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石勒

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/03(土) 14:52:33 ID:8GpvuftV0
五胡十六国時代の最大の英雄。文盲の後趙の創設者。
奴隷から盗賊、盗賊から皇帝になった男

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/03(土) 16:14:18 ID:toh8CIJH0
失せろ

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/03(土) 16:18:30 ID:h8+xsO/m0
石勒(274〜333)
 字は世龍。後趙の初代高祖明帝。在位319〜333。上党郡武郷の人。周曷朱の子。
 羯族の部族長の子であったが、窮乏したため漢人に売られ、山東の民家の奴隷となった。
 太安年間に飢饉のために山野に逃れて、馬賊の首領となり、諸勢力の下を転々とした。のちに、漢の劉淵
に帰属し、河南・山東の経略を任された。
 永嘉三年(309)、鉅鹿・常山を攻め、君子営を作って漢人の知識人を集め、その中から張賓を抜擢した。
 劉聡が即位すると、并州刺史となり、汲郡公に封ぜられた。五年(311)、西晋の太尉・王衍を捕らえ殺した。
光初元年(318)、劉曜が即位すると、大司馬・大将軍に上った。翌年、靳準の乱を平定し、趙王を自称した。
 趙王の十年(328)、太和と建元し、前趙の軍を破った。
 翌太和二年(329)、前趙を滅ぼし、劉曜を殺すと、天王を称し、のちに帝位についた。
 羯族を軍事基盤として、華北の大半を平定し、華南の東晋と対峙した。漢人士大夫を登用して、律令・官制
を整えた。『趙書』などの史書を編纂させたといわれる。仏教を崇拝し、仏図澄を信奉したことでも知られる。

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/03(土) 16:42:02 ID:dptrkRIWO
趙書って現在には残ってないの?

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/03(土) 17:11:43 ID:rEP+geB50
>>4
『太平御覧』その他の類書に逸文が残っている。

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/03(土) 17:27:26 ID:rEP+geB50
て、逸文が残ってるのは崔鴻の『後趙録』の方か……。
石勒が編纂させた『趙書』は多分残ってなかったかも。
不確実でスマン……。

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/03(土) 17:57:19 ID:QjlfWj9G0
石虎ってやっぱり駄目君主なのかな

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/03(土) 21:02:40 ID:bM+eqh0B0
石勒配下の将帥としては、トップだろうね>>石虎
何か、後趙政権は養子関係が多いよなあ
唐末五代を彷彿とさせるくらい、養子がらみのトラブルが多い
田堪や冉良(石瞻)みたいに良い拾い物だったりすることもあるが

石生と郭権のコンビも好きだがやっぱ孔萇が一番かな
経歴がよく分からないが、先鋒として幽、冀、并州を荒らしまわった軍事手腕は凄い

石勒配下の将軍達は、結構胡散臭い出身が多いよな
羯族+十八騎+君子営+乞活集団等々、寄せ集めというかイロモノというか
こういう連中が晋正規軍を壊滅させたり、匈奴部族を撃滅させたりと、いやはや痛快だ

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/03(土) 22:11:50 ID:dptrkRIWO
>>6
いえいえ、情報ありがとうございます
趙書が正史として認定されていたら今日まで完全な形で残ってたんでしょうけどねぇ

>>8
なんか後趙政権って面白そうなやつらの集まりですねw
今度図書館にでも行って『晋書』載記でもじっくり読んでみようかな

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 23:52:54 ID:0qadWPfZ0
石勒の小説があったらさぞかし面白いだろうな。

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 21:37:12 ID:bj6yZ9qX0
石勒スレ、いまいち伸びず。

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 20:19:08 ID:cN3veDDI0
彼、劉邦のファンだよね。

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/12(月) 11:52:24 ID:ZNNluy890
石勒も文盲だけど、耳学問を身につけた口だね。

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/12(月) 22:09:48 ID:0LhkzW1o0
石勒に負けた所為でかませ犬扱いになっているが、苟晞や祁弘あたりは
時代を代表する名将だったはずなんだがなあ、永嘉の乱さえなければなあ……
石勒に負けて、なお評価を保っているのが、祖逖と劉曜ぐらいだもの

しかし、後趙の崩壊の過程は、映画とか漫画によく出てくる「悪の帝国」の断末魔にそっくりだ
あれだけ残虐非道やってても、少しは延命できるんだものね

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 23:06:08 ID:Xp4MZbpf0
石勒十番勝負!

