼすことになる朱温、
黄巣の乱鎮圧に当たった元祖独眼龍こと、李克用らを、
まず語らなければなるまい。

4 :無名武将@お腹せっぷく:2006/10/24(火) 08:57:40 ID:D4HbLrDN0
起きた。
IDあるから、連投するのはずかしいね。
三戦板では、自演か?ってくらいレスしていたが…

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 09:53:10 ID:x/hU9IuZ0
まあ、どうせ人数は少ないんだし、連投だろうとそんなに気にする必要はないよ。


6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 11:02:36 ID:ls0BDsa60
李克用(858〜908年)
 突厥沙陀部朱邪氏の出身で、朱邪赤心の子。片目が異様に小さく、独眼竜と呼ばれた。黄巣の乱の討伐に参加して
功績があり、唐朝から雁門節度使に任じられ、続いて河東節度使へ上った。乾寧二年(895年)には晋王に封ぜられる。
黒鴉軍と呼ばれる軍勢を率い、唐朝を簒奪した朱全忠とは河北三鎮をめぐって争い、後唐王朝の基礎を築いた。太原で
病没し、 後に後唐の太祖と追尊された。

7 :無名武将@お腹せっぷく:2006/10/24(火) 11:45:02 ID:D4HbLrDN0
昼まで暇なんで、李克用について。
この辺はまだ、資料が充実しているから、わりに詳細に語れるけど、後代になると怪しい…
まぁ、生暖かい目をもっていきましょうか。

沙陀磧という砂漠付近で遊牧していたトルコ族(テュルク=突厥)のこの集団は、沙陀(シャーダ)と呼ばれ、首領に沙陀尽忠および、朱邪執儀などがいたそうです。
彼ら沙陀は
(本来、シャーダあるいはサダとするのが正しいのですが、漢字表記の「沙陀」のほうがかっこいいし、のちに漢字圏に入るので漢字で表記しないとかえっておかしい。契丹はキタイ。)
ウイグルと吐蕃との間で揺れ動いていました。

安録山の乱のときにも、唐に与力している、傭兵みたいな集団。のちに吐蕃の追撃を受け、沙陀尽忠は戦死し、生き残った朱邪執儀が部族をまとめ、雁門へとやってきます。
そう、この方が李克用のおじいさんにあたるわけですね。

で、それなりに唐との誼もあるので、??の乱等では一線級の活躍をするわけです。
このとき朱邪赤心とともに、15歳の若き李克用は参陣しており、「飛虎子」とあだ名されました。

李姓をもらったあと、沙陀は朔州に鎮したのですが、王仙之・黄巣の乱を契機に、唐に叛旗を翻します。
理由のほどは、まだそこまでつっこんでないので知りませんが、卑しい傭兵風情とか差別でもされていたのだろうか、近隣の藩鎮に。
2回ほど挙兵して、両方とも鎮圧され、あげく韃靼領にまで逃げ込まないといけない状態になりました。
さらにその韃靼でも、雲州の赫連澤の計略で首領を殺し独立しようとしていると噂され、あわや韃靼首領の手によって殺されかけるところでした。

しかしそこで李克用は、その韃靼首領の前で得意の弓術を披露しました。
100歩離れたところに、針とか木の葉とか小さい的を置き、それを百発百中させ、
「今朝廷は黄巣の賊に京師を呑まれようとしている。もし陛下がお許しくださるなら、わたしは陛下の御ために黄巣の賊を討つであろう。このような北の果てにいて、どうして大功がたてられようか!」
と言いました。
韃靼での叛意はないと見た首領は李克用の弓術に度肝を抜かれたこともあり、許すのです。
このあと、朝廷からの招安がきて、李克用は晴れて勤皇軍となり、唐朝廷のために尽力します。

が、行く先々ではDQNな行動で、いろいろ迷惑かけたそうな… しっかりしろよ。

8 :無名武将@お腹せっぷく:2006/10/24(火) 11:47:17 ID:D4HbLrDN0
あ、まだユニコードに対応してないか… 失礼。
??の乱は、ほうくんの乱でした。

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 15:52:23 ID:WJXOjL0Z0
>>7
三戦板のスレでも、指摘していた人がいたけど、その説明を読むと、
李克用の軍団は、三十年戦争のヴァレンシュタインの傭兵軍団を彷彿とさせるね。
李克用の軍団も掠奪しまくっていただろうし。

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 17:01:01 ID:p6hSK/du0
南唐って、経済力の中心地である江南を押さえていたわけだし、
英君が現れて、本気で富国強兵に取り組んでいたら、
天下を望むことはできたのかな?

11 :無名武将@お腹せっぷく:2006/10/24(火) 21:20:57 ID:D4HbLrDN0
>>9 まぁ、文章は三戦板のときの改変つうことで。 その本質はそれに近いものがあるんでしょうねぇ。
でもだんだんと、そのDQNぶりが愛しくみえてしまうから困ったものです。

李克用は17000の兵とともに雁門あたりから長安目指して南下するわけですが、黄河を西に渡河したとき、黄巣軍と初めて戦端を開き、15万の黄巣軍相手に一方的勝利を収めました。
そのあとも連戦連勝なもんで、すっかり増長するんですよね。

その頃朱温は、河中の重鎮・王重栄に働きかけ、唐への帰順をとりなしてもらい、官軍側へと転身していました。
朱温は黄巣軍にあって目立つ将だったので、唐朝廷は喜び「全忠」の名を賜りました。
一方で、強すぎる李克用の対抗馬のような立ち位置だったようです。

李・朱ふたりの活躍で長安に戻ってこれた僖宗皇帝は、李克用を河東節度使とし太原(=晋陽)に置き、朱全忠を宣武節度使としべん梁に置きました。
このときくらいに、後の前蜀高祖・王建は、田令孜の仮子となっていたと思います。
それ以前は楊復光という名宦官の徴募に応じて黄巣軍と戦い、その功績を認められ仲間5人ともども「随賀五都」と呼ばれ、楊復光の死後(このあとすぐ亡くなる。軍中の兵士はその死を惜しんで皆泣いたそうな)皇帝直属の禁軍である神策軍に編入されました。
その神策軍を田令孜(宦官。悪人w)が統括していた、というわけ。

楊行密はすでに揚州(江都)にあり、これまた前時代の名臣・高駢のもとで淮南道あたりで辣腕を振るっていました。
そういう状況下、まだ黄巣の残存軍があったわけですが、なにせ元祖流賊。 拠点を失ったほうがしぶといという…
長安から脱出した黄巣は、華南あたりを東に荒らしまわりながら移動していきました。
たぶん、故郷へ還ることを考えていたのでしょう。

で、その黄巣の討伐に手を焼いた朱全忠は(なにせ、彼の領域近くに接近してきましたから、大慌て)李克用に助力を要請しました。
李克用は再び南下し、中原にて黄巣を打ち破りました。
朱全忠は李克用の功労を讃え、宴会を開きましたが、李克用の高飛車な態度にマジギレしてしまい、李克用が泥酔したところを夜討ちしました。
この「上源駅の夜襲」は、李・朱を不倶戴天の敵同士にする決定的瞬間でした。

李克用は泥酔のまま、史敬思の尋常ならざる奮戦によって逃げ延びることができ、すぐさま軍をもって朱全忠を討つ! と息巻くものの、奥さんである劉氏になだめられ、太原へと帰っていきました。

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 22:25:41 ID:1mQzRoWo0
五代
後梁(907年 - 923年) 
 建国者は朱全忠(朱温、朱晃)
後唐(923年 - 936年)
 建国者は李存勗だが、事実上の建国者は父親の李克用。突厥の沙陀部族出身。
後晋(936年 - 946年) 
 建国者は石敬?。
後漢(946年 - 950年)
 建国者は劉知遠。
後周(951年 - 960年)
 建国者郭威。

十国
呉(902年 - 937年)
南唐(937年 - 975年)
呉越(907年 - 978年)
?(909年 - 945年)
荊南(907年 - 963年)
楚(907年 - 951年)
南漢(909年 - 971年)
前蜀(903年 - 925年)
後蜀(934年 - 965年)
北漢(951年 - 979年)

他に河北で燕王を称した劉仁恭、陝西で岐王を称した李茂貞など

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 22:26:15 ID:1mQzRoWo0
前蜀(903年 - 925年)
 黄巣の乱鎮圧に功績があり、唐から蜀王に封じられていた王建が、唐が滅ぼされると四川で自立して皇帝を称する。925年
に後唐に攻め滅ぼされる。

後蜀(934年 - 965年)
 前蜀を滅ぼした後唐より四川に派遣された孟知祥が叛乱を起こして自立し、後唐蜀王に封じられた後、934年に皇帝を称して
後唐から離れる。965年に宋に攻め滅ぼされる。

呉(902年 - 937年)
 開祖楊行密は群盗出身だが、唐に帰順して節度使にまで伸し上がり、江南に勢力を築く。902年に唐より呉王に封じられる。
自立はしても唐の臣下の立場を貫き、後梁と争った。楊行密死後は、部下の徐温に実権を握られ、徐温の死後跡を継いだ徐
知誥に禅譲する形で滅亡。

南唐(937年 - 975年)
 呉の実権を握った徐温の死後、その養子徐知誥が跡を継ぎ、呉から禅譲される形で建国。当初は国号を斉としたが、唐に変更。
江南に強大な勢力を誇り、文化的・経済的に大いに繁栄したが、北方を統一した後周の圧迫を受け、続いて宋に攻め滅ぼされる。

呉越(907年 - 978年)
 無頼出身で、唐から節度使に封じられて浙江に勢力を築いた銭鏐が、後梁より呉越王に封じられる。西隣の南唐と度々抗争
するが、南唐が宋に攻め滅ぼされると、宋に投降する。

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 22:26:47 ID:1mQzRoWo0
?(909年 - 945年)
 節度使王審知が、後梁に入朝して?王に封じられる。王審知死後は内紛が続き、933年には独立して皇帝を称するも、
 内紛は止まず、南唐に攻め滅ぼされる。

荊南(907年 - 963年)
 後梁から荊南節度使に封じられた高季興が自立。弱小国であったため、後唐や後周、呉、?、南漢、後蜀のほとんどの周辺国
に対して臣を称して安全を保った。963年に統一を進める宋に投降する。

楚(907年 - 951年)
 唐の湖南節度使馬殷が、後梁に入朝して楚王に封じられる。その後、後唐、後晋、後漢、後周と五代の各国に対して臣を称し
続けた。馬殷死後は内紛が続き、951年に南唐に攻め滅ぼされる。

南漢(909年 - 971年)
 唐の節度使で広東広西に勢力を持つ劉隠が後梁から南平王、続いて南海王に封じられる。跡を継いだ劉?が913年に皇帝を称
して完全に自立、国号は当初の越から漢に。971年に宋に攻め滅ぼされる。

北漢(951年 - 979年)
 後漢の創始者劉知遠が劉崇が、後漢の滅亡と後周の建国の際に太原で自立。北方の遼の援助を受けて、後周、宋に対抗する。
979年に宋に攻め滅ぼされる。

15 :無名武将@お腹せっぷく:2006/10/25(水) 01:08:32 ID:ldm+WpPM0
>>10 南唐が経済的に優れていた事情のひとつに、淮南の領有があった。
ここは湿地で豊潤であるうえに、海岸線もあり古来より官塩の産地だった。
塩は前漢武帝のときに、国家専売となってより貴重な財源で、しかも法外な値段で売りさばいていた。
塩の密売人が出るのも、その辺が理由。

しかしながら、南唐は西暦953年に大飢饉が発生し、そのせいで国家財政が大きく傾き、淮河の防衛「把浅」を撤廃したことから、後周の攻撃を受けることとなってしまった。
後周の征淮南は、足掛け4年にわたり、南唐の生命線といえる江北(淮南)の十四州をすべて奪い取られてしまったのです。
驚くことに、後周の水軍が長江にまで進出してきており、南唐は風前の灯状態。

この時点で南唐は大国から弱小国へと転落し、「唐」という国号も返上し以後、江南国と呼ばれるようになりましたとさ。

16 :無名武将@お腹せっぷく:2006/10/25(水) 01:17:28 ID:ldm+WpPM0
>>15
訂正 
×南唐の生命線といえる江北(淮南)の十四州をすべて奪い取られてしまったのです。
○南唐の生命線といえる江北(淮南)の十四州をすべて奪い取ったのです。

このときの趙匡胤の奮戦ぶりと、後周世宗の激烈ぶりは後世の語り草となっています。
また、その後周軍の攻撃を約1年半持ちこたえた、寿州城の将劉仁贍もかなり鮮烈な印象を与えてくれます。

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 08:53:45 ID:n7udpV/20
>>15
淮南の塩って、この当時も重要だったんだね。
元末の戦乱の時も、河南の紅巾の乱への対応は動きが鈍かった元朝が、
張士誠が淮南で反乱を起こすや、即座に丞相率いる討伐軍を送っているあたりを見ても、
官塩ってすごい財源なんだね。

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 12:27:08 ID:XhJDrIvq0
そもそも五代の乱世を呼び起こした黄巣や王仙芝も山東の塩賊ですぜ

塩賊は時の朝廷を脅かすほどの力を持つ

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 12:43:04 ID:U6V65n6EO
白居易の塩商婦でも塩が儲けれるんだと分かるな。需要が多く供給が少なかったんだろう。

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 13:03:41 ID:XhJDrIvq0
と言うか、朝廷が専売する塩の値段が、あまりに高かった。
塩という生活必需品にとんでもない消費税がかかっている状態。

だから、闇塩というものが生まれ、塩賊が暗躍した。
塩なんて、原価自体は大したこともないので、例えば朝廷が売る官塩の半額で売ったとしても、
物凄い利益を生み出すことになる。

庶民からすれば、闇塩も決して安くはないけれども、官塩よりはずっと安いのでありがたがる。
塩賊も莫大な利益を得て力をつける。


21 :無名武将@お腹せっぷく:2006/10/25(水) 14:58:13 ID:ldm+WpPM0
この頃の華南の生産力は興味深い。
これまでだったら、華南に群雄が並立するのは、一時的なものを除けばせいぜい2ヶ国か3ヶ国だったのが、7ヶ国の並立というカオスなことになっている。

淮南を得て領土的にも大きい呉〜南唐、領土は狭いながら海上貿易と中国の兵糧庫・浙江を抑えた呉越。
海の玄関口である福州と泉州を地味に抑えたビン、湖南の豊かな土地を開発して茶を輸出した楚。
交通の要衝で貿易黒字を出したと思われるw南平(荊南)、よく知らんけど異国っぽい雰囲気をかもし出すような南漢。
あといわずと知れた、芙蓉の城(成都)にイメージされる豊かさを誇った前後蜀。

領土面積や支配のおよぶ地域でみると、どれも六朝には劣り、矮小なイメージを拭えないが、これら勢力が並立しても長く政権を維持できるほどの底力が、このときの華南にはあった。

対して華北は…
後周太祖、世宗の登場で急速に国力が回復しつつあったとはいえ、強国の南唐を力尽くで首根っこを押さえ込めたのは、ひとえに後周世宗の偉能のなせる業としか思えない。


22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 00:23:13 ID:0ZZNTNDE0
呉越なんか、地図で見る限りじゃ、よくあんな形で独立国を保てたなと思えるね。
あっという間に南唐に飲み込まれそうに見えるし。

にしても、華南の国々はそれぞれ個性が豊かだね。

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 02:05:43 ID:9d5zg0uzO
「世家」があるのって新五代史と史記だけ?

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 17:12:55 ID:y7YZAbHiO
関連スレを貼っておくわ。

五代十国時代を語ろう
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1008691359/

25 :無名武将@お腹せっぷく:2006/10/26(木) 20:02:27 ID:e12cwApx0
うはw 史板のソレ、レベル高いんだよね。 中盤からは何しゃべってるのかわからなくなるくらい…

さて、爆弾投下。
河東太原(=晋陽)の李克用、汴梁(陳留の近く)の朱全忠、あと河中に王重栄、易定に王処存、四川には陳敬瑄等々が、実力者として目される状況。
そういう中で、唐皇帝僖宗は長安に帰ってこれたけど、その腹心である田令孜(宦官)が、官塩の利権から王重栄、王処存らと対立するようになりました。
王重栄は李克用に助力を請い、田令孜を威圧します。
一方、李克用もくだんの朱全忠が不意打ちした非を朝廷に奏上したにも関わらず、李克用をなだめるだけに終始していた態度に鬱屈していた事情もあって、王重栄を後押しします。

これに対し田令孜は邠州の朱玫と鳳翔の李昌符をもって対抗しますが、さすがに李克用には敵わなかった。
ビビった田令孜は、またしても僖宗を伴って逃げます。
朱玫はこの期に李克用と手を組み、皇帝を保護し実権を得ようと奸策しますが、田令孜の逃げ足は脱兎のごとく、襄陽王をどうにか保護できただけにとどまりました。

そのとき、王重栄や寝返った朱玫の追撃はすさまじく、皇帝と田令孜は鳳翔から桟道をとおり蜀へ抜けようとしました。
李昌符が桟道を焼き、どうにか追っ手を防いだものの、前回以上の災難だったので、僖宗はすっかり気弱(もともとだけど)になり、ずっと泣いているわけです。
そこで、神策軍に編入されていた王建が先導し、僖宗を馬に乗せ煙や火の粉を払いつつ進み、一夜の宿では膝枕(ごつい男の…)をしてやって、はじめて僖宗は安心したそうな。
そうやってようやく、興元(漢中)に着き、やがて田令孜の兄が治める成都に行くわけです。

朱玫は僖宗を得ることができなかったので、かわりに襄陽王をして帝位につかせ、また李克用とも共闘しようとしましたが、本来李克用は皇帝そのものには忠であるので、拒否りました。
味方のいない朱玫はやがて自滅し、長安近辺には再び平和が戻ってきたのでした。

そのあと僖宗は長安に帰りますが、帰着後ほどなくして亡くなります。 次に立つのが昭宗。
王建はそのまま蜀に残り、西川節度使陳敬瑄と事を構えるようになりました。

また、なりを潜めた朱全忠は、実はウラで蔡州の反乱者・秦宗権と戦い破り(ちなみに、この秦宗権の徴兵に応じて、木工の馬殷兄弟が参じている)、また謀略をもって山東方面を平定し、着実に力を蓄えていました。


26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 23:55:56 ID:Xz1x1zd60
ま、ここはレベルとか気にせず、気軽に語りましょう。
初心者歓迎age

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/27(金) 14:47:50 ID:QqkfSyI30
十国の方は、創業者が死んだ後内紛ってパターンが多いな。


28 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/10/27(金) 22:48:00 ID:hvFQTrUF0
王を名乗るのもおこがましい勢力が多いしね。

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 00:45:09 ID:8MqGbLgJ0
荊南なんか、あんな場所に小さい国でよく半世紀余りも続いたな。

周りの国全てに臣従したと言うが、巧みな外交がなければ、独立を維持できなかっただろう。


30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 09:05:28 ID:BavDBui30
五代物語

第一部は、黄巣の乱、黄巣が主人公。
第二部は、残唐から大梁建国で、朱温が悪の主人公。
第三部は、李克用とその子孫を正義の側に立てた、打倒大梁と後唐建国。
第四部は、語り手馮道による五代群雄伝。
第五部は、郭威による後周建国と、柴栄の天下統一推進、趙匡胤の活躍。
第六部は、趙匡胤の宋建国、天下統一、南唐滅亡と後主の悲劇。

31 :無名武将@お腹せっぷく:2006/10/28(土) 20:32:06 ID:UGCmZhxn0
>>28 お、ついにこのスレにもお越しになりましたか。

五代十国時代は一般にマイナーすぎて、一体どういう流れなのか把握できにくいと思う。
一応、人物や武将を語るために、ある程度の流れというかバックボーンがなければ話にならないと思い
なんかオレ解釈でわかる範囲の爆弾を投下し続けていますが…
ま、ウザかったら言ってください。すぐにやめますから。

>>29 高季興(高季昌)は梁の一部だったので、この頃はまだよかった。
問題は後唐が前蜀を伐ったあと。
そもそも「前蜀を伐つのが易しい」とか吹き込んだ(つか、前蜀は頑健で攻めても後唐では勝てないと思っていたから誘導した)のが高季興なわけだけど、思いのほか前蜀はもろく滅んじゃったのです。
あせった高季興はいろいろと画策し、あげく後唐の討伐を受けます。
ま、これは後唐も本気ではなく討伐軍の司令官に高季興の幼馴染をあてるなどしていました。示威行動ととれますかね…
以来、中原王朝とも微妙な関係となり、高季興の息子、高従誨は四方の強国相手に同盟離反を繰り返し、時の人に「やつは表裏常なく、油断がならん!」と言われ、「高無頼」とあだ名されるほど、外交がたくみでした。