一回戦:少数民族に生れ落ちる、部族崩壊の危機との戦い
二回戦:并州大飢饉、飢餓との戦い
三回戦:東エイ公司馬騰による奴隷狩り、生存率30%以下の地獄の生存競争
四回戦:青州刺史苟晞による匪賊討伐、初の官軍との戦い
五回戦:王衍指揮する晋正規軍主力に対しての徹底的殲滅戦、おまけで司馬氏皇族の殆どを屠殺
六回戦:青州の群雄王彌との知略戦、喰うか喰われるかの内ゲバ
七回戦:幽州の実力者王浚に対する詐術の極みを尽くした謀略戦、小が大を喰らう大番狂わせ
八回戦:愛国詩人劉コンの徹底抗戦、華北の晋系軍閥をほぼ壊滅させる
九回戦:祖逖の北伐、河南の大部分の領土を切り取られ、結果として華北統一を大きく遅滞させられた屈辱の一戦
十回戦:劉曜との華北統一をかけた一大決戦、至高の死闘を制して劉曜を滅ぼす

最初から最後までクライマックスだな、この男

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/14(水) 02:50:15 ID:8CVyj74V0
>>15
>最初から最後までクライマックスだな、この男

それこそ陳翁か芳樹かソープ先生が小説化でもすりゃ、
アッー!と言う間に流行りそうな題材なんだけどなぁ……。

極め付けは「曹操・司馬懿などは話にならぬわ!」でしょ。
どんだけエピソードに恵まれてるんだよ!って話ですよ。

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/14(水) 02:52:57 ID:8CVyj74V0
あとは、若い頃に洛陽に行商に行ってて、
王衍とニアミスしてるという伏線まである。
どんだけ小説向きなんだ、この御仁は。

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/14(水) 23:51:10 ID:AfLa1Gt70
>>15
ドラマにしたら、すごく盛り上がると思う。
ちょっとアドベンチャーちっくというか、派手な演出で。

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/24(土) 09:43:41 ID:OIm6DQJR0
>>16
陳先生はあんまり期待できないんだよねえ
(小説十八史略は正直この時代のヤツは、イマイチ)
ガイエは漢民族至上主義者だし
逆に祖逖や桓温あたりを主人公にすれば、五胡の連中を魅力的な悪役で書いてくれそうな気もするが

ソープ先生の思考が一番あってそうな時代だが、凄い読み疲れしそう
劉曜と羊皇后のセックスシーンに期待したい

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 09:30:14 ID:pOag7Fkq0
>>19
>小説十八史略は正直この時代のヤツは、イマイチ

確かにこの時代の部分は、あまり印象に残っていないな。

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/15(日) 09:43:17 ID:rCOplb3S0
三国志あたりからは無名だが石勒の人生はかなり面白い
毎回毎回が赤壁の劉備みたいな戦い

22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/15(日) 21:46:53 ID:tQsxT1rz0
石勒は、幼少時代から利発そうなイメージを周囲には与えていたんだろうね
洛陽への行商に付き添っていったり、郭敬から厚遇を受けていたり
ただの弱小部族の族長の倅にしては、結構デキが良かったんじゃないのかしら?

ライバルの劉曜の方が、個人的には好きなんだが
朝鮮に潜伏していた後、ほとぼりが冷めて本土に戻ってきた後も、自分の容貌魁偉なのを
コンプレックスに感じて、プチ引き籠もりしているあたりなんか、ちょっと親近感が沸く
戦は強いし、行政手腕にも優れていて、度量の広い人物なのに
肝心なところで抜けてるあたり、勿体無いけれども、それが魅力になっている

この時代、完璧超人っていないよね
どいつもこいつも、頭のネジが外れているか、歯車ひとつ抜けている

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/21(土) 23:07:55 ID:aZs4vkgT0
この人、奴隷狩りを行った司馬騰にも復讐果たしているよね
やはり、ドラマがあるな
(確か、このころ公師藩配下の汲桑のさらに下にいたはず)
ただ、終わりがハッピーエンドといいきれないのが残念

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/22(日) 00:05:30 ID:KtebAxSG0
wikiから

石勒(せきろく 274年 - 333年、在位319年 - 333年)は中国、五胡十六国時代の後趙の創建者。字は世龍。廟号は高祖、諡号は明皇帝。

上党郡武郷(現山西省楡社の西北)の人。周曷朱の子。羯族の部落小帥の子であった。
当時の羯族は漢族によって迫害を受けて困窮し、并州の飢饉戦乱にあって部落離散して、
石勒も流浪の旅に出ざるを得ず、その途中で晋の東嬴公司馬騰に捕らえられて山東の師懽に売られて奴隷とされた。

八王の乱の混乱に乗じて群盗となり、公師藩が起兵するとこれに合流した。
ほぼ同時期に匈奴の劉淵が漢(前趙)を興したのでこれに帰順し、輔漢将軍・平晋王として征戦に従事した。

309年、鉅鹿・常山を攻め、君子営を作って漢人の知識人を集め、張賓を謀主とした。
310年に劉淵が死に、劉聡が即位すると并州刺史となり、汲郡公に封ぜられた。
311年、東海王司馬越の葬列を襲って、西晋の太尉王衍を捕らえて殺した。王弥を誘い殺してその部下を併せ、襄国を拠点として幽州・并州の経略にあたった。
王浚を殺し、劉琨(王編に昆)を破った。

318年、前趙の劉曜が即位すると、大司馬・大将軍に上り、次第に劉曜と対立するようになった。
319年、靳準の乱を平定し、趙王を自称した。これが後趙の建国である。
328年、太和と建元し、洛陽で前趙の軍を破った。

329年、前趙を滅ぼし、劉曜を殺すと、天王を称し、翌年に帝位についた。
羯族を軍事基盤として、華北の大半を平定し、華南の東晋と対峙した。

333年に死去するが、死後に後継争いが起き、太子が殺されて史上に殺人鬼の名前が高い石虎が帝位につく。

石勒は自らは字が読めなかったが、他人に書物を読ませて聞かせる事が好きであり、漢人士大夫を登用して、律令・官制を整えた。
『趙書』などの史書を編纂させたといわれる。仏教を崇拝し、仏図澄を信奉したことでも知られる。

また、過去の群雄について、次のように評した。
「(部下に三王や軒轅に匹敵するとおだてられ)卿らは誉めすぎだ。もし朕が高皇に会ったら、(その部下となり)韓信や彭越と先陣を競うだろう。
光武に会ったなら、互いに中原の鹿を追い(天下を争い)雌雄を決するだろう。
(しかし)大丈夫(立派な男)たる者、磊磊落落(「磊落」の強調)、日月が明るく輝くように物事を行うべきであって、
曹孟徳(曹操)や司馬仲達(司馬懿)父子のように、孤児(献帝)や寡婦(郭太后)を欺き、狐のように媚びて天下を取るような真似は絶対にできない」
と、発言した。


25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/22(日) 10:43:35 ID:YrXbgPZ00
劉邦より劉秀を下に置いているけど好みの問題かな?
為政者としても武将としても劉秀のほうが劉邦より上だと思えるけど

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/22(日) 11:01:29 ID:KtebAxSG0
>>25
それは色々、解釈が分かれるね
張賓が張良にあこがれていたらしいので、その影響かな?

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/22(日) 11:24:49 ID:Zv3ADvyy0
ウィキペディア

http://en.wikipedia.org/wiki/Shi_Le
記述が充実している英語版の「石勒」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8B%92
記述量が少なすぎる日本語版の「石勒」

http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8B%92
英語や日本語以上に悲惨な中国語版の「石勒」

■英語版に負けているよハズカシー!!(><)

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/22(日) 15:20:07 ID:IQL32nQY0
感覚的な問題として三国時代が身近だったから
後漢末の悪いイメージが後漢という時代そのものにフィールドバックされてたとか

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/22(日) 15:24:40 ID:69IhdvJmO
>>25
全体的により古い時代を上にみなす風潮があったのと、より低い地位・悪い条件から成り上がったあたりを評価してるんだろう

30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/22(日) 16:10:28 ID:uCVr5Inc0
劉邦は「将に将たり」という言葉があるように、能力のある者を内包できる器があるからこそ
劉秀より上に評価してるんじゃないかな。

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/22(日) 16:43:43 ID:hJbykvaU0
>>27中国はwikipediaへのアクセスに規制が引かれていたからな。
最近解除された様だが、香港や台湾からの書き込みだけでは高が知れているだろう。
それに標準語がまだまだなのに、
広東語とかビン南語、呉語、はては漢文のwikipediaまで有る。

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/23(月) 12:12:50 ID:mJMitn2v0
高祖=俺の方が強いだろうけど好きだから殺したくない。
光武帝=最終的に俺には敵わないだろうが、ゾクゾクするような勝負が出来るのはこいつだけだ。
曹操、司馬懿=女子供を出汁にするなんてマジ許せん。天誅を下してやる!