日本で言うところの真田昌幸を彷彿とさせますなぁ。

32 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/10/28(土) 21:08:41 ID:1OIh1RIN0
流れを読むだけなら陳舜臣「中国の歴史」文庫版の4巻が簡単でおすすめ。

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 15:19:36 ID:elOC5wip0
この時代の代表者を選ぶなら、馮道だな。

34 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/10/29(日) 19:05:45 ID:yuS3L8SS0
有能な政治家か
狡猾な佞臣か

上層のクーデターだけで平和っちゃ平和だったり。

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 21:09:21 ID:ZcoQeanY0
北朝側で、民衆にそれほど迷惑かけていない政権交代といえば…
後唐末帝のときと後周建国くらいか?
末帝のときは、おもいっきり馮道が絡んでいるなぁ。
混乱を最小限に抑えた功績(になるかはわからんけど)は、ひとえに馮道の見切りのよさだったわけだね。
おかげで後世からはボロカスに言われるようになったけど。当時の人にとってはカミ。

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 21:35:12 ID:LBzfWgEK0
「馮道 乱世の宰相」って本もなかなか良かったぜ。

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 22:20:26 ID:Ys3lDyyvO
乱世の宰相としてよく馮道と諸葛亮は比較されるね

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 22:29:35 ID:xpLF2EWg0
今、漫画板のスレにアメリカ人5人以上の書き込みがあって戦争状態だ!
何でも、日本人がアメコミと食文化を罵倒した上に、リンクを貼って挑発したらしい
漫画板の連中の英語力は稚拙で今は完全に押されてる
英語力に自信のある人、頼むから助太刀してくれ!
http://comic6.2ch.net/test/read.cgi/gcomic/1161175064


39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 22:54:01 ID:ZcoQeanY0
>>37 どういう比較?
似たもの比較ってこと?
どう見ても、正反対の宰相だと思うよ。

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 23:11:20 ID:zkM7UMpAO
>>39
正反対だからこそ比較じゃない?
斜陽の国を軍事行動に駆り立てることによって支えた宰相と
戦乱が無意味に広がるのを避けるため首のすげかえをあっさりしちゃう宰相

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/30(月) 17:19:54 ID:h7OvxIrK0
流れを無視して、五代物語のつづき。
>>30さんは、第二部で朱温を主役に添えるように書いているけど、自分、朱温側はまだ把握しきれていないので、あいかわらず李克用側からの流れで…

黄巣の乱のおり、賊軍に味方した河陽節度使(孟州)の諸葛爽という人の下に、李罕之という男がいました。
李罕之は驍勇人に優れ、膂力もまた人一倍だったけど、無学のため無頼をやっていました。
いろいろあって諸葛爽に副将として扱われたが、諸葛が死ぬとその専権を握った劉経が、李罕之を危険視して討とうとします。
しかし李罕之は張言と協力してこれを返り討ち、李罕之は河陽(孟州)、張言は河南(洛陽)をそれぞれ領有しました。
ふたりは親友といってよい信頼関係を得た… はずでした。

李罕之はそもそも横暴な性格で、実は張言のことを見下していました。
それゆえ張言にはあれこれ無理を押し付け、自分は何もしないので、張言はぶちキレて、李罕之を攻めました。
張言は善政を布いていたので、将兵は彼に付き、李罕之は進退窮まってしまいます。

そこで李罕之は隴西郡王たる李克用を頼り、太原(=晋陽)に奔りました。
李罕之を受け入れた李克用は、李存孝、薛阿檀、安休休らに7千を率いさせ、李罕之とともに河陽奪還に出陣させました。
それに対し張言は汴梁の朱全忠に救援をもとめ、丁會、牛存節、葛従周らが後押ししました。
ここに、李VS朱が、はじめて対立するようになるわけですが、朱全忠軍が李克用軍の退路を断ったので、李軍は大敗します。
また、潞州(上党)で李克用の弟、李克脩が亡くなると兵乱がおこり、叛した将は朱全忠側に降ってしまいました。
それを取り戻すべく、康君立、李存孝を遣わすものの、すでに朱全忠側の驍将・葛従周が潞州に入り、防備を固めていたので、手が出せませんでした。
戦況不利な河東軍を、討伐のチャンスと見て取った、幽州の李匡威、雲州の赫連鐸らは宰相の張濬に働きかけ、一気に太原を攻撃しようとしました。

宰相・張濬は、かつて李克用に「お前は口だけだ」と言われたことがあり、それを根に持っていたので、昭宗の許可を得て、李克用の官位を削除、朝敵に認定しました。
張濬を総大将、孫揆を副将とし、実戦部隊の指揮者として華州の韓建をあて、邠州の王行瑜、鳳翔の李茂貞、李匡威、赫連鐸らを加え、大規模な包囲陣を布きました。

当然、朱全忠もこの機に北上し、李罕之がいる澤州を攻めさせました。
逆賊となった李克用は、幽、雲方面には、李嗣源(後唐明宗)、李存信、周徳威らを派遣し、李罕之の救援には李存孝に5000の兵を与え急行させました。
李存孝は進軍速度を重視し、500の騎兵のみで、澤州を包囲する汴の勇将・鄧季筠に迫りました。
李存孝は鄧季筠を一騎討ちで擒え、李罕之と内外呼応して汴軍を破り都将を数十人虜にしつつ追撃し、馬牢関で斬首万余級の大勝をあげました。
さらに官軍の副将たる孫揆が潞州へと陣を移そうとしていることを察知し、軽騎300にて隘路に伏兵し、孫揆の親軍3000を奇襲。
孫揆を生け捕った李存孝は、そのまま汴将・葛従周の篭る潞州を強襲して、復することに成功しました。

李存孝の悪魔な活躍で南方面が安全となった李克用は、晋州に陣取る張濬を討つべく進軍を開始しました。
張濬もこれに対し野戦で決着をつけようとしたものの、陰地関の戦いで破れ晋州城に後退しました。
さらに頼みの韓建も李存孝に敗れたので、長安へと遁走してしまいました。

そこで李克用は朝廷に無実を説き、楊復恭らの張濬追い落としの思惑もあって、官位が旧に復され朝敵の汚名は返上されました。
この一連の戦いで李存孝の勇名は鳴り響き、『旧五代史』などにはわざわざ
「挺身陷陣、万人辟易、蓋古張遼、甘寧之比也」
と書かれているという。

42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/30(月) 20:25:12 ID:l3//ypA60
>>40
ま、蜀や荊州の民からすれば、こいつらが余計なことしたから戦乱が長引いた
という考えも成り立つしな。

43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 22:07:41 ID:GOhR1eMxO
仮子の制度はこの時代だけに見られる特殊なものなの?

44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 22:20:14 ID:NbqxvkQw0
唐玄宗期あたりから顕著になった。
もとは宦官がシンパをつくるためにやったことだという。

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 23:23:15 ID:GOhR1eMxO
なるほど宦官が発祥なのね
五代では百人近く仮子がいた人もいるらしいね

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 23:39:50 ID:NbqxvkQw0
任侠の、親分子分をもっと縛りいれた状態が仮子。
李克用、王建などがいい例なんだけど、その王建自体も田令孜という僖宗期の悪宦官の仮子だった。

田令孜を特に悪と書いたけど、この頃の唐は牛李の党争に代表される、宦官と官僚との衝突を引きずっていた。
基本的に、皇帝近辺の権力を握っているのが宦官で、禁軍の総大将を兼ね、また皇帝の生死すら操っていた。
そういう宦官全部が憎むべき存在なのだけど、特に僖宗の後見的な立場にいて信頼もされ、再三皇帝を蒙塵させた無策っぷりということで田令孜が悪の代名詞。

権力はあれど、宦官は子を作ることができないので、血縁による派閥が作れない。
そういうときに、擬制的血縁関係を強制できる仮子が流行したってわけ。


47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 23:42:40 ID:801cTNPH0
唐代後期は、宦官は皇帝の生殺与奪権さえ握っていたようだけど、
明代の場合は、どれだけ権勢を極めた宦官でも、
皇帝の絶対独裁権力を越えることはできなかったようだね。

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 23:53:04 ID:NbqxvkQw0
もともと唐も、初期の段階では宦官に実権など与えなかった。
その禁をやぶったのが、玄宗。
彼は高力士という宦官を個人的に信任していて、楊貴妃の件など他人には言えないような世話を焼いてもらったので、権力を与えてしまった。
高力士個人ならそれもおkなんだけど、結局権力を利用したい宦官がこれを前例として官位についてしまったことから、おかしくなった。

後漢末期も、清流派官僚と濁流派宦官・外戚との党争が、国家衰亡を招いたけど、唐も同じ轍を踏んでしまったようだ。

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 03:22:31 ID:xE+PIBDz0
おーい、外戚はむしろ清流派なんだが。
後漢王朝ってのは、豪族士大夫層を母体にした外戚と、それに対抗するために
宦官をつかった皇帝の権力抗争。

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 09:29:28 ID:tVaqF4HY0
あれ、そうだっけな。 どうも外戚と宦官が手を組んでいたように勘違いしていたようだ。
まぁ、五代専門なんで、その辺の間違いはご容赦を。

51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 22:52:53 ID:i5NbPt+/0
水滸伝に出てくる銭振鵬や馬万里って、確か五代の地方政権の
末裔だったはず。趙匡胤は投降してきた地方の王族は全く殺して
いない。後にその子孫が宋王朝の危機に忠臣として働くわけだから
かしこい選択だな。

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 23:22:48 ID:gKo4z4RJ0
悲惨だったのは、南唐の李Uぐらいか

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 02:34:34 ID:GL7QLwdl0
>>51 馬氏も銭氏も、後周時代すでに親交があった。
馬氏は南唐李氏に滅ぼされ、金陵に連行されていたけど、後周世宗の南征のおり、大義名分の一つに馬氏の救出があった。
驚いた南唐中主は馬氏を送ったけど、それ以外にも罪を並べられ、結局討伐を受けた。
呉越銭氏は呉や南唐と拮抗するため、中原王朝を頼っていた。
後周世宗の南征のときは進んでこれに協力したし、独自の年号を使うこともなかったくらいのシンパ。

湖南周氏、荊南高氏、南漢劉氏はそれぞれ趙匡胤に保護されたけど、後蜀の孟昶は開封に連れられてすぐに死んだそうだ。
殺したわけではないとは思うが、疑惑があったりする。
後蜀平定戦では、略奪も激しかったようだけど、江南平定のときは略奪を許さなかったあたり、趙匡胤という人柄が見て取れる。
陣頭の猛将のイメージが強い太祖だけど、柴栄のように常に陣頭指揮をしたわけでもないようなんだな。
禁軍将軍の兵権を取るところや、王彦超ら節度使をお涙頂戴などで謀反させる気を削ぐところなど、太祖にしかできない芸当だけど、統一事業は基本、柴栄の敷いた線に沿っているんだと思う。


54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 13:56:03 ID:D1sg34l30
蜀を平定した時は、かなり掠奪もやっちゃったから、住民の間に反宋感情が生じて、
なかなか安定しなくなったみたいだね。
江南の方は、掠奪を控えたおかげか、後々首都まで持って行っている。

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 23:29:39 ID:rDJaeMND0
曹彬のおかげ

56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 23:34:03 ID:OIBoELB20
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E5%BD%AC
曹彬(931年 - 999年)は後周・北宋の軍人。字は国華。諡は武恵。江南(南唐)攻略など数々の功績を挙げた宋初の名将
で、北宋建国の元勲の一人。

真定郡霊寿県(河北省)の人。後周では太祖の妻・張貴妃の甥として重用され、趙匡胤が恭帝から禅譲を受けて北宋が建
国すると、そのまま北宋へ仕える。 その後は将軍として契丹・北漢・後蜀・江南の諸国と歴戦し、数々の武勲を挙げた。

965年の後蜀攻略戦においては征伐軍による攻略後の暴行を制止しきれず、諸将とともに太祖から譴責を受けたが、975年
の江南攻略戦では被害を最小限に留め、南唐の優れた文化を北宋へ受け継がせることができた。

その後は枢密使・同平章事を歴任して軍事面の責任者として貢献し、一時は北漢討伐戦の敗戦責任を負って左遷されたも
のの、後に枢密使に復帰している。

清廉篤実な人物として知られ、幾つかのエピソードが伝わっている。

曹彬が後周の茶酒を司る役人だった頃、まだ後周の将軍だった太祖・趙匡胤に管理下の酒を要求されたことがあった。曹彬
は公の酒を与えることを断り、自ら酒を購って趙匡胤に与えた。後に太祖は、曹彬の篤実な勤務ぶりを称揚したという。

江南の金陵包囲戦中、曹彬は攻城前に仮病を使って寝込んだ。そして見舞いに訪れた諸将から、病を治す代償として略奪・
暴行を行なわない旨の誓約を受けた後に金陵を攻略したため、被害を最小限に留めることができたという。

57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 20:25:15 ID:lbZjwsjF0
まあ、戦争で掠奪暴行の類を完全になくすのは無理

58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 21:28:35 ID:QtFYSzy50
唐末五代であれば、略奪行為はむしろ普通。
このあたり、こちら側の見識をチェンジしておかないと、まともについていけない。
それくらい狂った時代。
秋毫も犯さず? そんないい子ちゃんが生き残れるような、甘っちょろさはないといってもいいくらい。
だけど、絶無ではないところが、懐の深さ。 また面白さ。

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/05(日) 23:42:29 ID:5JIBRMye0
唐末五代に限らず、昔の戦乱期で掠奪のない時ってないだろう。

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/08(水) 23:35:26 ID:XeTiTTr80
南漢はアラブ系らしいけど、やっぱり濃い顔立ちしていたのかな

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/11(土) 00:32:16 ID:+zdCwKXJ0


62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/11(土) 21:48:24 ID:RHkm29VM0
広州や泉州あたりはアラビア人がたくさんいたらしいからね。

63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/13(月) 14:33:24 ID:pPzZ7iUb0
呉越は、国号が「呉越」の二字?
皇帝は称していなかったようだから、形の上では常にどっかに従属していたのかな?

64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/13(月) 18:06:41 ID:XTCBwEus0
>>63 もともとは黄巣の乱のときに結成された自治組織のようなもの。
董昌という人が編成した杭州八都という軍団があり、その都将として銭鏐がいたと思えばいいわけ。
で、董昌のもとで勢力を広げてゆき、杭州・越州を手中にした。
唐昭宗期では杭州節度使とされたけど、董昌がかなりヘンになったのでこれを倒し、彭城郡王に封じられた。

さらに、西暦902年に「越王」、西暦904年に「呉王」に封じられ、朱全忠が梁を建国したとき(西暦907年)、「呉越王」兼淮南節度使とされた。

王号をもって「呉越」と判別するけど、実際には冊封ということで、より独立性の強い政権であって、厳密に「国」というわけではない。
年号も基本、中原王朝のそれを用い独自のものは作らなかった。
この時期、そういう政権は多いので、ひとつの国とみても差し支えはないはず。十国と言われるゆえんだし。
独立し皇帝を名乗ることもできる国力はあったろうけど、お隣の呉〜南唐が、それ以上のちからを有していたので、生き残るためには中原王朝と親密にするのが上策だったのだろう。

65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/18(土) 04:18:18 ID:yDH9ZYwd0
姉妹スレ@世界史板
五代十国時代を語ろう
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1008691359/l50
をよろしこ。

66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/21(火) 08:10:08 ID:CmHHV0oq0
どちらのスレも人が少ないねえ・・・

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 22:55:12 ID:lYP8weru0
五代の各王朝の官制は、だいたいは唐朝のものを模倣したものだったのかな?

68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 17:16:35 ID:cJLOjJ4M0
踏襲といってくれ…

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 22:51:20 ID:uT7wtS330
五代十国で、唐制とは大きく違った独特な官制を持った政権ってある?

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/24(金) 00:41:04 ID:B1vF3gof0
そもそも、短命政権ばっかりで政権参加者の個人能力の比重が大きいから
独自色を議論するほど安定政権みたいに官制が機能していたかどうかすら怪しい。

71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/24(金) 22:44:32 ID:3bZxlvfl0
官制よりも藩鎮の力を削ぐ仕組の形成だな

72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/29(水) 15:44:23 ID:SWEfWNpO0
もったのは創業者の代だけで、二代目以降はがたがたの政権多いしね

73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/01(金) 13:50:50 ID:aH5yPdPu0

五代はともかく十国になると、
新旧五代史を読んでも大筋しかわからん。

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/01(金) 16:32:59 ID:jl/AZkog0
十国春秋が一番まとまってていいけど、南唐書というのもあり、十国春秋は孫引きなんで、根拠とするには弱い。
しかし、言ったように十国すべてがまとまっているので、すごい便利。
… まだ南唐や後蜀のこれは、といえる人物のくらいしか見てないから、エラそうにはいえないけど。

75 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/08(金) 14:13:18 ID:VNtD4jwa0
黄巣って子孫はいたの?

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/12(火) 00:28:43 ID:tW/rumWw0
この時代って、たとえ皇后でも、再婚した女が多いね。

戦乱続きで、貞節なんかにあまり構っていられない感じだったのかな。

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/12(火) 23:50:55 ID:+4RDTDB80
唐の時代も再婚が多い。
宋の時代になってから、上流階級の女性の再婚が減った。

78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/12(火) 23:56:50 ID:HLe/yRfl0
人口=国力という一面があるからね。
一般庶民には再婚を奨励したり、
何歳か以上で未婚の場合は税金をかけたり、という時代もあるぐらい。

79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/14(木) 01:14:26 ID:vl/vrafc0
人口=国力。
唐律における、均田制-租庸調-府兵制のトリニティは、まさに把握できる戸数に拠っているわけで、それが崩壊してしまった唐末では中央の国力はガタガタ。
両税法と官塩と茶税の暴利によって、なんとか持ちこたえた感じ。
そこは五朝もさほど変わらない。
後周にはいってようやく、まともな国づくりに向かったというから、庶民層の生活はとんでもなかったろうね。
>>貞節なんかにあまり構っていられない
それを強く認識し強要(というのもヘンだが)しだしたのは、宋代だから…
馮道も、五朝乱世ならああいう生き方は是とされるが、安定した王朝では単なる無節操とされるゆえん。
唐の頃は、遊牧民的な気質もあり、男女の開放感はあったとされる。 五朝のうち三朝は突厥系沙陀で、その政権下で生きた後周二皇帝もその気風は受け継いでいたようだ。

80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/16(土) 22:56:26 ID:1crxYZKJ0
この時代は、四川とか江南の方が安全かな。
中原は何だか、戦続きだし。契丹人の侵入もあったし。

81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/18(月) 15:50:08 ID:DS06TSR40
地方は地方で戦乱が多いし。
南漢とか長期政権だし、治安がいいかも。

82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/20(水) 11:25:53 ID:PnKMZmIa0
長安の貴族文化人は、四川に逃れた者が多かったみたいだね。
よそから侵入を受けない限り、四川の情勢は安定していたと思う。

83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/23(土) 22:53:07 ID:P0JO1hrE0
情熱の花蕊夫人

84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/24(日) 00:44:12 ID:fXLV+qUg0
四川は、考えてみれば黄巣の乱の被害にあってない。
ここは、唐中期に反側の節度使がいたけど鎮圧されてから、あとは皇帝の逃げ場となって割りに安定していたようす。
乱を起こしたのはまさに王建で、異民族を多数引き入れもしたけど、国家作りもしっかりしていたので、中国王朝から離脱することはなかったみたいね。
そこは唐の知識人や中堅クラスの官僚たち(あるいはその方がかなりまともな良識をもった官僚だったかも)が中心となっていたからだろう。

それでも後唐が王師を派遣すると、もろくも滅び去ったけどね…

85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/30(土) 23:58:05 ID:kRR1OPEt0
でも、最後に、
宋が天下統一の過程で蜀を征服した時は、結構派手に掠奪をやらかして、
その結果、反宋感情を根づかせてしまい、
天下統一後もなかなか情勢が安定しなかったとか。

86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/31(日) 01:48:20 ID:pMUQdnVW0
ほぉ。 それはなかなか興味深い事柄だね。
蜀での略奪がひどすぎて、江南攻めのときには特に注意したほどという話だし。
反宋感情の背景に、反側の気風がそれに関わっているとすると、北宋の政策も完全とはいかなかったと取れるな。
どうなんだろう。