こんな解釈も可能と言えば可能。

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/25(水) 22:10:12 ID:wpLTKgl90
光武帝のことは「まさに中原に並駆すべきも、鹿が誰が手に死せんかを知らず」と、
天下を争うが、勝てるかどうかはわからないといっている。
石勒は光武帝を、高祖のような魅力は無いが自分の好敵手たりえる男と考えていたのだろう。
高祖に対しては自分は粛清されない自信があったか、
殺されても良いから臣下になりたいというほど憧れてたんだろう。

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/29(日) 12:32:03 ID:DWTSJYdx0
王衍を殺すのに土壁の下敷きにしたのはなぜだろう?
刃の穢れになると思ったのかな?

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/29(日) 13:47:15 ID:HYVcbzd70
虚名とはいえ、人望があったからじゃない?
政治家というのは無能でも悪人でなければ人気は高まるし
首を斬ると冥界で困るという考えがあったので、
五体残る形の死刑としては軽いものにしたのだろう

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/29(日) 15:32:48 ID:k+WAZZHh0
劉淵=信長
石勒=秀吉

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/29(日) 15:37:17 ID:2AfY9TF10
石勒の大虐殺のほとんどは坑殺だからなあ
城壁圧殺と比べても、残酷度はそんなに高くないと思うぞ
司馬懿が遼東でやったような京観の方がずっと残酷だろうよ

中国の黄土平原の土質は縦割れしやすい性質があるから、旱魃が起こるとそこらへんに
巨大なクレバスができると聞いたことがあるんだが、本当なんだろうか?
項羽の秦兵大虐殺も、そういう地隙に坑埋めして実施したとかなんとか

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/30(月) 03:20:04 ID:K2Ru/riJ0
>>34
たぶん、「貴人に刃を加えてはならない」っていう、北族の風習に由来してるんじゃ。
確か後代のモンゴルにもあったと思う。絨毯で簀巻きにして馬で踏み殺すっていうのが。

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/30(月) 03:32:46 ID:K2Ru/riJ0
《晉書》 卷一百四 〈石勒載記上〉

 勒重衍清辨,奇範神氣,不能加之兵刃,夜使人排牆填殺之。

《晉書》 卷四十三 〈王衍傳〉

 謂其黨孔萇曰:「吾行天下多矣,未嘗見如此人,當可活不?」
 萇曰:「彼晉之三公,必不為我盡力,又何足貴乎!」
 勒曰:「要不可加以鋒刃也。」 使人夜排牆填殺之。

とあるから、どうにも奇妙で不快な奴だけど、しかし、驚くほど優雅で
明らかに貴人だから、石勒は王衍を斬刑に処せなかったんだと思う。

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/30(月) 08:46:29 ID:lGwawojG0
>>35
>>38
>>39
成る程ね。
てっきり文官は自殺するとき体を傷つけてはいけないので、
それに対する嫌がらせとして圧殺したのかと思った。

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/30(月) 16:09:03 ID:S4sPrWxx0
石勒はライバルが豊富だな
晋:王衍、苟晞、王浚、劉琨、祖逖
趙:劉曜
他:王弥、靳準、曹嶷、段文鴦

この中で会ったことのないのは劉琨、祖逖だけというのもすごい
(靳準、曹嶷、段文鴦は微妙だけど)

42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/30(月) 17:17:01 ID:gYWSIyop0
劉越石と祖士稚の関係がウホッにしか思えない俺は相当末期だな……
しかし、明らかに友情以上の熱い関係を感じるものがある

軍事的才能だけで見れば(永嘉の乱〜石勒崩御まで)
A:石勒(魏晋南北朝期で最高峰の将帥)
B:石虎(晩年の耄碌さえなきゃ、間違いなくAクラス)
  劉曜(何気に、洛陽と長安の両都を陥落させている功績があるんだよね)
  陶侃(劉弘から受け継いだ荊州を堅守し、後の西府軍の礎を築く)
  祖逖(逆境野郎、中央政府から足を引っ張られつつの北伐はぶっちゃけありえない)
  苟晞(少なくとも、永嘉の乱までは時代を代表する超名将→石勒のかませ)
C:王彌(一時は全斉の主まで登りつめた梟雄、でも石勒のかませ)
  祁弘(八王の乱を実質平定させた王浚配下の将軍、この時期までの王浚は間違いなく英雄だった)
  孔萇(石勒最強の手駒、彼なくしての河北平定は不可能だっただろう)
  段末破(鮮卑段部の猛将その1、世評では鮮卑最強だったらしい)
  段文鴦(鮮卑段部の猛将その2、石虎のかませ)
  劉聡(匈奴漢二代目、部下は多士済々だが碌なヤツがいねえ)
  陳安(関隴の狂犬、一体何がしたいのかよく分からんが、戦争には滅法強い) 
D:曹嶷(王彌子飼の将軍、とりあえず斉で細々と生きながらえていたが、所詮は石虎のかませ)
  蘇峻(東晋の将軍、内弁慶、婦女暴行犯)
  希鑒(北府軍の創始者、地味)
  劉昆(捲土重来するその気概は買うが、もうちょっと考えて戦争しましょう)
E:たくさんいると思うが、やっぱ王衍

ヒマだったら誰か適当に訂正してくれ

43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/30(月) 21:12:06 ID:8n8s+mbY0
石勒崩御までなのに、石虎が晩年の耄碌でマイナス査定な件

44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/30(月) 21:45:19 ID:JOhXNLk30
温かい目でそっと見守るんだ。

王衍を出すなら、その上司を務めた司馬越を入れてもいいんじゃないの?
あと、宗室諸王の能臣なら司馬虓とか。
漢(前趙)との交戦期に「暴薨」してしまった人だけど。

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/30(月) 22:52:03 ID:HmIBa5nz0
宗室諸王なら、長沙王司馬乂が一番有能だと思うんだが
少なくとも大器の片鱗は見せているし、祖逖を歴史の表舞台に登場させた人物でもある
こういう人物が殺されてる時点で西晋の滅亡は免れ得なかったのだろうけどさ

石勒に宗室諸王がほとんど殺されてるけど、世間にとってはむしろ好影響の方が多かったように思える

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/30(月) 23:10:23 ID:t5EALBi60
成都王も結構有能だと思う。
八王のうち後半の四人は、それぞれに大英雄とは行かずとも
小英雄の風格があったと、個人的には考えてるんだけどね。
能力があったからこそ、かえって乱を長引かせてしまったというか。

宗室諸王でアレな人というと、司馬騰かな。
石勒が喰うために奴隷にならざるを得なかったときの皇族。
殺される原因も、吝嗇が過ぎて人望を失ったせいなのが…。

47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/30(月) 23:11:50 ID:sIj/NWAB0
>>42
軍事的才能でいえば祖逖は石勒を上回るんじゃないか?

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/30(月) 23:36:10 ID:HmIBa5nz0
>>46
石勒の勢力の源流は成都王軍閥に繋がっているからな
【業β】で採用した君子営の漢人官僚の中には、結構成都王に仕えていた人間多かったじゃないの?

石勒が劉淵(匈奴)に接近できたのは、成都王派閥の誼があったからなのではと勘繰ってしまう
まあ、石勒自身が成都王に仕えたわけではなく、陪臣の弟分だから大したコネではない
そうすると、どういう基準で劉淵に仕えようと思ったんだかね?
王浚(幽・冀)、王弥(青州)、劉淵(并州)、ここいら辺、誰に与してもあんまり大差ないよね

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/01(火) 09:35:08 ID:zMt08VCS0
八王全員の雁首そろえて政治させても、賈后の治世の足元にも及びそうに無いのが……
賈后は政治闘争に明け暮れた分だけ、一応政権運営にも真面目だったからね
コネ採用やら何やら言われるが、賈氏政権を安定させるために人材蒐集に努めたわけだし

ところで、羊皇后って歴史上屈指の下げマンだよね

50 :転載:2007/05/02(水) 00:58:01 ID:yNRmWGrM0
>石勒は中原をほぼ統一し、当時の中国における最大勢力であり、中原に覇を唱えたといってよい。
>その自負心が現れた発言である。
>また曹操や仲達を嫌っているのがわかる。
>しかし石勒は天下統一した劉秀と比べられる存在なのか、
>あるいはこの発言を劉邦>劉秀と理解するべきなのか。
>一般に中国史の人物評論は、その能力ではなく結果と行動で評価される。人物とはその結果を含めた存在なのである。
>人物の能力を読みとるという考え方はない。
>ここに注意が必要なのである。
>さて、石勒がもし高祖劉邦の時代に生まれたらどうか。
>言葉の通り、劉邦の家臣として活躍することになるだろうと思う。
>はっきりいって能力的には石勒の方が上だが、
>石勒の前半生はほとんどが劉淵や劉聡の家臣であり、自立までが非常に遅い。
>出身の違いがあり、自立する勢力を持ち得ない存在である以上、劉邦の家臣となるのは必然である。
>本人の判断どおり、韓信や彭越のような活躍をするだろう。
>そして粛清を免れるだけの知恵があるかどうかは興味深いところである。