87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/31(日) 22:37:06 ID:YR7Y/NKW0
だから宋初には蜀だけ特別な経済地域として扱ったんだっけ・・・
鉄銭の使用と、それに続いて初めて紙幣の原型を導入したはず・・・

88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 15:45:45 ID:kUQs2Tdn0
清流を濁流へ

白馬の禍

89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 17:51:36 ID:XIePyQBl0
李茂貞が岐王に封じられるのは、旧唐書と旧五代史では違うのな。
旧唐書のとおりだと、景福元年(892)となって、朱全忠が東平郡王に封じられた3年後で、李克用の晋王より3年早いことになる。

そのころの唐は、まず朱玫を筆頭に、李克用・王重栄・新たに鳳翔節度使に抜擢された李茂貞らで、長安付近は嵐の只中だった。
朱全忠は秦宗権討伐で、徐州や淮西・淮南方面に勢力を伸張していた。
中央の荒れっぷりを横目に… という感じだけど、実際には秦宗権という害虫の駆逐に顔を真っ赤にしていたに違いない。

やがて朱玫の天下も終わり、ようやく長安に帰ってきた僖宗は、憐れにも死んでしまい昭宗が跡を継ぐ(がされる)。
で、李克用討伐令発布。→官軍ボロ負け。
西川では王建が平定しつつある。
李茂貞は兵力を温存していた。→興元(漢中)を取る。

この時点で長安に一番近い李茂貞が、二鎮を有し最強の勢力をもっていた。
朱全忠は山東を圧していたけど、遠い。
あるとすれば、この時点で岐王に封じたか。
しかし翌2年(893)、李茂貞は朝廷の討伐を受ける。しかし李克用のときと違って、ほとんど誰も加勢しなかった…
その後も、一応討伐令は継続していたようなので、岐王の号は令とともに削除されただろう。

で次、清流派たち(宰相や官僚)は朱全忠の武力を当てにし、皇帝擁する宦官に対抗しようとした。
そこで朱全忠がこれ幸いにと、長安まで軍を進め(このとき宦官をおもくそ殺している)たので、宦官らは皇帝を伴って鳳翔に逃げた。
皇帝を保護した李茂貞が、岐王返り咲きを強要したのだろう。
だから、『資治通鑑』ではこの年天復元年(901)に岐王になったとしている。
また『旧五代史』では光化中(898〜900あるいは901)としている。

一旦削除されて戻ったとするほうが自然だろうか? これ以上は今はまだわかんない。
李茂貞の絶頂期はまさにここまでで、虢県の戦いで朱全忠にわやくちゃに負けてしまい、以後は消えゆく残り火となる。

のくせに、後梁建国後、李茂貞は岐王府を開き独立国となった。
本来、五代十国には入らないけど、初期鳳翔を中心にあった国「岐」はここが始まり。
それ以前のほうが勢いあったのに、なんとも英雄になれなかったお人…




90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 14:02:21 ID:17GBGVst0
一つ間違えれば、朱全忠と李茂貞で立場が逆転したかもね。

91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/11(木) 01:23:41 ID:++Wd0zej0

うーん、李茂貞はどうかな。
朱全忠は一流の武将ではないにせよ、度胸や根回しは相当長けているからなあ。

92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/11(木) 17:32:13 ID:fGiIe/xn0
李茂貞は李克用に勝てたためしがないから、朱全忠と立場変わったら、西で李克用が暴れまくるだろう。
しかしその李克用とて、新王朝を築くには至らないかもしれない。
両者とも、唐朝の権威よりの立場だし、粗末な扱いはするにしても手にかけるかどうかは怪しいところ。
やはり、朱全忠というハカイダーがいないことには、腐った貴族官僚や宦官どもが、いつまでものさばり続けるだろう。

>>朱全忠は一流の武将ではないにせよ

皇帝就任以前では、十分一流の部類に入ると思うが。

93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/12(金) 23:37:19 ID:ARwXX2Z70
朱温って家族いたよね。
皇帝になった後、どんな待遇になったのかな。

94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/16(火) 11:08:35 ID:eqnoPpCV0
朱全忠が皇帝になる時、反対したのは兄一人だけじゃなかったっけ。


95 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/17(水) 14:16:28 ID:eVt7gI520
>>94 そう。

朱全忠ってやつは、息子の嫁さんにも手を出して、しかも息子はそれを容認していたという異常家庭の持ち主。
息子のほうは嫁が寵愛されれば、もしかして自分が太子になるかもと企んだわけだな。
朱全忠は、政戦両略のある逸材ではあるが、個人としては粗野な盗賊とさして変わらない。
その辺が、梁という国を保てなかった原因ではないかと思う。
次の代になると、朱全忠に従った有能な臣下たちは遠ざけられてしまったし。
翻って李存勗は、李克用以来の部下たちを120%コキ使って、梁を圧倒している。

96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/19(金) 13:45:25 ID:4vATWPGI0
そう異常とばかりも言えんぞ。
現代の日本企業でも、出世のために妻に上司の伽をさせてる
サラリーマンなんぞ、ゴマンといるだろう。
梁が短期政権だったから、スキャンダルが暴露されて記録に残っただけかもしれん。

しかし梁が短命だった理由の一つが、朱温のキャラにあったというのは確かだと思うが。

97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/19(金) 15:00:00 ID:/dny6RAj0
上司に妻を使って性賄賂を贈るってのは、
伝統的に中国、特に役人の社会で結構あったことらしいね。

98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/19(金) 16:34:15 ID:vohlH3W70
ソースは?

99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/19(金) 20:30:59 ID:L4YKjFI80
>>96 そ、そりゃ… そういうのもいるが… それ自体が異常なんじゃ…
しかし、そういう世界には関わりたくないもんだ。
自分の嫁だぞ。それを上司に… うえ、考えたくねぇ。
朱全忠と朱友文は、その異常さの報いを受けたけど、実際多くの仮子が同じことやっていたようだ。

親が子の嫁を寝取るというのは、伝統的にあるようだけどな。 玄宗とか、玄宗とか、玄宗とか。 

100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/19(金) 23:35:25 ID:Ov2VhAAJ0
>>98
いろいろあるけど、とりあえず官場現形記

101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/03(土) 23:55:48 ID:h8+xsO/m0
上司に性賄賂ってのは現代でもあるらしいよ、中国に。

102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/09(金) 12:08:42 ID:Wo6NbtdZ0
秦宗権(?〜889年)
 蔡州上蔡の人。初め許州の牙将となった。広明元年(880年)、趁軍の乱により蔡州に拠った。同年、黄巣の乱
が起こると、宗権は蔡州の軍により黄巣を討った。後に敗れて黄巣に降り、蔡州節度使と称した。陳州を攻めた
が、刺史の趙犨の堅守のため、落とすことができなかった。中和二年(882年)、黄巣が敗死すると、宗権は蔡州
で帝を称し、四方を劫掠し、暴虐の限りを尽くした。光啓三年(887年)、汴州に進攻したが、朱全忠に敗れ、勢力
が衰えた。龍紀元年(889年)、部将の郭璠に捕らえられ、朱全忠のもとに送られ、長安で斬られた。

103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 04:11:05 ID:jO8uTjcv0
>102
人の所の文章まるまるコピペしてんなよ。

104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 10:11:02 ID:iIrO7Xyw0
でもワロスことに、外字はちゃんと変換してるんだよな。

105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 13:12:19 ID:33ShAuPe0
秦宗権も悲惨だねー。
元々官軍側で、やむなく黄巣の賊軍に降ったのに、
大将の黄巣があぼーんして、一人で反乱続けることになって、
その黄巣の賊軍から朝廷に寝返って官軍になった朱温の討伐を受ける羽目になったんだから。

106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 13:24:00 ID:iIrO7Xyw0
>>105 都落ちした黄巣も、陳州で趙犨に300日足止め喰らったのが、響いたんだろうかな。
そのせいで、李克用がふたたびやってくるし、時溥も朱温もぞろぞろと集まってくるしで…


107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 14:08:13 ID:jO8uTjcv0
>105
ライブドアの平松社長みたいだな。

108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 23:28:22 ID:q7om0rGq0
秦宗権も皇帝を称したみたいだけど、国号は何にしたのかな?
蔡州節度使だから、「蔡」とか?

109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/11(日) 20:44:15 ID:UVxD9MB40
旧唐書にはとくに国号については書いてないね。
春秋戦国の頃の国号と対応するから、汝南といえば…
やっぱり「蔡」か?

110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/11(日) 23:47:31 ID:Wp3sCcEh0
大蔡皇帝

何だか新鮮な響きだ。

111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/12(月) 00:35:55 ID:x+uje/tP0
皇帝といわずとも、この頃は春秋戦国の地域名で呼んでいる部分が多い。 一貫してそうなんだけどね、現在でも。
独立した節度使は、実際に封じられてなくても王のようなイメージだったと思える。
幽州は燕(実際に大燕と号したけど)、鎮州は趙あるいは常山(真定というときも。節度使王鎔は趙王に封じられているが)。
宋州なんかも、単に宋とか。
あと地名で太行山脈以東の邢、洺、磁は山東と書いたり。
現在の山東省とは違うのでややこしい。


112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/12(月) 00:47:33 ID:5zSj65DP0
節度使の館って、王に封じられていなくても宦官を置いたりしたところも、
あったりしたんだろうか。

113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/12(月) 16:25:59 ID:x+uje/tP0
朱全忠が発布した、全国宦官抹殺キャンペーンに順じた連中は、たぶん以後も宦官をおくことはなかったのじゃないだろうか。
荘厳な宮殿みたいなのをもった節度使といえば、まっさきに幽州盧龍軍の劉仁恭が思い浮かぶけど、宦官がどうとかは知らない。
後唐になって荘宗が唐制の復活で宦官をまわりにべったり置きまくったから、またもとに戻ったろうね。
で、やっぱりその宦官のせいで郭崇韜のような名臣を敢えて殺すはめになっている。

114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/13(火) 01:43:32 ID:U7s5wC/i0
李茂貞の岐、劉仁恭の燕は、十国に入れてもらえないのな

115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/13(火) 12:03:27 ID:oaPTJ0hi0
たまに勘違いされているけど、劉仁恭は正確には王でも皇帝でもなく、節度使どまり。
皇帝を称して国号を燕としたのは、息子の劉守光。

劉仁恭は、城攻めのとき穴を穿って地下道から攻めることを得手としていたので、「劉窟頭」という渾名が付くくらい勇猛な武将だった。
あるとき夢で、「49歳にして節度使となる」と書かれた幟を見たことから、不逞な野心を蔵するようになった。
この時代、「節度使になる」は、日本の戦国時代でいう「一国一城の主」に匹敵すると思う。
で、最初は幽州を我がものとしようとしたけど失敗し、のち、李克用(わりに近いところの大節度使だったから?なにかパイプでもあったのだろうか…そこまではまだ知らない)に援助を請うた。
当時の幽州盧龍軍節度使を追い落とし、幽州を占領した後節度使を自称したわけだ。

大安山に帝王さながらの屋敷を設け、美女をはべらせ、国内にはそこらへんの芝を茶と称して売りさばき、国外から流入する銅銭は一切流通させず、かわりに粘土で通貨を作り、むりに流通させたorz
李克用の後押しを得て幽州を領有したものの、その目付けとして順州という幽州にほど近い、あるいはその動きを牽制できる位置にある州に、李克用の武将が配された。
それは当然のことだったけど、劉仁恭としては目障りこの上なかった。

やがて朱全忠が李克用の羽翼をもぎとる意味あいと、幽州を我がものとした劉仁恭への懲罰のため北伐を開始する。
当然ながら劉仁恭は李克用に泣きつき、李克用は朱全忠と対するものの、肝心の劉仁恭はいきなり順州を攻めたorz

順州の刺史は郭簡といい、この戦いで戦死することになり、ある人物の生涯に大きな転機を与えている。
つまり、郭簡とはのちの後周太祖郭威の実父だったわけだ。
2歳で孤児となった郭威は苦労してやがて劉知遠とめぐり合うわけだけど、その出発点をこしらえたのが劉仁恭とも言える。

背反が日常化している劉仁恭だけど、対朱全忠という論点からは李克用の味方と言え、この背信があっても李克用は攻めなかった。
ただし、死に際李存勗に三本の矢を差出し、「この一矢で汝は劉仁恭を討て。次の一矢で汝は契丹を撃て。最後の一矢で汝は朱温を滅ぼせ」と遺言している。

劉仁恭はこのあとはあんまり活躍しなくなり(というか、大安山に籠もって酒宴に明け暮れていた?)、朱全忠が皇帝になった直後攻められ、為すところがなかったけど、それを果敢に撃退したのが劉守光。
劉仁恭の次男で、父の愛妾と密通した咎で蟄居させられていたけど、幽州の危機に軍を指揮して後梁軍を撃退した。
そこで、この劉守光が父を幽閉して、西暦の911年、幽州と滄州というふたつの藩鎮を領有し、大燕皇帝と号するようになったわけ。
ただし、913年早くも李存勗に滅ぼされたから、たぶん十国に入るほどでもないと断じられたのだろう。
しかし、この幽州軍閥には、契丹で漢人体制を作った韓延徽や、かの馮道などがいたあたり、割合重要な藩鎮ではあります。


116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/14(水) 02:16:47 ID:ohJwvZzT0
>銅銭は一切流通させず、かわりに粘土で通貨を作り、むりに流通させた

おいおい……w

117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/15(木) 14:06:40 ID:nQ1yPcdZ0

なんか、領民が逃げないように焼印を入れたのも
たしかこの軍閥だったな

118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/15(木) 15:19:01 ID:w4+afH9A0
酷すぐる…

119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/15(木) 23:58:55 ID:+El2VFbQ0
乱暴な政権だなあw

この時代じゃ、節度使でこういうのは珍しくなかったのかも知れないけど。

120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/16(金) 01:02:23 ID:PSYqZwcj0
唐末から後梁期にかけての節度使は独立色が濃厚だから、領域内での無茶もいろいろやっている。
その節度使を抑制しようとする時期となった後晋のとき、宋州の趙在礼という古株の節度使は、統治領内での収奪が著しく
彼が転任(節度使が民衆や地主層とのつながりを牽制するため、短期転任が課せられていた。だから余計に収奪が激しい)するとき、その宋州領内の民衆は
「目の釘がとれたようだ!」
と快哉した。
それを地獄耳ながら聞き知った趙在礼は、石敬瑭に願い出て、もう一度宋州の節度使となった。
石敬瑭も宿将たる趙在礼を粗略にできなかった弱みもある。これはまだまだ皇帝権力が回復しておらず、藩鎮との力関係が微妙な証左でもあるようだ。

ともかく帰ってきた趙在礼は、「抜釘銭」と称して民衆から銭一千文ずつ支払わせたという。
ただ、こういう無茶をして巨万の富を得た節度使は多く、慢性的に深刻な財政難にあった河南王朝は、そういう節度使の溜め込んだ財産を狙ったりもしたものだったので、皇室の婿にしたりもした。

さらに同じ後晋期、主戦派の台頭によって契丹と手切れになったとき、その南下を一時食い止めるほどの活躍をして
戦史にのこるような戦いをした杜重威という節度使も、支配者としてはサイテーサイアクの悲惨なヤツだった。

121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/17(土) 21:24:23 ID:EGBNzf150
田中芳樹の短編集「五代群雄伝」の中の『張訓出世譚』に登場する妖怪妻は
《十国春秋》の呉十二列傳「張訓妻某氏」として立てられているんだ…
あの著者だから妖怪云々はオリジナルかと思ったけど、そういう伝説があるってことか。
張訓の風采に似合わない出世ぶりには、当時からなにかしらの疑問なりなんなりがあって
妖怪とか呪詛の類とでも思われていたのだろうか?
なにせ、「人の頭を蒸していた」とか尋常な言われ方ではないわな。

122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/19(月) 23:34:07 ID:+KbJOkWe0
田中氏の五代群雄伝って、いくつぐらいの短編小説が書かれているんだろう。
その張訓の話と、呉越の話、楚の馬殷の話とかを読んだ気がするけど。

123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/20(火) 00:36:41 ID:4WxylHkt0
あと「人皇王流転」があるけど…
もう素直に書き下ろしかなんかで、李克用あるいは王建書いてくれって感じだ。
中途半端に明宗や末帝出してきても、味もなんもあったもんじゃない。
とはいえ、たしかに短編に適したエピソードを持っている人物が目白押しだから、小出ししたくなる気持ちもわかる。
楊行密を書くなら、槊の名手朱瑾と射撃の名手米志誠あたりを基軸に書けるだろうし、「張訓〜」のように徐知誥出すのもありだろう。
1年に2,3本書いてくれればなぁ…

124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/20(火) 09:32:56 ID:zVGyjh9r0

123氏は、新旧五代史をよく読んでるの?

125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/20(火) 20:26:25 ID:4WxylHkt0
え? とても読めはしないけど、手元にあるから、なにか新発見(自分の中だけ)があると、うれしそうにここに書いてるだけ。

126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/20(火) 22:38:11 ID:RgHqYmkc0
旧五代史って完全なものはないんだよね。


127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/20(火) 23:06:47 ID:4WxylHkt0
>>126 途中で列伝の文章が終ってる人とかいて、結構気の毒…w
最近編纂された《舊五代史 新輯會證》では、補填がされて列伝もかなり増えてるし
注釈が多くなってるので重宝するんだろうけど、自分のようなひらがな頭には読みにくい… というのも
中華書局版の《舊五代史》は(新五代史もだけど)、名詞には縦線入っていて、素人にもわかりやすいようになってる。
同じ中華書局の《五代十国方鎮年表》も縦線入っていて見やすいから、ついそっちを見てしまう。



128 :こんな名無しでは、どうしようもないよ。:2007/02/24(土) 10:36:22 ID:sNgX4DBi0
後周の柴栄(世宗)なんてどうでしょうか。
彼がもう少し長生きしていたら、趙匡胤による宋は成立していたかどうか
わからないと思うんですが。いや、かなり微妙。
やっぱり功成り名を遂げるには、長生きが必要最低限の条件です

129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/24(土) 22:53:17 ID:Q2fDkW120
>>128 
>>功成り名を遂げるには、長生きが必要

長生きしたせいで晩節を汚した「元」英主がいくらかいるので、その主張は肯定しにくいなぁ
それにそのときの勢いというものがあって、趙匡胤は外征、内治の面で完成されつつある成果を継承した幸運児と言える。
対契丹防衛ラインや隴西奪還、淮南の攻略、北伐、開封の外城建設、黄河の大規模な治水等、民衆を酷使しまくった大事業は柴栄の代に行われており、その悪名も柴栄に対して向けられている。
ことさら趙匡胤を否定しないけど、というか好きな人物だけど、苛烈な改革の断行や仏教整理、節度のない者への極刑など、時代が変わる節目にあって劇薬となった柴栄を、後世、陰険とか猜疑心が強いとか、趙匡胤を持ち上げるような意図で書かれるのはどうも、ね。


130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/24(土) 23:17:31 ID:AnTNcKKc0
>>129
>対契丹防衛ラインや隴西奪還、淮南の攻略、北伐、開封の外城建設、黄河の大規模な治水等、
>民衆を酷使しまくった大事業は柴栄の代に行われており、

柴栄って、いろんなことやっいるわりに、在位たったの5年間なんだよね。

131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/24(土) 23:27:29 ID:Q2fDkW120
下準備は太祖郭威の時代に地ならしされていて、それを調理台の上に乗せて料理したのが柴栄。
ただし火加減は常に強火で、連日寝ずの作業という、そんな感じ。
倒れもしますわな…
禁軍の改変、皇帝権力の集中というのは、外すべからざる改革のひとつ。
当人は「10年で天下を平定する」気まんまんで、張り切っていたのだけど、体調の急変は過労だろうと思う。
最初は肺がんかなんかかとも思ったけど、たぶん睡眠時間などなかったに違いないw

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/26(月) 23:35:01 ID:THGhnWx10
この時代の南方の政権、南唐あたりが本気で南方をまとめ上げて、
天下統一を狙ったら、できただろうか?
あるいは南北朝体制に持っていけただろうか?