51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/02(水) 00:58:45 ID:yNRmWGrM0
>次に、石勒が光武帝劉秀の時代に生まれたらどうか。
>劉秀は石勒ほどではないが、自立までがやや遅い。
>だから、その間に石勒は自己勢力を作ることができる。
>すなわち自立して争うことが可能である。
>石勒と劉秀が兵力を持って対決した場合、おそらく決着はつかない。
>これは別に劉秀の能力が低いというわけではなく、
>国というのは守る側が正しい政治と用兵を行えば、
>少々の国力差や能力差では奪うことができないからである。
>おそらく、隗囂よりやや上の活躍ができるだろう。
>隗囂ですら滅んだのはその死後であるし、三国時代の曹操が袁紹や劉表を平定したのもその死後である。
>ただし石勒は劉秀のような治世手腕はないので死後に国が滅びることになるだろう。


52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/02(水) 00:59:27 ID:yNRmWGrM0
>劉邦の凄さというのは、その自立の速さである。
>他の時代の英雄であんなに早く自立した人物はいない。
>それは秦の崩壊という特殊現象が生み出したものである。
>我々が君主の能力を見る場合に、それが意味を持つのは、最初から10万の兵士と100万の国民を与えて対決するという想定である。
>その場合、劉秀>石勒>劉邦であり、劉邦はおそらく国を維持できない。
>劉秀と対等足り得るのは唐の李世民だけである。
>ただし、劉秀と李世民は対決を避けると思われる。
>どちらも国民生活を見る視点を持っているから、無用に死傷者を出し民衆を苦しめることはしないだろう。
>面白そうなのは、劉秀が劉邦の時代に生まれたならという想定である。
>おそらく劉秀は劉邦の家臣になると思う。
>劉秀は別に皇帝になりたいと思ったことは一度もない。
>誰も皇帝がつとまらないからやってあげただけである。
>劉邦がやるなら別に劉秀がやる必要などないのである。
>劉秀の能力などから考えるとその生涯は曹参のような感じだろう。
>武勇の将軍として活躍するも、不思議に粛清の危険には全くさらされず、最後は宰相にまでなりそのまま没するだろう。
>劉秀なら、劉邦との対決を全く作り出さず誤魔化しきってしまうだろう。
>さらに李世民が劉邦の時代に生まれたらどうか。
>この場合も李世民は劉邦の家臣としてはたらくだろう。
>そして、粛清の時に返り討ちにしてしまう。
>このケースでは、最後に天下を取るのは李世民である。


53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/02(水) 01:00:25 ID:yNRmWGrM0
>劉秀の時代に李世民が生まれた場合はどうか。
>意外だろうが、劉秀の家臣として活躍すると思う。
>李世民は自立が非常に遅いからだ。
>劉秀の家臣では、騎兵戦の名手にして医術に長じた耿弇の能力や性格が、李世民とかなり似ている。
>おそらく耿弇のような生涯を送るだろう。
>李世民と劉秀の二人は、民衆生活を考えて天下をより近い位置にいる人に譲ってしまうので、基本的に争いにならないのである。
>結局、誰が一番かというのは、そのときの状況次第で逆転してしまう。
>それがまた歴史の面白いところなのである。

54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/02(水) 01:03:11 ID:yNRmWGrM0
>>50-53は著名な光武帝ファンのblogから転載したもの。
俺は非常に頷く所が大きいが諸君はどうだろうか?


55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/02(水) 06:08:16 ID:6e2NbG6l0
>>54
「石勒の政治手腕が低い」ってネタだよな?
確かに、実務能力や文化教養は持ち合わせていないが
それなりの識者を見出し、適切な業務を分投げるという意味じゃ十分合格ライン
常に民衆視点で政治を考えている政治姿勢は、さすが奴隷出身と驚嘆させられる程だ
例1:胡漢の民族的対立を融和すべく、統治制度に苦心し続けた
例2:出身地并州が連年飢饉に悩まされるのを、気候の所為だけとは考えずに自分の不徳として政治努力を惜しまなかった