133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 10:06:09 ID:ShcWqJVv0
>>132
大唐スレの86引用(書いたの自分)

>>86 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 11:14:47 ID:Q6NE2SxT0
>>節度使って、使職なんだけど、のちには行政区分も兼ねるようになったんだよね。
>>従来の州県区分では、豊かになりすぎた江南江浙やらの民政統治がままならず
>>より大きな区画が必要になってきたから。
>>中唐に起きた軍乱、安史の乱以降は基本淮河より北の地での反乱が多かったけど
>>唐末になると、湖南や浙東を基軸に次第に北上していく兵乱および民乱が続発していた。
>>五代十国時代の十国が、華南にあってそれまでの例になく分裂していた背景は、
>>その節度区画と兵・民乱による相互連絡の分断と地域民とのより深い密着という点が大きいと思う。
>>それまでの歴史は、普通華北側が分裂し、華南は比較的分裂しない、というものだったのに対し、ね。

つまり、政権基盤がそれぞれにしっかりしていて、単純に武力だけの討伐はかなり難しかった。
江南国ではまず、呉王国の権臣徐温の専権によって王権が弱くなり、南唐建国移行への契機となった。
初代皇帝である烈祖李昪は徐温の養子(仮子)で、政戦両略があった英傑だけど建国後は内治に意を用い
隣国の呉越討伐論も退けた。
おかげで国力はおそらくトップとなったろう。
後を継いだ元宗李璟は、その国力をもって征討軍を出している。
しかし先にも書いたように、単なる力技で屈服するほど、華南の政権は弱くない。
李璟は閩王国の内乱に乗じてこれを滅ぼし、楚王国の後継争いの後押しを名分にして蹂躙した。

周辺十国政権で領土拡大ができたのは南唐だけだが(南漢も後で旧楚領を併呑するけど)、それとて完全併呑には至っていない。
征楚戦役では、大将・辺鎬の戦後処理の失敗から、占領地を放棄せざるを得なくなったし、閩平定戦のときは、後一歩のところで呉越の銭弘佐に大敗している。

それでも華南にあって最大の版図と国力をもった南唐は、その国是として中原回復を掲げた。
名分は南唐李氏が大唐李氏の末だからということ(むろんこじつけ)。

後晋→後漢のとき、河南王朝の反乱分子を扇動して謀反を起こさせ、契丹と結ぶなどして着々と準備を整えていた。
後周が起ったとき、北漢と共同して北進を開始したものの、これは北漢の敗退もありすぐ終った。
そのあと、南唐全土に大飢饉が発生することになった。
慌てた李璟は国費削減で対処し、北方防衛ラインである「把浅」をこのとき撤廃してしまった(後周がちょうど内政に重点を置いていたから)。

そこを快速を誇る後周世宗につけこまれ、淮南(江北十四州)での怒濤の奪い合いが展開された。
こうなると李璟は北伐どころではなくなり、いかに生命線である淮南を渡さないかに腐心した。
劉仁贍の堅守で長期にわたって抵抗はできたものの、後周が南唐を凌駕する闘艦を持ち込んだので
得意の水上戦ですら歯が立たなくなってしまった。
淮南を奪われた南唐はその最大生産地をなくし一気に弱小国となり、後周の従属国となったのでした。
(ちなみに、この南唐の転落で、後蜀を除く華南の政権はすべて後周を宗主国と認め入朝している)



134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 19:47:37 ID:1DqNPbT70
ある程度勢力均衡してしまってからは、十国政権に統一する可能性はなかっただろうな。
唐末の勢力なら秦宗権の蔡州軍団を孫儒より有能な誰かがのっとれば可能性はあったのではないかな。
あの軍が解体して、楚が誕生し、さらに呉と呉越の中核部隊にもなっている。
よほど凶暴な連中だったのだろう。

135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 21:17:01 ID:ShcWqJVv0
呉の軍団には、かつて朱全忠と抗争を繰り返した朱瑾なんかも参加している(中原から南に亡命するのは結構あることみたい。盧文進とか皇甫暉とか)。
その朱瑾や従兄で鄆州天平軍節度使朱宣の配下に、賀懐や康壊貞といった後、後梁で名を轟かす名将がいたのも、結構興味深いことで。
この朱全忠、朱宣・朱瑾従兄弟、秦宗権との戦いは、長安を中心に嵐が巻き起こっている一方での白熱した戦いなので、結構おもしろい。

>>孫儒より有能な誰か
孫儒も楊行密に勝ったりしてるし、かなり実力あったみたいですね。

136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/28(水) 18:13:21 ID:cFxzfGZc0

後梁が後唐に倒されるまでは十国にもチャンスはあったし、
それ以後でも契丹の介入に巧みに乗じれば機会はあったかもしれん

しかし、江南の連中からすれば、華北の軍閥の親玉たちは
恐ろしいヤクザ者であまり関わりたくないというかんじだったんじゃないか

137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/28(水) 22:41:35 ID:1wqODHDW0
>>恐ろしいヤクザ者

華南の連中もさして変わらんけどねw
この時代、誰も彼もがヤクザ化していて、心底義に篤いなんて人物は、それこそ数えるほどだろうと思う。
馬全節と杜重威という二人の節度使は隣鎮同士ということで比較される。
杜重威は後晋期を代表するケダモノ節度使で、馬全節はその逆の民衆のために収奪をしなかった。
後晋のその時期は(歴史上特筆するべき)とんでもない不作続きだったので、どの節度使も野獣化していたけど、馬全節はそうではなかったという、稀有な例外。

ちなみに、中原国家… ふつう河南軍閥というけど、これが契丹に蹂躙されたとき、秦・鳳の節度使が後蜀に領地ごと帰属している。
後蜀はとくに労なく領土を得た。
その秦・鳳は、後周のとき向訓、王景、韓通らによって取り返されている。
後蜀は中原に対しては強硬路線(屈さず)を通しているけど、積極的に出撃することはあんまりなかったようす。
どっちかっていうと、楚や荊南方面に動いていたようだ。


138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/28(水) 23:24:23 ID:VrroZAlQ0
五代の内、後梁以外は山西系軍閥だね。

139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 02:05:02 ID:wIAkmz870
ここにはかなり詳しい人がいるので聞いてみたいんだが、沙陀の連中は
民衆から収奪するばかりで、まともな統治をしなかったというのは本当だろうか。
それとも当時はどこも同じだったのか?

140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 12:23:45 ID:Fcn9qi5g0
>>139 学術的に詳しくないが、雑感として思うところを述べてみるテスト

山西に鎮した李克用には、方々での掠殺の記録もあり、統治はむろんするが、小さな過失でも容赦がなかったように思えます。
そもそも戦争屋としての資質が第一なこの軍閥にあって、毛筆関連は下に見る傾向があったわけです。
山西に根付く尚武の気風というヤツでしょうね。

ただし、河東監軍の張承業は別格であって、李克用のような暴れん坊が、この人をして師あるいは兄としたのは、珍しいことでもあったといえるでしょう。
李克用は部下の偏重が多く、人心の掌握が薄かったので領域内での反乱が多く、一時は滅亡寸前まで追いやられました。この辺、項羽的な性格だったと思える。
そこで山西が軍閥として崩壊しなかったのは、ひとえに張承業の手腕によるのではないかと。
張承業は在野の士を招いたし、馮道の登用を強く推したのも彼だった。
つまるところ沙陀出身で国づくりを意識したものは少なく、いわゆる漢人によって保たれたと思えるわけです。
また、劣勢な晋が梁を圧倒できた背景には、潞州の李嗣昭(李克用の仮子)の妻、楊氏の蓄財が大であったのです。
李嗣昭自身は勇猛な武将で蓄財の才能はなかっただろうけど、その妻に異様な才能があって、李嗣昭の家財は巨万となっていました。
山西は昔から鉄の産地で、その貿易によって荒稼ぎしたものと思われます。
名前は伝わっていないこの夫人が、晋をして梁に勝たしめた、とさえ言えます。

ちなみに収奪の度合いは、後晋中期にそのピークを迎えます。
出帝のとき後晋はとんでもない不作と黄河の氾濫にあい、国土は破滅寸前にも関わらず、主戦派のアホウどもが契丹との開戦に踏み切ったため、軍糧の調達でさらに疲弊を促していたのです。

節度使という制度自体が収奪を促すものであって、自制なき強者の私財収集は際限がなかったのです。

141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/07(水) 02:33:16 ID:tVYskyAI0

節度使悪玉説って、実際にはどうなんだろうね?
欧陽脩とかは、中華マンセーのガチガチの儒教思想だろうし
実態は日本の守護大名と同程度という気もするが…

もっとも日本でも室町後期の庶民は、守護大名の強力な支配より
将軍家や寺社のいい加減な支配を好んだそうだが…

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/07(水) 17:17:42 ID:e3GpkCVY0
>>141 その欧陽史に書かれているわけだ。
李克用の略奪も、だし、悪節度使についても書かれている。
「嗚呼、晋之事醜矣、而悪亦極也!」

杜重威、張彦澤、趙在礼と言えば、最悪節度使の典型だし、後唐の頃なら張筠なんていう、略奪で大資産家となったスゲーのもいるし…

ではなんで、そんなことになったかと言うと、そこが日本の大名とは違うところ。
在地の民と融合して強大な勢力となった河朔三鎮の例があり、在地住民とのつながりを恐れた朝廷が、節度使の任期を数年とかにして、短い期間で統治者を変えていったのです。
それによって、節度使が在郷の士と協力して反乱を起こすことへの牽制としたわけですが
結果としてその手法は、節度使が任地にある間に、できるだけ民から収奪し、中央へ送る税を差し引いても巨額の富を懐に残すようにやっきになったわけです。
転任してしまえば、後は知らーん、ですから。

だからと言って、節度使の制度を撤廃したり、そのことを是正できるほど、このときの皇帝は権力がなかった。
後周の慕容彦超の乱を最後に節度使の反乱が落ち着き、ようやくまともな「国づくり」ができるようになったわけで
それまで中原王朝なんて呼ばれますが、実態は唐の亡霊朝廷に任命された統治領域が広い藩鎮でしかないわけです。


143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 00:56:14 ID:WVPcmY9D0
慕容彦超さんって、鮮卑の末裔?

144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 12:12:27 ID:IrKClpye0
>>143 吐谷渾の末裔ってことになってるみたい。
しかも、「漢高祖の同産弟なり」って… はぁ?
注釈に、《廿二史考異》で「異性やのに同産て称しとるんは、母方が同じいうことやろうなぁ」とあるから、劉知遠と異父兄弟?

劉知遠は突厥系沙陀だけど、慕容彦超のオヤジ、慕容亮は吐谷渾… だから鮮卑慕容氏の末裔で正解なのだろう。

145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/11(日) 13:07:54 ID:V1bx3Fyb0
岐の李茂貞って誰に滅ぼされんだろう?後梁、後唐?

146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/11(日) 19:57:32 ID:UYbCS0Gg0
李茂貞は後梁のとき、反発して岐王府を開いて以来、一応独立だったわけだけど
その勢力自体はすでに朱全忠が梁王のときに、頭を抑えられていた。
後唐が汴梁を陥としたとき、降伏を申し出ている。
後唐のとき、息子の李従曮はそのまま鳳翔を任されており、明宗にときに出鎮したものの
末帝以後(この末帝のとき、鳳翔支配時代の資産はまき上げられている)、ふたたび鳳翔節度使のもどり、秦国公、岐王、秦王と累進した。

と、いった感じ。
鳳翔も李茂貞の支配以前から、雄藩として一目も二目も置かれていた重要な藩鎮だけど、この時代
どうしても目は東を向いてしまうので、忘れられがち。
思い出したように行われる、蜀との戦いで出てくるか、有力節度使の歴任の中に出てくるか
くらいの印象が、今の自分には強い…w

147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/12(月) 23:30:44 ID:vmMeqhK/0
李茂貞って五代のほんとに最初の頃に出てきて
その後の消息がわからなかったから教えていただき
ありがとうございました。

最初は準レギュラーで登場してきて、後になってチョイ
役で出演したって感じかな。

148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/12(月) 23:44:07 ID:m/oy1/wy0
この時代は再嫁が多そうやな

149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 22:31:03 ID:0I5Fgi7Q0
>>147
>>89で李茂貞について、ちょっと書いてみたんだけど、最初はたしかに強かったんだけどねぇ…
あわよくば、皇帝を擁して長安を臨んだだろうけど…
朱全忠のほうがはるかに上手だったw
咸陽から鳳翔へ至る野戦では、ほとんど康壊貞のためにやられている。
李茂貞も自身が出ているのじゃなく、符道昭という将軍を遣わしていたけど。
この頃、鳳翔には昭宗以下宦官のお歴々が大挙として逃げ込んでいたので、自らの出征は許されてなかったのかも。
出て行った先で朱全忠と企んで、自分らを殺しに来る、とかね。
結果は、李茂貞の惨敗で宦官さまたちは、朱全忠の歓心を買うため李茂貞によって大半は殺されたし、降伏後は朱全忠の手によって斬殺された。
どっちに転んでも滅びる運命だったようだw
しかもこの後、朱全忠の武力を頼った名門官僚たちも黄河に投げ捨てられたとさ。

150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 23:01:32 ID:0I5Fgi7Q0
追記。
李茂貞も虢県の敗戦以降も、出撃して一度は朱全忠を苦境に立たせているようだ。
ただし、すでに汴軍は岐州(鳳翔節度使の治所のある州)の包囲にかかっていたので、最終的には挟撃され敗退したようです。

しかもこのとき、実は黄河を越えて、李克用とも戦っていたんですよね(前年から太原包囲作戦発動中)。
李克用には朱友寧と氏叔琮を遣わして、太原の包囲寸前までいっていた。
実は李克用も滅亡寸前だったという…
(義児将の李存信が、太原を捨てて韃靼へ逃げましょうと提言し李克用も気落ちしてその気になったけど
夫人の劉氏に「あんな羊飼い風情に遠大な戦略はわからないのです。莫北へ逃げたとていつ戻ってこれるか知れたものではありません」
と、きつく叱られ、また周徳威らの必死の嘆願で踏みとどまり、どうにか延命できたのです)

鳳翔包囲中に軍中に疫病がはやって、朱全忠もちょっと苦しいところだったわけで、それで李茂貞を完全に覆滅するんじゃなくて、和平におよんだのかと。
あと、東の青州軍閥の王師範が、稀代の名将・劉鄩サマを遣わして、兗州を奪ったという事態も、朱全忠を帰す契機となったのかも。

まぁ、このあたり読みきれていないので、ほんとかどうか…(おいおい)

すごいね、朱全忠。

151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 23:49:33 ID:0a13yIQF0
李茂貞に朱全忠を凌駕する軍事力が備わっていたら、
どうにかなったかな?

位置的には長安に近いから有利な気もするけど。

152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 11:35:52 ID:b1KbNZ8x0

ウイグルや吐蕃を引き込みやすい位置ではあるな
本気で勝ちたかったら、そこまでやってたと思われ

153 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 13:25:56 ID:be3lyUeC0
ウイグルも吐蕃も国家としては既に崩壊していた筈

154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 14:52:40 ID:r1u2hUxR0
この時期だと、ある程度の兵を得ることはできても、
強力な後ろ盾というわけにはいかないだろうなあ。


155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 15:43:37 ID:9SYizXpo0
この頃となると、かの大帝国ともいうべきウイグルは瓦解していて、また吐蕃も失墜していた。
巨大帝国の連鎖崩壊というヤツです。むろん唐もガッチリ含まれています。
河西方面ではタングートが強くなってきてたかな?
河西方面を地味に押さえていたのは、夏州の拓跋思恭。後の西夏国祖。

節度使の軍隊は、基本傭兵なんで、ウイグルの一部くらいは指揮下に組み入れていたろう(未確認)。
でも、沙陀の東進と契丹の拡張で、けっこうスッカスカだったように思える。そっち方面。
やはり熱いのは、沙陀と契丹の台頭。
朱全忠の梟雄爆発の東奔西走っぷり。
ただなぁ…
朱全忠ってやつは上のほうにも書いたけど、女性関係が悪すぎる。
李茂貞の味方に、邠州の楊崇本という武将がいるんだが
この人、もともと朱全忠の西進にあわせて協力したのだけど、じつは奥さんがすごい美人で
朱全忠が寝取っちゃったということがあり、激怒して李茂貞に付いたのでした。

それもあって攻めきれず、鳳翔方面は放置というかたちになり、まぁ昭宗も手に入れ、洛陽遷都を強引に進めればいいか
ということで、朱全忠の天下が始まるわけです(若干地盤が弱いと思うのは気のせい?)。

昭宗も洛陽遷都後は、どうにかして朱全忠の手を逃れたいものだから、李克用をはじめ李茂貞、王建、楊行密らに密使を送ったが
実はそれら軍閥も単体では朱全忠に抗することはできない状態だったので、まぁ絶頂期でしょうねぇ。

まるで、織田信長と足利義昭みたいな流れだけど、天下の形勢は爆裂児・李存勗が出るまで朱全忠の天下とみなされた。
言ってみれば、武田勝頼が信玄を越えるいくさ上手で、織田信長は連戦連敗するような場面がこのあとにつづくと思えばわかりやすいかも…(まじ?)


156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/16(金) 21:41:56 ID:ECZVEMPw0
好きな五代群雄
王建
李克用
柴栄

157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/16(金) 23:28:20 ID:bZ1szuKd0
>>155
朱温って女癖悪いよね。
自分の息子の妻たち、つまり嫁たちを、
「ちょっと具合悪いから看病しに来い」と宮中に召し出して、
いたずらして遊んでいたんだろう。


158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/17(土) 00:11:34 ID:pajd0Pms0
>>156
自分は、柴栄大好き人間だけど、それ以外の群雄クラスなら
李存勗、徐知誥、銭弘佐、あと高従誨とか面白いかもしれないなぁ。
武将クラスで言ったら… 多すぎる。

もちろん李克用も好きだけど、李存勗のインパクトには敵わないだろうなぁ。
後梁の名将・劉鄩と李存勗の虚虚実実の駆け引きは戦史に名高いし(莘県城塞の戦いなど)
結局、そのせいでか劉鄩は名将の評判は高いのに、負け続きでかわいそう…

159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/17(土) 08:45:17 ID:5UHmYgvz0
逆に嫌いな群雄
燕雲十六州を売りやがった石敬瑭
目抜きの韓通


160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/17(土) 14:57:13 ID:7NR9qiC30
燕雲十六州を割譲して非難されるけど石敬トウも異民族でしょ?
異民族が異民族に臣従したんだから別に大した事じゃないと思うんだけど…
石敬トウが非難されるのは最後まで燕雲十六州を奪えなかった北宋の怨みから?

161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/17(土) 18:53:19 ID:AcXyJdd70
まあ、激しく非難されるいわれもないだろうけど、
絶賛されるいわれもないなあ。


162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/17(土) 18:55:49 ID:AcXyJdd70
それと、石敬瑭の後晋の代に、契丹と関わりを持って、
大々的な侵略を招いて、虐殺やら掠奪やらされちゃったから、
そのへんも負の評価を受けやすい下地となっているのかも。

163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/17(土) 23:05:55 ID:5UHmYgvz0
『独裁君主の登場』という清水書院から出てる本で契丹のいわゆる
「打草穀」が描かれているが、学生のときにそこのところを読むと
気持ち悪くなってしまった記憶がある。

164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/18(日) 02:07:54 ID:HFLU/GYp0
石敬瑭が燕雲の地を質に出したとき、すなわち後唐末帝のときは
石敬瑭と並ぶ軍閥である幽州盧龍軍の趙徳鈞が、同じように契丹の後押しを得て中原に乗り込む画策をしていた。
しかも石敬瑭は朝廷から猜疑を受けていて、遠からず軍閥解体の危機に瀕していた。
そういうこともあって、自分が生き残るためには早急に契丹を動かさねばならなかった。
劉知遠や郭威などは、そこまで譲歩する必要はないから、と諫めもしたが、すでに後唐の討伐軍が向かっていることもあり、割譲の手配をした。

事実、そこまでしないと契丹は動かないし、またその助力があってさえ、後唐の張敬達、高行周、符彦卿らには勝ったり負けたりで、一時膠着したほどだったし。
まぁ、そこまで後唐末帝も弱くはなかったということ。

問題は割譲の件なんだけど、易定・幽州以外のほとんどは、すでに後唐時代、契丹の攻略を受けた山後の地でもあり、実質は契丹の領土範囲(支配力は薄いものの)と言っても過言ではない状態だった。
それだからこそ、要衝である幽州の割譲は契丹からすれば垂涎ものだったのだろうけど。
ただしそれは「後晋」国がやったことで、後代の王朝がそんなことにまで遠慮するわけにはいかず、本来自分たちの領土だったものを返せと言うわけだ。
燕雲十六州をわずかでも取り戻せたのは、後周世宗あるのみ。
契丹=遼が在るあいだ、ついに奪い返すことは北宋国をもってしてもできなかった。

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/18(日) 03:33:33 ID:taI7aEub0
後晋も契丹相手にかなり善戦したんだよな。
当時契丹に喧嘩売ったのはあまりいい判断ではないけど、
全く無謀ってわけでもないような気がする。

166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/18(日) 19:56:33 ID:HFLU/GYp0
>>165
残念ながら、無謀以外の何者でもなかった。
当時後晋領は、記録的にひどい旱魃と飢饉と大雨にみまわれ、石敬瑭の没年から後晋が滅びるまでそれが続いていた。
当然、収穫は絶望的だし、民衆は多くが離散していた。
そんな状態でありながら、ただ自分たちの地位を優位にしたいというだけで、契丹にケンカを売ったわけだ。

どういうことかというと、契丹の援助を得て共存することで後晋という王朝を建て、その交渉などに携わったことで功績を残したのは文官が主。
で、石敬瑭は武人を抑制するために、文官を重く用いようとした。
従来の中国の政権では、それが常の姿なのだが、唐末の動乱から武人優位が続いていた。

つまり、そういう石敬瑭の文人優遇に対する反発心と不安感が、武人たちをして親契丹を主張する文人とは違う意見、反契丹を唱えさせるに至ったわけだ。
そしてあろうことか、武人にありがちなことだけど文を軽視し、平和な世に満足できず、たえず動乱を望むような不届き者もたしかにいた。
そういう連中は、意気盛んに契丹との交戦を声高に叫ぶが、残念ながら契丹が南下してきたとき
身命を賭してそれを撃退したのは、それほど契丹との手切れを望まなかった良識ある武人らであって、交戦を主張したヤツではなかった。
まして、国内の内乱と契丹の南下を同時に防いでいた朝廷司令部の最高責任者は、なんと石敬瑭が太原で独立するとき、契丹の援助を絶対に取り付けなければならないと主張して実行した、文人の桑維翰だった。

つまり、交戦を主張したアホ武人どもは、粋がっているだけでなにも為すところがなかったという皮肉。
で、その桑維翰も一旦危機が去ると、武人連中がわいのわいのと騒ぎ立て、地方へと転出させられてしまう。
そして、三度目の契丹南下。
結果は周知のとおり。

167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 20:08:44 ID:8pcgF4QA0
後晋の場合、桑維翰と肩を並べられる人材がいなかったような気がします。
王朝に対する帰属意識、ないしは忠誠心の高さも含めて。
どうやって王朝を強くしていくか、そのグランドデザインを描ける逸材が
残念ながらいなかった、と(景延弘は論外…)。
個人的に、桑維翰は契丹という外圧を利用して、皇帝権の確立と節度使の
権限奪取を進めていたんではないかと思うわけですが。

五代会要などを読むと、後唐時代より後晋時代の方が中華王朝としての
体裁を整えているように見えます。
例えば、後唐時代には律暦礼楽の制定まで手をつけていないんですけど、
後晋時代になると一応全部制定されてるんですよね。
暦を作って正朔を奉じさせることと、皇帝の権威を示す指標となる、
中央の儀式の代表である礼楽の両方を整えられたというのは、後晋の
集権化がある程度の実をあげていた、ということなのかな…などと
考えていたりします。
この時代の専門家の方には怒られそうですが(すいません)。
しかし、中国史全体を通してみても、景延弘は駄目な臣下として
トップクラスじゃないでしょうかね?
桑維翰のやったことを全てひっくり返した結果が国の滅亡…。

168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/28(水) 02:23:16 ID:3CY9ORIA0
>>後晋の 集権化がある程度の実をあげていた

後唐明宗から兆候があり、石敬瑭もそれは強く意識していた。
強幹弱枝の最初の例なんでしょうねぇ。
だからこそ、安重栄とか楊光遠とか、節度使らの強硬な反発を招いており
その鎮定に終始するに終ってしまうという。
変化のあるときの副作用。

後漢も後周初も、同じことを徐々にやっており、ようやく主だった節度使の乱が収束したかな?
というところにこぎつけて、柴栄さんの登場ということになりますか。
ヘタレと言われますが、石敬瑭は治績の面では、かなりの名君とも言えますよね。
印刷技術の発達もこの頃を境に発展しだしたんじゃなかったっけ…

>>167 《五代會要》読んでるんですね… いいなぁ(持ってるけど、開いてないw)。


169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/03(火) 19:54:43 ID:P41V3Neb0
寇彦卿、あざなを俊臣。
大梁(汴州)出身で、父の寇裔は宣武軍(汴州)の牙兵(親衛軍校)だった。
朱全忠が汴州に移鎮してくると、寇彦卿は抜擢され、その左右に侍衛する。
元帥府押衙・四鎮通賛官行首兼右長直都指揮使(通賛官ってなんだ?)となる。
洺州(めいしゅう)刺史となって、魏の羅紹威と境を接する。

羅紹威は文に傾斜する資質の持ち主だが、魏博を治めるには武が必要。
そこで、魏博の兵は羅紹威を軽く見て乱を起こすが、羅紹威は朱全忠を頼る。
朱全忠は寇彦卿をして共に謀らせ、乱を鎮定させた。

寇彦卿は身長八尺、鼻筋が通って四角い感じの顔つきで、貴人の相をしていた。
その声はまるで鐘の鳴るがごとく。
騎射を善くし、史書を好み、またよく朱全忠の意を知り、その所作はきびきびとしていた。
朱全忠はよく言った。
「敬翔、劉捍、寇彦卿らは私自ら育て上げたのだ」

朱全忠は自身の乗馬であった駿馬、号して「一条烏」を寇彦卿に賜った。
天復中(902)、岐王李茂貞の使府に連れ去られた唐昭宗を迎えるべく、朱全忠は西進した。
岐軍との戦闘中、寇彦卿は「一条烏」を駆り陣中を駆け巡ったので朱全忠は感嘆して
「まさに神王なりや」
と言った。
岐軍を封じ込め、昭宗を奪還した朱全忠は、寇彦卿の勇ましさを讃えて、邢州刺史、亳州団練使とされる。
ふたたび李茂貞が長安をうかがおうとすると、朱全忠は寇彦卿を遣わして昭宗に遷都の要請をさせた。

このあと、呉越王銭鏐が、淮南への合撃を要請してきたので、寇彦卿が遣わされた。
寇彦卿は二千ほどを率い、霍丘に兵を進めたが、土豪で勇略のある朱景のために敗れ、空しく兵を返した。

朱全忠が帝位に就くと、華州節度使から検校太保を加えられ、左金吾衛大将軍などを歴任した。
某日、天津橋に一人の老人がいて、御者が誤って突き飛ばしたので、橋から落ちて死んだ。
これは御史府の責任で、寇彦卿は責めを受け左衛中郎将に落とされた。
数ヶ月経って相州防御使となり、さらに経って孟州節度使とされた。
朱晃(朱全忠)が息子の朱友珪に殺されると、旧恩を思い出し涕泣したという。

末帝(朱友貞)が二代目皇帝となると、興元府(漢中)の節度使を遥領され、また東南面行営都招討使とされるが
淮南への侵攻は拒んだ。
貞明年間(915)の初め、鄧州節度使(南陽)とされた。
淮南の安陸が呉軍に包囲され、詔を奉じた寇彦卿は兵を率いて囲みを解き、呉軍を大破して安陸を救った。
貞明四年(918)、自領の鄧州で死去する。享年57歳。

寇彦卿は性根がまっすぐで明敏、よく主に仕える。 しかし、自身に確たる価値観が存在し威風があった。
功為し名を上げるといえども、殺戮することをできるだけ避けた。
どうして識者の卑しむところと為すだろうか。


う〜ん。 最後の方とかかなり怪しいけど、だいたいこんな感じか。
名将っちゅうか、重要人物。

170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 19:01:44 ID:H0UKMwgiO
>>169
えー以前他スレで李晟は五代の人物なら誰に相当しますか?
と尋ねた者です
こちらに寇彦卿について詳しく書き込みなされていると拝見し遅れ馳せながら
やってきました
寇彦卿について良く理解できました
朱全忠が何かと頼りにした人物の様な印象を受けました
>>169氏には大変お手数を掛けました

171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 23:18:18 ID:sd4ZCG8t0
>>170
これはどうもご丁寧に。
まぁ、自分も趣味の一環なんで、手数でもなんでもないですよ。
朱全忠の勢力立ち上げ時期は、まだ把握しきれていないので上っ面の訳くらいしかできない。
また突然、なにかを書きだすと思います。

172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/11(水) 19:50:58 ID:+rb2+Qhi0
後梁の末期は後唐もかなり苦しい状況になっていたらしい(特に財政的に)。
そんな状況だからこそ李存勗はあえて敵の本拠地を直撃することを選択し
それを成功させて一気に戦争を終わらせた軍事的才能はさすがだが、一方で
朱友貞があまりにあっさりあきらめてしまったのが気になる。籠城するなり
西の洛陽に逃れるなりしてしばらく時間を稼げば、勢いに任せて突っ走ってきた
後唐軍は退却を余儀なくされたのではないかと思うんだが。
もしかしたら後梁は既に崩壊寸前で敵が開封に迫った時点で命運は決していた
ということなのかもしれないが、漢文が読めないのでよく分からん・・・。
誰か教えて。

173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/11(水) 23:26:01 ID:mTDYX8mH0
胡柳陂の戦いまでは、結構一気に晋軍は押したんだけど
そのあと、鎮州で趙王王鎔が張文礼に殺された乱で、晋軍の主力将帥の
主だった者が戦死するというすさまじいことになったので
梁としても幾分生きながらえた。

しかし、その梁でも皇帝の左右に佞臣がはべりだし(趙巌とか)、また二代目の宿命的な
先帝の重臣を疎んじる、というやつに陥り朱晃以来の名将・名臣の言を用いることが少なくなっていた。
態勢を立て直した晋軍がやがて黄河を越えてくると、梁は王彦章を用いるようになったが
その王彦章の武威を恐れた趙巌らが、これにまったく協力しなくなり、あげく違う将を立てたので
宿将・兵士らは憤慨し、王彦章以外の将帥のために戦おうとはしなかった。
ついには、その最後の防壁ともいうべき王彦章は晋に擒えられ斬られるに至る。

そのあと晋軍迫るの報に朱友貞はただ泣くだけでなすところもなく、また趙巌らもさっさと逃げ出していた。
徹底抗戦するにも、すでに朱友貞に兵士の人望はまったくなかった。
覚悟した朱友貞は侍臣に首をはねさせて終る。

朱友貞自身はそれほどバカではないのだけど、先帝以来の臣を使い切れない、あるいは使いたくない
そんなヘンなプライドでせっかくの名将名臣を埋もれさせ、あるいは互いに破滅させ、うまく機能させられなかった。
その点、李存勗はいっぱい戦場で失ったものの、各々の実力を出し切らせているのはさすが。
ただし、猜疑も一緒にあるので、結局その人心掌握には失敗し、李嗣源をして軍乱による擁立という
五代の伝統を招いてしまうことにはなるけど。


174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/11(水) 23:59:01 ID:mTDYX8mH0
一軍中に五帝あり。
という、有名な言葉がありますが、李存勗が晋王のときの軍団には、後に皇帝となる
人物が5人いたということ。

李嗣源の仮子である李従珂、帳下の将である石敬瑭、さらにその部下たる劉知遠。
しかも石敬瑭は李嗣源の娘婿…
李嗣源軍団はすごいことになっています。

一応、李存勗も含めて「五帝」なはずです。
ただし、ただしですよ。
実は、鎮州でかの張文礼が乱を起こした戦いで、潞州の重鎮たる李嗣昭が戦死し
治所たる潞州では、李嗣昭の息子らが遺産を巡って、晋から独立したことがあり
そのとき募兵に応じて、若き日の郭威がはじめて兵士として志願しています。
しかしすぐに鎮圧され、その兵士らは李存勗の親軍に編入されたので
これを合わせると六帝ということになりますか…

柴栄はその頃2歳かそこらなので、邢州の別荘でばぶーとか言って弓とかおもちゃにしてたのだろう。
あるいは農夫の人形でもいじっていたか…(んなわけないか)

175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 01:14:24 ID:UHDVDJWa0
敵対勢力を倒して勢力拡大した暴走族が、内部抗争で次々とリーダー交代。
しかも、その中の一人がヤクザに応援要請して大変なことに。
最終的にはヤクザにお金を払って許してもらった。

176 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 08:36:41 ID:esxZhEKU0
>>175
言えてるw
で、その最後の一人が、ヤクザを凌ぐ軍団を作り
支部の2,3個ぶっ潰したが、惜しくも若くして病死した。
ってね。

177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 23:42:11 ID:atgc4kEh0
五代って、経済力は伸長したのかな。
それともやっぱり戦乱で人口が減って、生産力も落ちたかな。
地域によってかなり格差があっただろうけど。

178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/13(金) 00:04:18 ID:GvRJnFDj0
なんかほとんど脊椎反射のように書き込むけど、別に監視しているわけじゃないよ?

安禄山の乱以降の経済不振のなかで、官塩が復活して以来、貨幣経済が浸透しだした。
それによって、経済面でも近代化が進み、江南や蜀などは特に豊かになっている。
華北においても潞州の李嗣昭は(その奥さんが)特に資産家であって
晋の軍事支出を支えたというのは、つとに有名な話。
また、文化面でも後晋期には印刷技術や、火薬の新兵器とか、いろいろ発展している。

農民は基本、国家からの賦役逃れで姿を晦ますけど、その多くは新興地主層の荘園に入り
その農夫としての労働力となっていた。
国家が兵士に徴用、あるいは税の対象とできなかっただけで
生産力それ自体にそれほど影響は無かったのじゃなかろうか?(これは未確認)

貨幣経済については、北宋が後蜀を降したとき、貨幣不足から独立国だった頃の通貨を
そのまま流通させないといけなかったので、政権としては統一したものの
経済側面では依然分裂した状態だったという。
それが究極的には四川にあった反宋感情の土台ともなったのじゃないかと思ったり。
(直接的には北宋軍の略奪がそうだけど)

あと重要なのは、柴栄が行った仏教団体の整理。
賦役逃れで出家していたものなど、多くの似非僧侶を還俗させ生産力に還元させたし
銅器や仏像を鋳潰して、銅銭に変えたのも、ものすごく画期的なことだった。
当然、仏教側からは「仏敵」呼ばわりされたけど、まったく意に介していない。
でもその呪いで早死にしたのかもしれないなぁ…

179 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/21(土) 13:43:02 ID:4WVGkWum0
三武一宗の法難による仏教弾圧って、堕落した仏教勢力の整理のために行われたものが殆んどなんだよね
行った皇帝は殆んど有能な君主ばかりだし

180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/21(土) 23:14:57 ID:ouhgef9Z0
寺に財貨がある方がおかしいわな

181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/22(日) 14:40:07 ID:mpAgslZN0
>>180
今の世に、こういう権力者が現れたら、顔面蒼白になるのは池田大作だけではないはずだw
柴栄は庭に農夫の像を置いて、いつも民を気にかけるようにしていた。
しかし、彼の急進的な改革には、まだまだ民に苛酷な負担を与えねばならないものが山積みだった。
戦乱で人的資源が枯渇していたというのとあいまって、銅銭の不足もあるし
後晋期からの黄河の氾濫で川筋の修正と堤防の建設といった治水
さらには京師開封の新城壁建設など、どれも膨大な人手が必要な作業だった。

加えて、北漢への遠征、淮南への侵攻など、民を十万単位で戦線に投入してもいる。
ただ、北漢の遠征は完全なる勇み足の失敗で、なんら益するところはなかったけど
他の作業は民へと還元するところが大きいのは注目するところ。
淮南の塩は国家財政を著しく好転させもしたし。
仏教の整理もとくに道教がらみの発想からでたものではなく
単なる不合理の調整という感じ。
そもそも仏教団体がなんで荘園をもって、そこに農奴的な労働者を雇う必要があるか。


182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/24(火) 23:59:31 ID:EsbwCguP0
皇帝がたくさん出たから、五代群龍伝としたいところだな。

183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/25(水) 17:53:45 ID:hI58zBcG0
蛟レベルの奴もおるがw

184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/26(木) 13:11:14 ID:ErIId9rh0
五代歴代皇帝で、こいつだけは問答無用でアホ
というのは、後漢の二代目、隠帝こと劉承祐くらいだな。

その他の皇帝は何かしら見るべきところがある。
へたれ呼ばわりの(自分も言うが)石敬瑭も、政治的なものは評価できる。
武人を政治から遠ざけようとした改革の初期の例であり、その反発がひどすぎたので
内部反乱が特に多かった治世でもあるけど、いままでの流れをぶった切ろうとしたのは
後代へのつなぎという点では良い。
治政も印刷技術の発展とかもあり、反乱はあれど民政はいい状態だった。

劉知遠は石敬瑭よりひとまわり、政戦に長けた人物。
とくに石敬瑭の太原時代、実戦指揮はほとんど劉知遠がやっており
またその頭脳的役割も担っていたので、全体的な戦略構想の進言も多かった。
長寿であれば、かなり有能な名君として君臨できたろうが、両人とも自立した時期が遅すぎだった。

で、この名君の可能性のあった劉知遠の後を継いだのが劉承祐。
こやつは劉知遠時代の功臣を、口うるさくて邪魔だからと暗殺し
最終的には郭威に返り討ちにされた。
まさに擁護の余地も無い自分勝手な皇帝だった。

185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/27(金) 02:09:04 ID:lMFDcjyr0
五代の皇帝格付け

1 柴栄(後周世宗)言わずと知れた五代最高の名君
2 李嗣源(後唐明宗)言わずと知れた五代二番目の名君
3 朱全忠(後梁太祖)新たな時代を切り開いた人物ではあるが・・・
4 郭威(後周太祖)よく知らん
5 石敬瑭(後晋高祖)割と有能らしい。最大の問題は契丹に対する低姿勢だが
  澶淵の盟を考えれば同時代の人間と比べて七十年先を行っていたと言えなくもない。
6 李存勗(後唐荘宗)バランス悪すぎ。
7 朱友貞(後梁末帝)在位十年。五代最長。

11 石重貴(後晋出帝)石敬瑭の苦労が水の泡
12 劉承祐(後漢隠帝)>>184  

1年足らずで病死した劉知遠はちょっと評価しづらいので除外。

186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/27(金) 10:15:22 ID:BWsgFACh0
そうか、後梁末帝が実は一番在位期間が長かったのか…

朱全忠は優れた政治感覚の持ち主で、戦争は大概部下が手柄を立てていた。
もちろん自身も出征して督戦しているわけだが、それよりもそれだけあっちこっちと動きながら
他勢力の動向を見極めて戦略的に追い詰めたり、動けなくしたりしている。
そのうえ民政もうまくいっていたようだ。
私生活がアレな人だけど、君主としてはなかなか。
なのに、ああそれなのに。
劣勢で詰み寸前だったはずの李存勗に、野戦で3度まで大敗を喫し終わる。

朱友貞は元来、なかなかの人物なわけで、朱全忠亡き後
どうにかこうにか李存勗の南下の勢いを減殺しようとして、それはある一定の成功を収めていた。
ただし、この人も結局、先帝の功臣にでかいツラされたくないという心理が働き
軍政を一手に担う敬翔や、名将の劉鄩とかを、ついに効率よく使うことができず
王彦章ですら、手柄を挙げたとたん見放している。
左右に趙巌とかいう派閥次元の視野しか持たぬ、人間の皮をかぶったダニを置いたからだ。

後唐の愍帝こと李従厚は李嗣源の実子なんだけど、すぐ李従珂に攻められて終る。
李従厚は幼名が「菩薩」なわけだが、政治的実績はなにも示すことはできなかった。
5ヶ月。これ、最短命なんじゃないかな…

後唐の末帝、あるいは廃帝こと李従珂。
この人は勇猛な武人で、石敬瑭とは李嗣源時代からのライバルで、常に競争心をもっていた。
そこで、この石敬瑭を弱らせる方策をとって、反乱に追い込んだ。
当初は張敬達らの太原攻撃で有利に進めていたけど、石敬瑭が契丹の援助を得たので
逆に攻められる立場になってしまった。
晋安で張敬達が契丹ら連合軍を足止めしている間に、河北一円に長大な包囲網を組んだけど
張敬達の副将である楊光遠が裏切って主将を殺し、契丹に投降したので終った。
評価しようにも、何をもってすればよいのか…
武将としてなら、そこそこ有能ではあれど。
粛清しようとした相手に反撃を喰らった、ということか。
問題は、このとき起用した高級将帥は、張敬達を除けば、後に背信行為をする輩が多かった、というところ。
後唐には、もはや命運がなかったとしかいいようがないのだろうか…

187 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/27(金) 18:37:33 ID:BWsgFACh0
なんとなく比較。題して

「柴栄@おまいは信長か!?」

当主となって、ある集団の主導権を握ってからの二人。
出発点は曲がりなりにも皇帝としての立場を継承した柴栄は、大幅なリード。
といっても、当時の河南国皇帝は節度使たちの宗主的立場。
形式と象徴だけで、権威や存在はかなり薄い。信長期の足利将軍なみ。

・跡目継承早々の国難。
田楽狭間の戦い … 油断していた今川本陣に乗り込んで大暴れ。敵大将をぶっ殺す。
高平の戦い … 正面決戦。劣勢を覆し逆転ホームラン。
(一説によると、勝利を確信した北漢軍本陣は余裕を見せて酒を飲んでいたが、そこへ柴栄率いる親衛軍50騎が乗り込んできて暴れまわったとか)

・宮城の強化
安土城 … 大規模な土木工事。壮麗な本丸。
開封外城 … 無秩序な街並びを一新。のち、百万人の不夜城と呼ばれる基礎がここに。

・仏敵
比叡山および本願寺を敵にまわす … 旧弊への挑戦。
仏像までゼニにしてしまう … 旧弊の整理。仏の姿を鋳潰して銅銭にした。

・無敵水軍
鉄甲船 … 毛利水軍にやられて、その反省から強力な軍船を編成。
闘艦 … 南唐水軍にやられて、その反省から強力な軍船を編成。

・包囲網
信長包囲網 … 将軍主導のもと四方を取り囲み、信長は東奔西走しなければならなかった。
後周包囲網 … 主導者は特になかったものの(有力は南唐か)、四方を囲まれ、やはり東奔西走。

・統一の期待
両者とも乱世末期に、国内最大勢力となった。

・統一前の死
本能寺の変 … 一番の部下に背かれる
急病 … 過労死?