10万の兵士と100万の国民与えた場合
確かに緒戦は劉秀が勝つと思うけど、石勒の復讐達成率と巻き返し能力を考慮すると
2戦目は間違いなく石勒が取るだろうね
そうしたら、お決まりの坑殺うん十万人コースで劉秀側の壊滅は免れ得ないだろう
逆に劉邦の場合は、それでも兵士やら国民やら補充してくれる蕭何がいるからなあ
それより何より「韓信に勝つ」という難関を突破できるかどうかが鍵だ

56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/02(水) 13:36:01 ID:yNRmWGrM0
蕭何に匹敵する留守番には寇恂がいる。
耿弇の寡兵で大敵を打ち破る将才は韓信にも引けを取らない。
まあ、その仮定だと緒戦で得たアドバンテージを守り倒す戦略を取るように思われる。
仰るように石勒は逆境になるほど強いからな。
あと石勒自身は極端に優れていても、後継者や幕僚には恵まれていない感があるが。
持久戦に持ち込まれると後趙では持ちこたえられないだろう。
どうにかして石勒の代で会戦に引きずり出さなければ勝てない。

57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/02(水) 21:23:25 ID:GlWwT86L0
自立が遅いのと天下に野心を持っていないのとは別だと思うが。
李世民が誰かの臣下として生涯を終えるとは思えない。
石勒も劉邦ならば臣下になりたい、他の奴の下は嫌だと言ったんだろう。

58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/02(水) 22:22:14 ID:f0SvGgaR0
後継者が育たないのは典型的なワンマン社長の会社

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/02(水) 22:59:24 ID:yNRmWGrM0
どっちも更始帝や李建成がミスらなければ、造反など考えもしない気がするが。


60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/02(水) 23:02:57 ID:yNRmWGrM0
どっちも更始帝や李建成がミスらなければ、造反など考えもしない気がするが。


61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/02(水) 23:16:22 ID:yNRmWGrM0
連投でスマソ。
人口百万で兵十万は多すぎだと思う。
一戦負けたら再起不能だと思うが。

62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/02(水) 23:26:03 ID:xWH8ssVz0
石勒(と言うか後趙)は後継者に人を得なかったというより、民族対立の処方箋を
作れず、結果として胡漢の融和に王朝の体力というか生命力を奪われたことが、短命王朝に
終わった最大の理由だと思ってます…。

個人的に、石虎は暴君であっても暗君ではなかったと思うんですが、どうでしょうね。
政治手腕がなければ、鄴の繁栄を記した「鄴中記」が出るはずはないし…。

63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/02(水) 23:48:01 ID:8Ccz95AL0
李建成がいつミスしたよ

64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 00:18:51 ID:9VCfmkDgO
>>63
李世民をキッチリ始末しなかったことがミス

65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 00:26:48 ID:nmFQNcd+0


66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 09:48:48 ID:qVOPsNuu0
石勒、最大の謎

なぜ、祖逖討伐の大将が桃豹なのか。兵力は四万と中途半端なのか
彼より勝る武将は自分自身、石虎、孔萇、虁安、張賓と五人はいる。
この敗北により祖逖と講和せざるを得なかったのだから、失ったものが大きすぎる
現に、石勒は祖逖に負けたと解釈するものが多い。
なぜなのか?誰か教えてくれ

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 10:11:16 ID:koKfb8KF0
支雄、郭敬、石生、石堪あたりでも、桃豹よりは善戦するだろう
俺の中では、桃豹って第一線での後方担当のイメージが強いんだが
河南方面の行政任されていたりと、決して無能ではないと思うけど
祖逖相手には格が落ちるねえ
まあ、舐めきっていたが結論でしょ(初期の北伐軍は内ゲバしてたし)
最終的には河南の大部分を?ぎ取られてるから、石勒にとっては失策だな

石勒本人が出ていくことが出来なかったのは、前趙対策のためだろうね
陳安の乱や前涼との国境紛争の間隙を突いての324年の河南侵攻だから
歴史的に言われてるほど、前趙と後趙の国力差は無かったと思う
孔萇は幽州に置かなきゃならんし、石虎は曹嶷潰しに回していたし
張賓は戦略参謀兼政策プランナーだから、第一線で使うには勿体無さ過ぎる
やはり、武闘派のキ安、支雄あたりで戦うべきだったのでは

68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 10:49:42 ID:koKfb8KF0
>>62
石勒死後の内紛は、異民族間の対立と言うよりも、純粋に権力闘争的な側面が強い
中央(石勒直系)集権派と各方面軍ごとの分権派の対立が主だったから
後継者に関しては、最期まで石勒は悩み続けていたが、結果としては優柔不断だったことで
最良ではないにしろ、まずまずの選択だったと思う>>石虎簒奪
(内紛の火種を完全に摘み取ったおかげで、以後石虎健在の間は後趙は一枚岩となる)
そもそも、石虎暴君説はかなり怪しい話だからなあ(石勒時代よりも民衆の逃亡や叛乱の記述が少ない)

胡漢融和はその後の五胡政権でさえ完全には達成できなかったことだから
後趙のそれを否定するのは、先駆者として評価するならまだしも、少し酷じゃあないかい?