あと、似たエピソードとしては
長篠の鳥居強右衛門
寿州の孫晟

・援軍を呼びに言った鳥居は武田軍に掴まって、降伏勧告を強要されるが、意に反して「降伏するな」と呼びかけた。
・寿州城を包囲する柴栄に和睦の使者として来た、南唐の宰相・孫晟は、条件として寿州城の開城を迫られる。
しかし城門の前に立った孫晟は寿州城の劉仁贍に、「公は我が朝最後の砦だ。決して城門を開いてはならぬ」と呼びかけてしまった。

など。あと、苛烈な人間性も似通っているかな。
柴栄の皇后は、よく短気な柴栄をたしなめたりしているけど、濃姫はどうだったのだろうか?


188 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/27(金) 23:17:41 ID:1gUHKR9c0
みんな在位期間短いのに、よくやった人が多いな

189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 23:02:53 ID:9NIl6Q1k0
後周の顕徳2年11月に始まった、征淮南の役で、翌顕徳3年夏4月に
後周国と同調した呉越軍を常州で破った、南唐の大将・陸孟俊というのがいる。
しかしこれが、《十国春秋》の南唐の項に列伝がない。

記述があるのは、《舊五代史》の後周世宗本紀だった。
《十国春秋》の呉越忠懿王世家によれば、常州での敗戦は南唐の右武将軍・柴克宏のため、とある。
柴克宏の列伝を引いてみると、
南唐元宗・李璟は、柴克宏を右衛将軍として呉越軍の迎撃に向かわせた。
そのとき、袁州刺史・陸孟俊にも、常州を救えと命を下している。
と、あるので、柴克宏の下についたのだろう。
で、記録はそこで終っている。元宗本紀についても、保大14年4月(後周の顕徳3年)は黒歴史なのか
明確な記述はなく、ただ「復泰州」とだけあるのは、どういうことか…?

はじめ、呉越軍は常州を攻めて、団練使・趙仁澤や向重覇など百余人を生け捕り、南唐を東から圧迫した。
南唐の柴克宏は、陸孟俊と兵を併せて常州へ向かった。
このとき、南唐の勁兵はほとんどが江北(淮南)へ向かっており、数千程度の鈍兵しかいなかった。
常州には隋の将軍・陳杲仁の祠があって、夜、夢に出て柴克宏に言った。
「われ、陰ながら公を助けよう」と。
柴克宏は戦いに及んだ。二頭の黒牛(?)があり、呉越軍の陣に突っ込んだ。
呉越兵は恐れて戦わず、軍を整然と並べた柴克宏は、前進し敵を大破した。

と、いう感じで呉越軍を破り、東の脅威を取り払った南唐は、引続き陸孟俊を、泰州に向かわせた。
泰州は江北の最東端で、後周の将・韓令坤によって落とされてはいたものの、韓令坤は要衝である
揚州を固めているので、泰州は手薄だった。
4月、陸孟俊は泰州を回復し、さらに南唐の斉王・李景達との分進合撃によって、揚州奪還にむかった。
斉王・李景達は2万の水軍将兵をもって、揚州の西、六合を押さえ、退路を断とうとした。
陸孟俊は直接、東から揚州の韓令坤と戦った。

斉王・李景達の向かった六合には、後周軍2000の趙匡胤隊がすでに駐屯しており、
斉王は彼のために5000人からの損害を受け(宋史太祖本紀では1万)、大敗して潰走した。
陸孟俊は韓令坤を追い詰めたが、趙匡胤が韓令坤部隊の兵が逃げようものなら「その足を折れ」、
と厳命したため、六合を通って逃げることもできず、その場でふんばり、
ようやく、後周の禁将・張永徳の来援によって、陸孟俊を破ることができた。
また、陸孟俊を捕らえたので、後周世宗・柴栄は、後に水軍の調練要員として起用したかと予想する。

190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 23:55:42 ID:9NIl6Q1k0
追記

>>斉王・李景達は2万の水軍将兵をもって

どうも、兵数にこれといった記述はないようなのだが、2万ってどっからでてきたのやら。
その後、紫金山に10万からの南唐軍で、後周軍と対峙することを思えば
2万って少ないような気がする。
また、趙匡胤に追い散らかされて、長江を渡り損ねて溺死したものも多かったというし
もし2万だったら、負傷兵まであわせると全滅もいいところでありますな。
《資治通鑑》後周紀四では2万となっている。

で、わかったことだけど
陸孟俊はもともとは楚の臣だった。
楚王・馬希萼を廃して、弟の馬希崇を立てた。
結局、南唐の将・辺鎬に攻められて滅亡したので、南唐に帰順したのでしょう。

揚州で後周の将・韓令坤に捕縛されたとき、韓令坤に殺されたとあります。
後周が南唐討伐に向かう大義名分のひとつに、楚の馬氏開放があった。
馬氏、つまり馬希崇やその夫人たちは、南唐によって揚州に軟禁されていた。
で、韓令坤がそこを確保したとき、夫人の楊氏が「陸孟俊に家人を殺された」
と涙ながら訴えたので、韓令坤は仇をとった、と。

ちなみに馬氏の一族は、きっちり保護されたようです。

191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/18(金) 21:55:49 ID:3gWhZThV0
この時代をまとめた資料のような本が欲しいね。
あれだけ三国志関連の詳細な書籍があるなら。
話題には尽きないと思うし。

192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/19(土) 22:20:23 ID:KJBGNNwN0
むかぁしには、いろいろあったんだけどな。
今は絶版、絶版。
でも、戦役や会戦の詳細な解説はなかったと思うから、あっても面白い。
しかし王朝の推移は、まぁわかるとして人物相関がわからないとちんぷんかんぷんだろう。
やはり、人名辞典か五代史列伝の邦訳が先だろうねぇ…

193 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/19(土) 22:26:04 ID:67T0udbi0
古本屋を探したら、意外におっと言うような本を見つけることがあるよ。

194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/19(土) 22:48:26 ID:KJBGNNwN0
>>193
そう。
それで、最近《新五代史》の和刻本を購入したんだけど、レ点とかあっても、わからんもんはわからんw
しかもページとか見難いし。構成は中華書局の《新五代史》が一番見やすいと思ったのだった。

195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 17:37:23 ID:eYjXH1Ep0
最近、個人名スレいっぱいたってるなぁ。
負けじとやるか!いやいや。
柴栄スレも趙匡胤スレも止まっているから、これ以上作っても邪魔なだけだ…


196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 17:57:45 ID:XkY4aN8NO
確かにやめとけwそこそこいくんだけど話題が尽きてあとは伸びないからね。

197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 12:50:41 ID:TpgH3KeI0
立てたい人物のスレはたくさんあるんだけど、
立てる前に、まず語ってくれる相手が果たしているか?
という点を考えないとね。

198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 17:26:58 ID:cvX0OAYn0
つまり、ここでやればいいということ。
>>197
例えば、どんな人物? 今はネタ(気力)がないから、目新しいのは発掘してないけど。

199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 22:10:02 ID:cvX0OAYn0
えらいところで韓通を語ったので、ちょっとさわりをここで。

韓通といえば、後周世宗柴栄が信任した武将。
柴栄のなした公共事業wを担った人。
また禁衛侍衛司の大将でもあった。

出身は太原。劉知遠が太原に鎮したとき、その帳下に入った。
劉知遠の牙兵として、衙隊副指揮使を任され、勇気と膂力をもってきこえていた。
郭威が河中の李守貞討伐に赴いたとき、韓通の謹厚なところを見込み、随伴したという。
郭威が北京に鎮すると、魏州天雄軍の親軍都虞候とされた。
郭威はこの頃、天雄軍節度使も兼務していたから。

と、言う感じで後周との縁が「河中の乱」でできているわけですが、これって趙匡胤も同じだよな…
趙匡胤も、各地流浪のあげく、復州の王彦超にはたたき出され行き着いた先が
動乱を巻き起こしている河中だった。
郭威の臨時募兵に参加した趙匡胤は、かなり目立つ手柄を挙げて郭威の目に留まったという。
それが縁で、郭威軍閥に配属されるけど、もっと気に入ったのがほかならぬ柴栄だった。
河北への赴任が決まっているのに、わざわざここに残れ、と言って側に置いたくらい。

この二人のライバル競争はなかなか面白いかもしれない。
もっと時間ができれば、もう少しつっこんでみようかな。

200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/22(火) 01:16:14 ID:vWHHU2qS0
前々から思ってたけど趙匡胤と韓通って
秀吉と勝家の関係に似ている。

201 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/22(火) 19:26:39 ID:RdivAYoq0
韓通の評は、剛毅な性格で思慮少なく、多言にしてものに逆らい、ほしいままに威張り散らす。皆は言う「目剥きの韓」と。

すげい評だ…w
どうも列伝には、そういうことを裏付ける記述はないわけだけど、個人列伝では特に悪くは書かないかな。
郭威や柴栄に対する応対ぶりでみると、謹みあって重厚な性格を思わせ、万能っぷりな感じだが
同僚や目下には高圧的だったのだろう。
目剥きというのは、すぐにムキになるとかという感じで、冗談も通じない男だったのかな。
おれを侮ることは許さん! という感じか。
あんまり人望はなかったとみえる。趙匡胤とは真逆だったんだろうな。

飛龍伝の韓通は聞くところによると、嫌な感じの男で、なにかにつけては趙匡胤をライバル視しているウザいヤツとなっているらしい(おいおい)。
だから王彦昇も「それは仕様でつ」と言わんばかりに、韓通をいきなりぶっ殺したのだろうか。
趙匡胤も、内心はGJとか思いながら、一応は激怒したフリをしている… というのは悪意があるか。

李筠にしてもそうだが、列伝最後の評であんまり良く書かれていない。
この「周三臣伝」は宋史に入っているのだけど、趙匡胤の強力な政敵ということで、事績の内容に比して人物が悪く書かれている… なんてことはないのだろうか ?

202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/23(水) 23:50:48 ID:Izw1qIy70
>>200
柴栄、趙匡胤、趙匡義で、
信長、秀吉、家康に例えられるからね。

203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/24(木) 23:11:54 ID:bZgDSgKP0
>>202
柴栄と信長、趙匡義と家康は微妙に通じるところがありそうだけど、
趙匡胤と秀吉は間に挟まれてるってこと以外は共通点がなさそうな・・・

204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/25(金) 13:16:25 ID:RUstKZYY0
>203
身一つで有能な君主の居る組織へ士官。
旧主が無くなると、幼主なのを良い事に組織乗っ取り。

205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/25(金) 17:00:43 ID:stoNBjyq0
>>204
そこ、実は疑問なところなんだ。

趙匡胤は確かに柴栄との個人的な結びつきが強いわけで、間違ってもないし普通、そう思われている。
しかしオヤジの趙弘殷は、侍衛親軍の将軍であるので、
名門とは言わないが、著名な家であることは間違いないと思う。
同じように多くの節度使を歴任し、対契丹戦やら内乱鎮定やらで功績があって
名将の誉れ高い高行周の息子は、普通に将家として用いられている。
趙匡胤が家を脱出したとはいえ、禁軍の将校といえば比較的エリートな印象があり、
優位性をもっていたのだから、趙弘殷の息子であることを郭威や柴栄が知らぬはずはないと思う。

実は、意外ともっと若い頃(つまり成人前)から面識あったんじゃないか、とか思ってしまう。
もしそうなら、柴栄と趙匡胤の関係は、より深いところにあるのではないか…
まぁ、小説的妄想ではあるけど。


>>柴田勝家

羽柴秀吉と対立して敗死した、ということに絞れば、潞州昭義軍の李筠が、より近いと思える。
趙匡胤とのライバル競争や、君主への影響力の競い合いなど、そういったものは見止められないが
北方(といっても、上党だけど)に鎮して、北面軍を統率して北漢や契丹の襲来を撃退したり備えたりした。
もとは、太祖郭威の将であり、趙匡胤が後周を簒奪すると、郭威の肖像画にむかって涕泣したという。
北漢に頼って、趙匡胤の新王朝を認めず抗ったが、力及ばず敗亡した。


206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/25(金) 23:39:08 ID:w1L01npD0
小説的妄想でも、そうであったら楽しいね。

趙匡胤は柴栄の王朝を簒奪したけど、その子を殺さなかったからイメージがいい。

秀吉も、織田信長の嫡孫を手にかけることがなかったので、
家康による豊臣家乗っ取りに比べると、あまりイメージが悪くない。

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/26(土) 11:51:04 ID:Ak1oqx2t0
6月2日から、女帝エンペラー(原題:夜宴)という映画が公開で、
一応の時代設定は五代らしいけど、どんなものだろうね。

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/26(土) 14:08:38 ID:OQjkhrlM0
>>207
主人を殺された主人公が次の皇帝の后になりつつ、復讐の機会を狙う。
そして主人公と昔仲良しだった、先代の皇帝の息子、皇太子も
親父殺しの復讐を密かに狙うって話らしい。
もともとの原題はハムレットなんだって。

209 ::2007/05/26(土) 14:10:17 ID:OQjkhrlM0
昔、世界史板の五代十国時代を語ろうにというスレに
五代潰瘍さんという御仁がいらっしゃいましたが
このスレにも名無しで登場なさってるんですかね?
なんか自分のよく知っている御仁と文章の雰囲気が似ているのですが・・・


210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/26(土) 19:03:36 ID:W1IY44jJ0
>>209
あれ、○さんも世界史の五代スレを見てたんですか?
自分はここに居座っていますが、少なくとも自分は五代潰瘍さんではないですよ。
でも、知っています。
世界史板は、まだ自分が五代に興味を持つ前のスレなんで、参加はしていないのですが
五代潰瘍さんとはネット上でお世話になっています。
執筆された五代概要(これってシャレだったんだろうか…)も、よい資料とさせてもらっています。
で、自分は百撰スレのアレです(こっちではコテ使ってないから)。

211 ::2007/05/26(土) 21:32:32 ID:OQjkhrlM0
>>210
どもwおひさです。
いやー五代潰瘍さんの五代に対する情熱(愛情?)や文体、三国志が好きというところが
どうも似てるなーと思ったものですから。そうですか別の御方でしたか。
ちなみにこちらでの貴殿の活躍振り、影ながら拝見しております。
五胡と同じぐらい興味ありますしこの時代。テュルクスキーですしw

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/26(土) 22:28:49 ID:W1IY44jJ0
テュルクつうか、沙陀はいいですよぉ。無茶苦茶ですがね。
その破滅っぷりがまたなんとも…
李克用の鴉軍主力は密集突撃の肉弾戦、という話なんですが、後期李存勗時代には歩兵も多くなっていたようです。契丹に比して、だとは思うけど。
たしかにその頃には、李克用のような機動力はいくぶん影を潜めたような印象はありますが、華北を所狭しと行ったり来たりする沙陀騎兵を核とする晋軍には、なんか軍事ロマンを感じる。

ところで、行軍速度の鬼っぷりでは、柴栄も非常識な部類に入るんですよね。
逃げっぷりも閉口ものですし…

213 ::2007/05/26(土) 23:54:53 ID:OQjkhrlM0
>>212
沙陀族も突厥・鉄勒も鮮卑もそうなんですがテュルク自体が無茶苦茶ですよねw>行軍速度の鬼っぷりでは、柴栄も非常識な部類に入るんですよね。
五胡の鮮卑族慕容部に慕容恪っていう人物がいるのですが
この人なんかも頭脳明晰で用兵に関しては攻めて良し引いて良しってところが
柴栄に合い通じるものがあるとかと。
あと弟の垂なんかも行軍速度が異常な部類に入るかと思われます。
柴栄もやはり血の成せる業なんでしようか?

自分はROM専なんでこの程度の意見しか述べられませんが・・・
(スレ違いの話も入ってて御免なさい)

214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 20:22:25 ID:hLQe4Q9T0
>>207
とにかく血みどろのどろどろな話は五代にしとけって、そんなイメージがこの時代にはあるんじゃないかと疑う。
あんまり歴史背景はないそうだが…

>>213
鮮卑の血… はよくわからんけど、邢州柴氏はどこから来たのか、知る手がかりでもあればねぇ。
当時の新興地主層の家柄だけに、柴翁、つまり柴栄のおじいさんまでしかわからないという。
それ以前、どこにいたのか謎。
ただ、邢州には別宅の荘園もってたりと、当時ではなかなかの資産家だったそうだ。
武人政治により、地域の密着性が増したことによる台頭で、娘を後唐荘宗の後宮に入れたくらいなのだから、誇らしく家系図作ってもよさそうなんだけどね。

215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/11(月) 15:11:15 ID:JYmG7b+E0
五代の武将で、鮮卑系の姓を持つ者って結構多かったのかな?
慕容とか、長孫みたいな

216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/11(月) 21:40:27 ID:mptdxbSs0
鮮卑よりも、ソグド系がはばを利かせていたな、この時代では。
ソグドの六州胡というのがあるんだが、よく見ると思う姓、
安、史、康、石、曹、何、米
というのが、それ。
テュルク系のひとだけど、唐代ではいわゆる胡族というのはソグドのことを指している。
六州胡はオルドスの夏、霊州付近に住まわされた突厥難民(李世民が滅亡させた突厥の遺民が主)を統治するための州。

安姓は結構多い。
われらがヒーロー李存孝も、初名を安敬思というし、後唐の硬骨漢・任圜の政敵だった安重誨(もとは仲良しなのに)や
沙陀騎兵の強い部分を受け継いだ騎将・安審琦などなど。

長孫という姓で列伝に挙げられる人はいなかったよう。
慕容は、後周初期の叛将・慕容彦超(劉知遠の弟)、殿前都指揮使の慕容延釗くらいか。

217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/11(月) 23:47:43 ID:JYmG7b+E0
もうこの頃は鮮卑系は完全に漢族と同化した感じってところなのかな。

218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/12(火) 23:33:37 ID:srT6SMla0
>>217
よくは知らんけど、そういうことになるのじゃないかな、と。
柴栄は新興地主層の出身だけど、鮮卑系という説がある以上、良民層に根付いたようにも思える。
ところで、朱全忠サマのおかげで唐貴族のお歴々はどっぷり黄河に放り込まれ、
また節度使と地主層の台頭で貴族名族が政治の世界から没落してより、
同じ姓であっても系列は違うものと思われる。

唐の名臣・郭子儀の子孫を自称する、後唐の名臣・郭崇韜のその家系図は、没落貴族から買ったものといわれている。
つまり、郭氏が当座の資金目当てに、先祖を売ったということ。
で、郭崇韜はそれを己の箔のために利用した、ということ。

219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/13(水) 23:41:50 ID:EiADA52F0
唐朝の皇帝だって、後半以降は鮮卑系なんて意識はほとんど残っていなかっただろうしね。

今の満州族も、これと流れが似ているのかも。
みんな漢族風の姓にしているし、社会的にも定着している。


220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/09(月) 07:45:47 ID:9Euc/kpT0
>>218
当時は、やっぱり郭子儀って名が鳴り響いていたんだなあ。

221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/02(木) 20:30:04 ID:Xb/KHjH30
ずいぶん前から、まとめようとしていた後晋期の契丹南下の第一回目まで終りました。
まだ第一回目。
契丹の南征は3回あって、その3回目で後晋出帝が北に拉致される事態になるのですが…
まぁ、ほとんどの中国史関連概説書では、1回目2回目などさらりと流していますので、
いったいどういう経緯か、一般にはよく知られていないと思います。
自分もそうでした。

契丹は魏州にまで攻め、いくつかの部隊は黄河を越えるほど押し捲っていたのですが
崖っぷちの後晋軍は、それらをぎりぎりのところで防ぎ、攻防は一進一退。
決戦は澶州から濮陽にかけての戚城で行われました。
歴史的古戦場というやつですか。

その戚城の戦いでは後晋出帝も出撃して敵に当たるという総力戦。
このときの戦将といえば、李守貞、高行周、符彦卿がクローズアップされるくらいの活躍ぶり。
対契丹主戦論にして上将の景延広は、戦場の勇者かもしれませんが、司令官としては無能。
対応は遅いわ的確でないわ恣意的だわと、百害あって一利なし!
威勢がいいだけの愚将。
そんな司令官のもと、高行周やら符彦卿はよくやったと思う。
李守貞ものちに謀叛さえしなければ、もっと評価高かったろうに…

ちなみに、この戦いでは高行周の息子で、後、北宋初期の軍中核となる高懐徳が19歳で、
この悲惨な戦場に従軍しています。
戚城で契丹の大軍に包囲されたとき、出撃しては縦横に突撃し契丹軍の勢いを殺いだりする活躍をしています。
ともかく土俵際でようやく相手が退いてくれたので、延命できた後晋朝。
しかし次なる二回目の南征では、華麗なる勝利をもたらしてくれる桑維翰が中央に返り咲き、軍略を披露してくれます。
これもまた時間かかりそう。

222 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/02(木) 21:12:17 ID:JgRQbD/w0
後晋って契丹に対してそれなりに頑張って戦っていたのか。
靖康の変の時の宋よりはずいぶんましに思える。

223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/03(金) 23:15:06 ID:t/++DWZr0
靖康の変のときの細かい状況も調べないと責任あることは言えないけど、雑感そう思いますね。
これまで、1回目2回目は契丹の下調べ的南征と思っており、本気ではなかったような
そんなイメージを抱いていました。
とはいえ、1回目はある意味そうだったかもしれません。

もと後唐の将で、投降した趙延寿に兵5万を与えて、南征の先鋒として繰り出したのをはじめとして
各方面から順次支軍を発し、遼太宗自身も鉄騎34万をもって魏州にまで一気に南下したのが
第一回目です。
第二回目もだいたいこの辺りが後晋朝の防衛ラインとなりますが、そもそも遼太宗の南征は
青州で謀叛した楊光遠と呼応したものだったので、その連絡を密にしようとの動きが濃厚に見えます。
魏州に太宗は屯し、博州、斉州を経て青州に通じますので、そっち方面にちからを注ぎますが、
黄河の渡しである馬家渡と、楔になる戚城のそれぞれで、負けました。
「楊光遠のやつは晋の兵馬は大半が餓死していたと言っていたのに、この勢い盛んなさまはなんじゃい?」
と首をひねったと言います。
まぁ、舐めていたのでしょうかね。実際、ひどい飢饉で国力はガタガタでしたが。
魏州から発って後晋軍本隊のいる澶州-戚城の間で総攻撃をかけましたが、
>>221でも言ったように、高行周、符彦卿、李守貞らが異常な奮戦振りを発揮し、また出帝自身も
将として契丹軍と戦っています。
そうした必死な抵抗を受け、これはまだ機ではないと悟ったか、遼太宗は引き上げていくのです。
何度も書きますが、その間、威勢よく対契丹主戦論を唱え、蛮族の下につく必要なし、蛮族は氏ね(ウソ)
と声高に宣言して煽っていた武人の景延広は、まず諸将を各地に分散配置し命令系統を統一させず
また(ホントかウソか)、互いの連携を禁じ(資治通鑑。そんなことしてなんの得があるのか?)
さらに、高行周が戚城で契丹の重囲に陥って援軍要請の使者を出したときも、わざとすぐに上奏せず放置。
いったいどんなサド野郎かと思います。実力のない主戦論者ほど有害な存在はないでしょう。

つまり、第一回目契丹の南下を防ぐことができたのは、あくまで個々の必死さであって
すぐれた防御態勢、軍略によるものではなかったということ。それと、わりにあっさり契丹が退いてくれたおかげ。
第二回目のときも、個々の将が決死の覚悟で戦って勝利しますが、第一回目と違って
逆攻勢かけて、ちからづくで遼太宗を幽州に遁走させているあたり凄まじい。
そのとき中央にあって軍略を担当したのが、景延広などではなく和平、親契丹派の文官桑維翰だったという。
(靖康の変の時の宋よりマシなのはここまで!)

で、三回目になると後晋出帝は気が緩み、また宿臣たる桑維翰が手柄を立てすぎることを憎んだ
皇帝の外戚や側近らが、彼を追い落とします。
桑維翰が中央を追われ、また契丹が南下しても後晋朝では「今度も勝てる」と総楽観。
瀛・莫二州の奪還のための北伐軍を繰り出したけど、遼太宗の計略にかかり
杜重威、張彦澤という大鎮の重臣が寝返るにおよんで北方拉致の事態にw

224 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/09(木) 23:50:29 ID:wR6NYqzG0
靖康の変の時の宋って、武器を集めて、軍隊に引き渡す手続きであれこれ揉めているうちに、
金軍がやって来て、集めた武器がみんな金軍の手に渡ったなんてことがあったように思う。


225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/13(月) 13:07:08 ID:pq4xh6md0
契丹の先鋒となって後晋を攻撃した趙延寿のことが書きたくて
そのオヤジの趙徳鈞のところから調べているが、シンドー。
とりあえず、わかったところまでwwwwww

オヤジの趙徳鈞。
元の名は趙行実。幽州の出身で最初は幽州節度使の劉仁恭(北方の雄の一人だけど、政治がむちゃくちゃなヤツ)
の長男で滄州節度使の劉守文の軍に仕官していた。
滄州はわかりやすく三国志の地名でいうと南皮だな。(幽州=北平?薊か?)
しかし朱全忠が幽州を攻めたとき、劉仁恭は豪華な邸から動かず為すところがなく
朱全忠を追い返したのは、父の愛人と密通し勘当されていた次男の劉守光だった。
劉守光はその功績をたてにオヤジを豪華な邸に幽閉しておいて、幽州節度使の実権を掌握した。
その矛先は滄州に向き、兄弟対決が開始される。
劉守文は野戦で劉守光を破ったが、仁に篤い人なので「弟を殺してはいけない!」
と、軍の前に出て押し留めようとしたところを、劉守光の部下で武名をもって鳴る元行欽に
不意打ちを喰らい捕まって殺された。
そうして滄州は劉守光のものとなり、趙徳鈞もそのまま劉守光の軍へと編入された。
幽州、滄州を得た劉守光は大燕皇帝を名乗り、北国の雄を気取ったのだった。

ちょっと余談。
趙が後梁に攻められたとき、趙の王鎔は劉守光に援軍を求めたけど、答えず。
かわりに後梁軍を柏郷において撃破したのは晋だったのだけど、劉守光は後梁に攻められた縁からか
定州の北平王・王処直と、鎮州の趙王・王鎔と自分とで三国同盟を結ぼうと提案した。
あきれた王鎔がそれを晋王・李存勗に告げると、李存勗も失笑して
「愚、これよりはなはだしきはなし!(こんな馬鹿なヤツは他におるまい)」と言ったそうな。

晋王が燕討伐軍を繰り出すと、趙徳鈞は燕は必敗とみて、いち早く晋の陣営に投降した。
それを嘉した李存勗は姓名を賜り「李紹斌」とした。
李紹斌は李存勗の親軍に配属され、各地で武功を挙げた。
後梁平定後、滄州節度使から出身地の幽州節度使まで栄達した。
(幽州盧龍軍は雄藩。前任者は、周徳威、李存審など)
後唐明宗のとき、姓を戻し名を改め趙徳鈞となった。

節度使というのは、その職制から権限がありすぎ、朝廷は任地が固定しないように数年単位で任地換えを
するのだけど、趙徳鈞は10余年幽州にあるという異例っぷりだった。
その治政ははなはだ善政といってよく、運河の便や北方への備えのための砦や軍備の増強など
朝廷の信頼に足る重鎮ぶりだったという。

さて、一方で後唐朝廷にそれだけ信頼される背景に、かれの養子・趙延寿の存在があった。
趙徳鈞がまだ滄州の劉守文の幕下にいた頃、常山の人で劉[元β](←そんな字ないんですけど…。邠とも)
が令をしていた蓚というところを攻めるのに従軍した。
趙徳鈞はその劉[元β]という人の妻を掠め取って連れ子だった延寿を養子とした。
趙延寿の容姿は女性的な趣と柔らかさがあったという。
また書を好み、歴史に通じ、賓客との歓談、詩をよくしたともいう。
荒っぽい武将という人ではなかった。
趙徳鈞が幽州節度使となって、明宗(李嗣源)が立つと、趙延寿にその娘を降嫁させることを願い
皇帝の外戚的な立場も得たのだった。
李嗣源も趙延寿を気に入り、徐州刺史から河陽、宋州の節度使を短期間に歴任させ、ついには
上将軍、宣徽使、枢密使兼徐州節度使とされ、後唐朝の中枢を任された。

226 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/13(月) 13:07:48 ID:pq4xh6md0
後唐末帝(李従珂)のとき、太原に石敬瑭、幽州に趙徳鈞、中央には趙延寿という権臣があった。
それぞれが後唐皇室とつながりがあった。
石敬瑭は自身が李嗣源の女婿であり、末帝からの信任は李嗣源軍団に所属していた頃からあった。
しかし、その石敬瑭の巨大さを危ぶんだ廷臣らは対処を末帝に迫った。
石敬瑭は自ら他鎮への転出を願い出るかたちで、末帝の存念を図ろうとしたが
それは逆効果となり、問題を大きくしたくない末帝はあっさり石敬瑭の申し出を受け、
太原にはかわりの者をおき、石敬瑭の権限だった蕃漢馬歩軍都総管の任も、張敬達に移された。
ちなみに、蕃漢都総管は晋から後唐にかけての重職であり、初期には周徳威、周徳威の戦死後は
李存審があたっていた。

びびった石敬瑭は契丹の助力を受けて挙兵。
それを討伐に向った張敬達は太原城下まで攻め込んだものの、契丹騎兵の来援に引き下がらずをえず
晋安城塞で包囲されてしまった。
末帝は趙徳鈞に幽州の州師を率いて上党において、趙延寿の本隊と合流すべしと命をだした。
上党でひさしぶりの再会を果した親子。
晋安で契丹を相手に鉄壁を守り通している張敬達を援護すべく向うが、一方で契丹への投降も申し出ていた。
なかなか見下げた寝業師っぷりの趙徳鈞!
しかしそれはイカンと石敬瑭の部下である桑維翰(w)が趙徳鈞の申し出など無視して欲しいと
耶律徳光にひたすら嘆願したので、それはなかったことになった。
そうしているうちに、晋安で敵に囲まれ不安になった副将の楊光遠が主将である張敬達を暗殺して
石敬瑭に投降したため、一気に防御線を突破された後唐軍は崩壊して末帝は河陽において
みずから火を放って死んだ。

帰順の時を失った趙徳鈞親子は石敬瑭に軽蔑されるわ、
悲惨にも耶律徳光に連行されて、幽閉の憂き目になるわで散々。
しかし彼は帰ってくる!
趙徳鈞は幽閉のうちに死去したが、趙延寿は耶律徳光に気に入られ、
割譲で受けた幽州の節度使として趙延寿を置き、燕王に封じたのだった。
後晋朝に対する憎悪を秘めて、彼は幽州にて何を考えていたのだろう…(次回予告ふうに)

227 :携帯から失礼:2007/08/13(月) 23:40:24 ID:yxz2ixaEO
あっちのカキコ見て早速見に来ました。
いつもながら乙です。  
次回も楽しみにしてます。

228 :携帯から失礼:2007/08/19(日) 12:10:42 ID:wma4VxsUO
ID:pq4xh6md0氏は
遊牧民を傭兵軍団として多様したりとか節度使が割拠みたいな状態が
唐末〜五代に結構似通ってるなぁと感じる、
アッバース朝やブワイフ朝とかは興味ないのでしょうか?
(スレ違いな話題ですいません)


229 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/19(日) 20:38:26 ID:FO1H4Hb10
>>228
pq4xh6md0ですが、興味がないわけじゃないのです。
いっぱい知りたいし、共通点を見つけられたら狂喜するに違いないのですが
なにぶん、そこまで手が回らないという…
五代という時代を、できれば表面だけじゃなく、深く掘り下げてみたいので
それを調べだすと、いずれ来る老後の余暇でも足りなさそうな感じ。
たった60年そこらの期間の歴史なのに、そう思えてしまう。
死ぬまでに一編二編の軍記小説なりを書き、自己満足に浸りたいと思って今がありますw

それにしても、>>遊牧民を傭兵軍団として多様したりとか節度使が割拠
は、唐の遺産であり、なんとなく五胡流入を起想させますね。
節度使は節度使で、「辟召」の権限を使い、最下層域からこれは、という人材を
自らの供回りに集め、私兵化に励んでましたから、単なる太守や刺史のような「役人」「官僚」とは
そのちからが比べ物にならないくらい強力でした。
しかも、唐朝では無視された民間の、多少でも字や計算のできる人材が
そうして日の目を見れたわけですから、路傍の石の中に混じっていた玉も多く発見され
より節度使のちからを強めたのでしょう。
…そうした中には士大夫的なモラルの欠如があったことは否定できません。


230 :携帯から失礼:2007/08/19(日) 22:05:12 ID:wma4VxsUO
>>229
レスありかとう。
なんつーかですね、アジアの超大国の唐、一方イスラムの雄アッバース朝が
ほぼ同時期に同じ様な状況に陥るとは何か面白いものを感じた訳でして、
興味有りそうかなと思ったんで伺ってみました。  
トルコ系の遊牧民を傭兵軍団として使った経緯とか似てるし、
こちらも藩鎮化?してカリフ(皇帝みたいなもの)の
首を挿げ替えるほど権力を持ったりしてますし。
西遼の耶律大石がテュルク系遊牧民国家のセルジューク朝を倒していたりもしますし。
全く無縁では無いなぁ〜と感じたりもする訳で…
まあ自分もイスラムについてはまだ片足突っ込む前段階なんで
大した知識はないんですがw
(またまたスレ違いな話題で失礼しました)

231 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/19(日) 22:40:57 ID:FO1H4Hb10
>>230
イスラムとかになると、調べだすと絶対ソコだけで気がすまなくなるだろうこと疑いないと思う。

マクロな視点では、当時の超大国が連鎖的に崩壊したのは非常に興味深いわけで。
ウイグルの崩壊に伴って、沙陀磧の沙陀が唐へと流れてくる過程もあり
沙陀好きにとって、その辺いずれは深く調べるべきところです。

といっても、そこまでかなぁ。イスラムまでは、いまのところは。
まぁ、杉山センセじゃないですが、それくらいマクロな視点をもって見ないと、中国の立ち位置も
正確には把握できませんからねぇ…
テュルク、ウイグル、キタイと、これだけは間違いなく押さえるつもりですが、なかなかw

それにしても、携帯でよくそれだけの文章書けますね。
ま、スレ違いもこの際はいいのではないかな。

232 :携帯から失礼:2007/08/20(月) 05:12:14 ID:vpned/cgO
>>231
スマソ、面白そうなこと思い付きでカキコしてますのでw

>それにしても、携帯でよくそれだけの文章書けますね。
なぜか、わからないけどたまにボロPCからカキコ出来ないんですよ・・・orz

まあ、大事な第二のツールですからねw
>ま、スレ違いもこの際はいいのではないかな。  
ホント申し訳ない。聞かずにはいられない性分なもので。

233 :携帯から失礼:2007/08/23(木) 07:49:28 ID:bRJ/gu5WO
荊南の高従誨の親父の高季興もかなりの変節漢ですなぁ。
[シ卞]州の富豪である李譲の家僕でしたが、後に養子となり、
朱全忠の元で功を重ね、後梁建国に伴い荊南節度使に任じられ、
ハカイダー朱全忠の死後は湖北で自立し末帝より渤海王とされてますね。
925年には後唐に称藩し南平王となり、
明宗によって蜀への進出を阻まれ断交、呉に称藩。
後梁→自立→後梁→後唐→呉と息子に負けじと
あちこちの勢力に与してますね。
次に孫光憲
後唐に仕え陵州判官となり、
その後、江陵に移り住み、高季興に仕官。
高季興が楚と決戦しようとしたのを諫止させ、
荊南三代に仕えて、荊南節度副使・検校秘書少監を歴任。
963年高継冲に勧めて、領土を宋の太祖に献じる様に進言、
この功績で黄州刺史に任ぜられてますね。
あと十国と云えば群盗から(塩の密売人?)官兵に転じ廬州を占拠したり、
淮南節度使高駢の元にいたが後に挙兵して畢・秦を打ち破り、揚州に入り、淮南留後を自称し、
秦宗権・孫儒の勢力と江淮地方を巡り争い、一帯を占領後、淮南節度使に任命されたり、
黒雲都と呼ばれる親衛軍団を率いた呉の楊行密なんかもいますね。      897年に宣武節度使の朱全忠が大挙して南下した際には楊行密は清口で戦ったりしたりしてます。


234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/23(木) 10:25:04 ID:HBzBl/Oo0
>>233
そういう話題を振られると、今調べているシリーズはほっといて、
ひさしぶりに《十国春秋》を開いてみましたよ。

で、楊行密のダンナは、また今度ベン州軍閥立ち上げ期とあわせて調べたいので、
(長く入り組んでいるので)今はスルーしますw

荊南節度使については、武信王が特に有名ですが、その部下についてはなんも知りません。
で、まぁ、見てみると。

【高従嗣】
高季興の従子。ひととなり驍勇。「喜馳突」とありますが、突撃するとき笑顔だったのだろうか?
んなわけないか…。 戦いがお好きな公子だったようです。
しかし、楚の武穆王(馬殷)が許徳勲を大将として荊南を攻撃させたとき、
その監軍使として従軍していた馬殷の子、馬希範に兵を並べて決戦することを提案しましたが
馬希範の将である廖匡斉によって討ち取られたそうな。
(しかしその廖匡斉の列伝にはなにも書かれていない)

【倪可福】
高季興ももとは朱全忠の部下だったわけですが、この倪可福もそう。
高季興が荊南留後を任されてしばらく後、雷彦恭の乱があり、高季興の援兵に赴いたのが倪可福。
そのときの軍略に見惚れた高季興が、娘を嫁がせたりして親交を深めました。
敵軍の鋭鋒を砕き、陣を陥とし向うところ敵無し。
江陵の東30里を賜り、そこに子孫が住まわったので、これを「諸倪岡」と呼んだという。


この辺もまた、物語調で書いてみたいな…
というわけで今日はここまで。



235 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/02(日) 14:13:45 ID:IYFFyNW90
後周の淮南戦役の詳細は、柴栄スレに書いたけど、その敵手たる南唐については
これまであんまり触れていなかった。
劉仁贍がすごいすごいと言いつつ、どういう経歴の持ち主かもよくは把握していなかった。

劉仁贍について。
呉の濠州団練使(濠州は鍾離をふくむ淮南の要衝)劉金の季子。
父、劉金は濠州に鎮して、その威名をもって治めた。
長男の劉仁規も濠州知事から清淮軍節度使となったが、苛政のため評判はよくなかった。
(後梁の貞明3年(917)呉は清淮軍の使府を濠州に置き、後唐の天成2年(927)使府は寿州に移った。
同じ清淮軍節度使でも、兄・劉仁規は濠州に鎮し、劉仁贍は寿州に鎮した)

劉仁贍は財を軽んじ士を重んじる人で、その法令は厳粛、兵略に明るかった。
呉から南唐への革命後、劉仁贍は南唐烈祖・李昪に仕え、左監門衛将軍を拝し、
黄州、袁州の刺史とされ、これをよく治めた。
元宗・李璟の代には、武昌軍節度使(鄂州)となり、馬楚平定戦に従軍した。
平楚の役の総大将は「菩薩」の異名を揶揄的に呼ばれた辺鎬。
劉仁贍は水軍を指揮して巴陵にて楚軍を破り、投降者は手厚く慰撫したので、人心を得ること大だった。
やがて楚は南唐によって滅ばされたが、その遺臣たちは後周朝に、南唐の罪を鳴らした。
辺鎬の征服地政策が軟弱だったせいか、湖南(=楚)はすこぶる不安定であり、
やがて劉言の蜂起によって、湖南を手放すことになる。
楚の遺臣の多くは、後周朝に南伐をほのめかしていた。
ときに、淮河の岸に石像が置かれ、そのことが刻まれていた。
これを知った元宗・李璟は怒って首を落とさせたという。

この頃、淮河の水量が少なくなっており、対岸に渡ることが容易であったため、南唐の民の多くは
後周領内へと逃げていった。それを押し留めることは南唐朝廷のちからを持ってしても不可能で
ただ、その境界の備えを強化するのみだった。
これにより、淮河南岸の寿州は最重要州となり、南唐の保大13年(955)4月、
劉仁贍が赴任することになった。
なお、前任者は劉彦貞で、彼は皇帝親軍である神武統軍、侍衛諸軍都指揮使となって
京師・金陵城に帰還した。
(劉彦貞は、同年11月に起こされた、後周の征淮南の役で、先陣たる後周の枢密使・李穀を追撃したが、
正陽の戦いにおいて、後周の侍衛親軍都指揮使・李重進によって戦死させられた)

淮河の水は、この頃毎年のように渇水していたので、領民の北帰とあいまって、河による防衛力が
著しく損なわれていた。ために、守備兵を分散配置して警戒を高める「把浅」を実施していたが
南唐の領内に、領民が北へ逃げてしまう事情、つまり飢饉が発生し、国庫が苦しい状況だったため
その把浅にかかる費用すら削減しなければならなかった。
寿州監軍使である呉廷紹は、後周が北は北漢、遼と戦い、西は後蜀と膠着状態ということを鑑みて
後周の南征はしばらくないと予想し、一時的に把浅の撤廃を上奏した。
劉仁贍はそれに反対したが、朝廷は退けた。

やがて保大13年(955)11月、後周軍が突如として淮河を突破して州境を犯したので、寿州は震撼した。
劉仁贍は神気を発して泰然とし、部隊を発して守備を固めさせ、常と変らぬ態度だったので
不安だった寿州は一転して落ち着き見せた。
後周軍の先鋒は李穀で、南唐の朝廷は防衛軍の大将として神武統軍・劉彦貞を派遣した。
後周帥・李穀が正陽の浮橋を守るため後退したが、劉彦貞はそれを怯懦と見て取り
追撃をしかけたが、劉仁贍は「敵を追う必要はない、兵を抑えて州城を守備すべきだ」と伝令した。
しかし劉彦貞はそれを無視し、正陽において敗死した。
劉仁贍はにわかに出撃し、自在の計略をもって、後周軍が陣営とした南の砦を破り、
無数の軍需物資を鹵獲した。

と、まぁこのあと柴栄がやってきて百出する攻撃をしかけてきますが、
それをことごとく粉砕し、斉王李景達に挟撃出戦を具申するも、許可されず怒りのあまり倒れ
やがて幕僚の降伏によって落城するにいたります。

236 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/03(月) 22:42:14 ID:pPvWH4Sr0
今度は後蜀の将について。

韓保貞などを…
韓保貞はあざな永吉(えーきっつぁん!!wwwwwww)。
もと潞州の人で、父、韓昭運が後唐の将、孟知祥の成都入りに従い、四川に赴任すると
韓保貞も、孟知祥の牙兵として四川入りした。
(後唐期、前蜀は郭崇韜によって滅亡しましたが、郭崇韜は讒言に遭い誅殺され、孟知祥が
西川節度使として任命され、成都入りしたわけです。さらにちなみに、前蜀討伐の総大将だった
魏王・李継岌は、父、荘宗・李存勗が弑され明宗・李嗣源が立つにおよび帰路、自殺)
孟知祥は東川節度使・董璋などと四川領域内で戦争に明け暮れ、ようやく一帯を平定したものの
皇位についてすぐに死去。
二代目後主たる孟昶が継ぐ。
韓保貞は後主のもとで枢密副使となり、後蜀の重臣となった。
ときに後主が好色なことを言い出すと折檻… ではなく切諫したという。

中原で後漢がたったおり、晋昌軍節度使(雍州。長安)の趙匡賛は契丹の任命によって
長安に拠っているので、また自身、契丹の燕王・趙延寿の子ということもあり、
後漢が立たれて非常に不安だった(趙延寿は契丹を後ろ盾にして後晋をフルボッコにしたお人)。
そこで後蜀に帰順を願い出て、後蜀の将、李廷珪が長安救援のため子午谷ルートで
軍を進めることになった。
一方、長安の後方に位置する鳳翔(岐州)を攻撃するため、韓保貞は数万の兵をもって肉薄したが
鳳翔節度使の侯益が戦わず帰順を申し出たので、これを容れた。

関西があやしくなった後漢朝では、異民族鎮圧と称して討伐軍を大挙派遣することにした。
皇帝禁軍数千を核とした討伐軍は、王景崇を大将とした。
後漢VS後蜀の矢面に立たされることとなる位置である趙匡賛は、真っ先に自滅しそうな気がして
不安になり、ふたたび後漢に帰順を申し出た。当然、鳳翔の侯益も(おまえら定見なさすぎ)。
勃興したての後漢では、あまりムリをしたくないので、両人の帰順を容れた。

いい面の皮は後蜀軍で、せっかく長安近辺まで迫っているのに、相手はすでに心変わりしていたという。
2万をもって子午谷から長安に迫っている李廷珪を、王景崇は迎え撃って撃破した。
韓保貞も陳倉に軍を返したが、侯益の変心あって、ついに戦うことなく成都に帰還した。

やがて北宋が王全斌をもって後蜀討伐に乗り出すと、興元(漢中)において迎え撃ったのだが
相手は無双の王全斌。
韓保貞は興元を棄てて西県を固守したが、史延徳に敗れ捕虜となった。
開封に送られた韓保貞は、どういうわけか手厚く扱われた。
趙匡胤は親しく接し、いろいろなブツを下賜したという。
(なんつう気さくな。成都の略奪に対するパフォーマンス?)


237 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/04(火) 22:26:26 ID:RXYbYDJm0
続いて後蜀から、李廷珪。
韓保貞とともに、雍州の趙匡賛を救援するために出陣した人。

李廷珪。もとは太原の人で、幼い頃、孟知祥の帳下にあり、ともに成都に入る。
隷属的なものだったので、全然名もなき庶民だったのでしょう。
そういった実力者の身の回りの世話とかから出世できてしまうのが今の世の中。
後主の代になって中央軍の将帥となり、契丹の侵攻で動揺している後晋領の階州を抜いた
功績により、眉州刺史とされ、例の雍州節度使・趙匡賛帰順の折では、
韓保貞が鳳翔を牽制、あるいは攻撃の動きを見せ、李廷珪は長安救援のため子午谷を急いだ。
しかし子午谷を抜けて耳にしたのは、趙匡賛がすでに後漢に帰順したとの報告だった。
軍を返そうとしたところ、王景崇に遭遇し、李廷珪は敵地に孤立状態となり敗走した。

その敗戦後、李廷珪は興元(漢中)に拠り、西暦954年には閬州に移り、
興元には韓保貞が入った。
西暦955年5月、後周軍が後蜀の秦、鳳、成、階の四州を攻略目標として出師した。
李廷珪は北路行営都統として迎撃軍を指揮し、秦、成、階の三州において後周に敗れる。
(あっさりした記事だな… 後主本紀で補うか…)

秦州(天水)の韓継勲は大敵を防ぐ器にあらず、と客省使の趙季良は言い、自分が適任と売り込んだ。
しかし後周の大将・王景が瞬く間に大散関を抜け、秦州の八つの砦を抜くと、恐れて逃げた。
後主は改めて迎撃軍を編成した。対後周軍に対する布陣は以下のとおり。
北路行営都統に、捧聖控鶴都指揮使、保寧軍節度使・李廷珪。
北路招討使に、左衛聖歩軍都指揮使、武定軍節度使・高彦儔。
副招討使に、武寧節度使・呂彦珂(武寧軍は徐州節度使の軍額。遥領か?)。
監軍に、客省使・趙崇韜。

6月、李廷珪は武威城の戦いで、後周軍を破り、排陳使・胡立(濮州刺史)を捕らえた。
このときの後蜀軍の軍装には、斧の刺繍がされてあり、自らを「破柴都」と呼んだという。
むろん、後周皇帝の姓が柴だからだ。
後蜀朝廷は南唐と北漢に使いを出し、二国の協力をもって後周包囲網を作った。
このとき後周軍は撤兵の気運が高まっていた。しかし後周将・韓通の援軍、
趙匡胤の激励によって勢いを盛り返した。
8月、李廷珪は後周の将・王景に打ち破られ、300人の捕虜を出した。
後主は伊審徴を遣わし、将兵の労をねぎらうと共に、改めて作戦を練らせた。
9月、李廷珪は先鋒都指揮使・李進を馬嶺寨に拠らせ、さらに伏兵を斜谷から出させたうえで、
残りの兵力をもって鳳州の北、唐倉鎮、黄花谷に出、後周軍の糧道を狙った。
翌閏9月、後周軍も負けておらず、大将の王景は裨将・張建雄をして黄花谷を牽制させ
また別に1000ほどの部隊を唐倉鎮に向わせ、逆に後蜀軍の退路を断つ構えを見せた。

唐倉鎮を任された王巒は出撃して寡兵の張建雄を攻撃するため、黄花谷に向ったが
そこで敗れ、また唐倉鎮に戻る帰路でも後周軍の部隊の奇襲に遭い、さらに敗れた。
これによって、馬嶺寨の李進も王景の各個撃破のえじきに遭い、潰えてしまった。
李廷珪と高彦儔は退いて青泥嶺に拠ったが、秦州の雄武軍節度使たる韓継勲は怖れて、
秦州を棄て成都に一人遁走してしまった。
秦州は城をもって降り、斜谷からの援軍もまた潰えてしまった。
そうなるともう見ているしかなく、成州も階州も続いて降ってしまった。
李廷珪は罪を謝したが、後主は不問としたという。

しかしここで完全に抜け殻になってしまったようだ…
後の北宋が起こした後蜀討伐のとき、王全斌の軍と遭遇すると狼狽して逃げたという。
この頃は朝廷が随分おかしなことになっていたので、真面目に戦うのも馬鹿らしかったろうけど
韓保貞にしろ李廷珪にしろ、前半よくて後半ダメダメというのは、なんかこの時代ならではのような気が…



238 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/04(火) 23:29:46 ID:mys9i4cT0
五代の頃は、皇子たちも軍人としての教育を受ける傾向にあったんだろうな。

239 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/05(水) 03:06:50 ID:Vnx426HX0
わざわざ此処にまで出張って、長文あげるなくてもよくね?

自分の巣が有るんだからそこで書けばいいじゃん。

240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/05(水) 08:47:36 ID:3UP9qW4s0
>>239
ありゃ。巣のありかを知っておるのか?
ならば歓待せずばなるまい…
巣に挙げるよりここに挙げた方が労力いらんのだw
で、ちょっとやる気になったら、まとめて巣に返すつもり。
反応もみてる(反応ないけど)。まぁ許してたもれ。

241 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/05(水) 12:26:40 ID:tYsVDy8x0
>>236
孟知祥や薫璋が任された西川や東川ってどのあたりなんだろう?
歴史地図見ても載ってないんだが・・・

242 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/05(水) 12:41:41 ID:3UP9qW4s0
うわ、すげい間違い。

>>237
>>秦州(天水)の韓継勲は大敵を防ぐ器にあらず、と客省使の趙季良は言い、自分が適任と売り込んだ。

名前が似てるから間違えた。「趙季礼」です。
趙季良は後蜀初の名臣だよ… 失礼にもほどがあった。
趙季礼は列伝すら立ってないようだ。チキンだからしょうがないか?

243 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/05(水) 12:47:48 ID:3UP9qW4s0
>>241
西川および東川というのは、節度職に与えられる「軍額」なので、地名ではないのです。
正確には
「剣南東川」、「剣南西川」といいまして、その後に「節度使」がついて、剣南西川節度使となります。
で、節度使の管轄する領域は、数州に及びますが、節度使が政務をとるところを「使府」といい
その使府が置かれている州が、メインということになります。
よって、剣南東川は梓州が中心であり、剣南西川は益州ということになります。
益州はいわずと知れた成都のことですね。

244 :携帯から失礼:2007/09/05(水) 21:29:27 ID:hUwRUGQsO
>>240
>反応もみてる(反応ないけど)。まぁ許してたもれ。
うわぁぁぁん…
自分は結構楽しみにしてるし、反応もしてるつもりだが…orz
(全てにレス出来なくともマメに覗いてるし、布教活動も支援してる)

245 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/05(水) 23:32:32 ID:3UP9qW4s0
○さんは見てくれていると思ってます。
ちゃんとカンウントしてますよw

時代性の認識という点で、当たり前だけど後漢末三国におとりすぎ
武将の観点からの切り口で紹介するも、五代期の連中っつうのは
粒の大きいのと小さいのとの差がすごすぎる。

華北側は大きいのがそれなりに揃っているけど、なんかこう華南を呑むよう
気宇をもったやつはおらんのかと小一時間(ry
南唐がその点、一時だけ江南の大半を治めたな。すぐに呉越や周行逢にやられて頓挫し
そのあとには後周から鈍器で殴られ、奥に引き篭もってしまったが…

正味、銭弘佐には南唐に生まれて欲しかったように思う。
あの苛烈と果断さは柴栄に匹敵するものがある…
ただ、田中小説「潮音」では、福州救援には自ら行ったとあるけど
どうやら、それはないようだ(親征しないようでは柴栄には勝てんぞ)。
それにしても、あの小説では南唐側の名将・孟堅を戦死させていることは書いてなかったな…
参考にしたのは《新五代史》だけだろうか…?
それであの分量ならすごすぎるが。


246 :携帯から失礼:2007/09/06(木) 03:39:23 ID:lZMFjrSnO
ちょっと悲しかったんで陳情したの…スマヌ
陳御大、曰く五代の歴代王朝は地方軍閥に毛が生えた程度の政権だそうな…
(十国の立場ねえな)
そ、そんなにまで言わなくてもいいと自分は思った…

247 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/06(木) 09:33:23 ID:nWIhV3LL0
>>243
どうもありがとうございます。ずっと気になっていたんですが、ようやくすっきりしました


248 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/06(木) 23:04:17 ID:nX/Q3DG20
他で誤爆したが…

銭弘佐に触れたので、ちょっとやってみるか。

中献王・弘佐。
《新五代史》、《旧五代史》は宋代に編まれた史書なので、宣祖の諱である「弘」が省かれ、銭佐となる。
銭弘佐の薨じた季節は、6月乙卯(22日?よくわからん…)、つまり夏真っ盛り。
『潮音』の書き出しの幻想的な描写は潰えた…
ということは、やっぱり《新五代史》のあの九行程度の記事をもとに、あの短編を起こしたのか。

14歳で、鎮海(杭州)、鎮東(越州)両節度使を継ぎ、9月、王位に上った。
しかし若い主に、軍中の評判はよろしくなかった。
丞相の曹仲達(いい名前だな…)が親しく言い聞かせて、とりあえず収まったそうな。
実際に、後晋から玉冊を受けたのは、2年後の天福8年(943)10月。11月には曹仲達が卒した。
この前後年に、先任の丞相が続々と死に絶えている…
銭弘佐としては辛いところだったろう。
そのため、11月に弟、銭弘倧を丞相に据えている。
(ただ、中献王世家に記述がなく、忠遜王世家にあるのみというのは…?)
1年ののち、杜昭達、闞璠(かんばん)ら、親衛の将帥を誅殺した。
呉越王といっても、内実は節度使の気風が強く、その身の回りを固める親衛隊の
将兵は牙兵といって、とくに節度使と個人的に密接な間柄といえた。
官ではなく私兵的な存在なので、公私の別がつきにくい事情があった。
そのため、牙兵は驕慢に陥りやすく、節度使でさえ意のままに挿げ替えようとする動きが活発だった。
これは、皇位を称した河南政権でさえそうだった。
皇帝の親衛隊たる禁軍の将兵が駄々をこねて、皇帝を擁立した例は、李嗣源、郭威、趙匡胤
を見れば明らか。柴栄も高平戦のとき、禁軍将帥に裏切られ、全軍崩壊の手前まで陥ったことがある。

翌年になって南面兵馬都元帥を拝命し、その冬、閩国に乱あり、遺臣の李達は呉越に臣と称して
救援を請うた。
銭弘佐は諸将を集め事を計ったが、諸将は救援には反対だった。
しかし銭弘佐は唇亡歯寒の故事を言い、異議あるものは斬る、とまで言い李達の救援を決した。

閩国はこの2年前から内乱によって簒奪があった。
閩王を弑した朱文進と殷皇帝を称した王延政が争い、南唐の枢密使・査文徽の提案により
南唐が介入するという擾乱ぶりを呈していた。
福州をもって南唐に庇護を求めた李仁達(李達)は、しかし南唐の入朝の命に従わず、呉越に
臣と称して救援を求めた次第だった。

内衙都監使の水丘昭券(後漢の司隷校尉・水丘岑の末らしい…)に用兵を司らせ、
丞相・元徳昭に軍略を委ね、実戦部隊3万を張筠、趙承泰に預け、
水陸から福州に向わせた。
南唐の査文徽は、建州にあって、降将・孟堅を監軍使・馮延魯(馮延己の異母弟)につけて
各地を平定させていった。
呉越軍の入った福州も一気に攻め、呉越軍はいきなり苦戦を強いられた。

翌年の3月になってようやく銭弘佐は余安を海路から援軍として差し向けた。
余安は上陸するや船を棄て、平地に陣形を展開した。
馮延魯はこれをみて、「福州はなかなか落ちないが、あの援軍を叩けば降伏するだろう」と言った。
しかし孟堅は諫めた。「彼らは自らを死地に置いています。このまま戦っても勝敗定かとはいえません」
馮延魯はそれを聞かず、軍を進めた。
余安は陣鼓を打ち鳴らして、福州城内に援軍来着を悟らせた。
福州城内の呉越軍は、はたして出撃し、平野において馮延魯の軍は挟撃され壊滅した。
孟堅は戦場に踏みとどまり、馮延魯の血路を開いたが、力尽きて果て、
楊匡業、蔡遇などを捕縛し、死者は万を数えたと言う。
(《新五代史》に楊業となっているのは、当然、趙匡胤の諱を避けたからだ)

南唐に勝ち、福州を得られたことは呉越にとっては大きい。
後晋は諸道兵馬都元帥、開府儀同三司、尚書令および、資忠緯武恭懿翊載功臣を賜った。
そして6月、20歳にしてこの世を去る。

249 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 22:33:19 ID:1sa4cS5s0
>>248
訂正。
>>そのため、11月に弟、銭弘倧を丞相に据えている。

これは単に読み間違いだった。
弟・銭弘倧を丞相に任じたのは、福州を保ったあとのことで、死ぬちょっと前でした。
おお。そうなると『潮音』のベースはかなりやばいことに…w
ま、それなりにおもしろいからいいか。

250 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/24(月) 08:27:00 ID:c9oRKVOf0
潮音はやっぱり美化しすぎだよね。

ただ、他にああいう題材で小説を書いてくれる人がいなさそうだし。

251 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/24(月) 18:51:31 ID:bFCwfmHZ0
『潮音』の美化はいい美化と思うんだが、それは人それぞれとして。
評価できるところは、《新五代史》の、半ページほどの記述しかない
銭弘佐を取り上げる気になったことと、その分量。
『茶王一代記』にしてもそうだけど、史実どおりに書いてても
盛り上がるかどうかは別問題。
その頃の感覚を取り戻して欲しいものだけど、『人皇王流転』みたいなの
書いてるようでは、なかなか…

252 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 11:56:23 ID:hToQX1tX0
田中氏ってあんまり腰が定まっていない印象がある。
そのへんが、一部作品の、「いつになったら完結するんだ!」的な状況に繋がっている気も……

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