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 12:03:32 ID:DhSTXCll0
石勒VS朱元璋

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 12:46:29 ID:C6UvS5oAO
負け将軍・麻秋

石虎ほどの男が彼を起用しつづけたのは中国五千年のなぞ

71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 13:20:53 ID:koKfb8KF0
>>70
それは麻秋が勇猛果敢な武将であったから、石虎は生粋の猛将好き、あとロリコン

劉邦vs劉秀vs石勒の続きで
劉邦>劉秀と石勒が評している理由に、三功臣の存在が大きいと思われる
敵の主力は最強クラスに粘り強い劉邦が真正面に拘束しつつ
その間に、韓信が敵の手足、外縁部をガンガン削り取っていく戦略は無敵
外交面では史上最強の縦横家張良による手厚いサポート、
後方兵站面では丞相蕭何が反則なくらいに補給を続けてくれる

結局、劉邦軍団のこの鉄壁の態勢を崩すためには、
劉邦を撃破して、本拠地関中まで長躯怒涛の追撃戦を実行できる将軍
加えて、韓信を撃破、最悪でも足止めできる将軍が必要となる
劉邦を撃破できる将軍はいても、韓信を撃破できるヤツはほとんどいないだろうし
河南から一気に関中まで大進撃できるかどうかは、地形上かなり厳しい
劉邦(及びその一党)最強ってのは、あながちリップサービスでもないんじゃない?

72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 15:23:02 ID:C6UvS5oAO
その戦術は劉邦=劉秀、韓信=呉漢でも成り立つ
劉秀は名将だし、前漢組よりタチ悪い
劉邦>劉秀>曹操、司馬懿は結局劉邦フェチである石勒の好みだよ
成り上がりの劉邦に自己投影、その血を継いで統一した劉秀もエラス
劉漢奪った曹操シネ!しかも統一もできてねーよプゲラ

73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 15:27:44 ID:9VCfmkDgO
劉秀にとっての項羽って誰?

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 20:58:15 ID:XREijinx0
王朗じゃない?

75 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/04(金) 01:20:13 ID:kuRb3wuh0
麻秋が負けてばかりに見えるのは、勝ち戦についての明確な記述が
ないためだと思うんだけど。

麻秋の関わった戦役を挙げると、

1張駿が死んで張重華が継いだときの侵攻戦
2大夏侵攻戦
3枹罕侵攻戦
4晋興・広武・曲柳侵攻戦

だけど、1〜4の戦績は、晋書に書かれてる分だと

1金城太守の張沖が麻秋に降伏
2大夏護軍の梁式、麻秋に通謀
3張悛らの抵抗に遭い、功績なし
4謝艾・索遐の抵抗に遭う

になる。これだけだと勝ったのかどうか、はっきりとはわからない…でも、
3の時に大夏に軍を返したこと、4の時には枹罕を侵攻の拠点としたことが
書かれてるので、2・3では恐らく最終的には勝利を収めたと思われる
わけで。
だから麻秋は負けっ放しの将軍ではなく、勝ち負けを繰り返していたと
個人的には考えるのですよ。
でないと、「麻胡」と呼ばれて前涼の人々に恐れられていた、という
記録が残るはずもないし…。

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/04(金) 19:50:35 ID:8Xs0wUbJ0
>>72
劉秀軍団の本領は機動力生かした攻勢作戦だから、必ずしも劉邦の戦い方で戦う必要はない
各司令官たちを自己の指揮下でまとめて運用するもよし、複数の径路で攻勢をかけるもよし
あれだけタレント揃いの劉秀軍団なら、小細工なしで戦ったほうが絶対に強い
(劉秀自身、どちらかと言うと項羽に近いタイプ)
遊軍として転出させ、助攻正面を一任できるほど突出したNo.2が存在しないので
劉邦みたいな戦い方は向いていないんだろうが(する必要もなかったわけだし)
最盛期完全編成のガチで正面対決した場合は、やはり、項羽と同じで講和せざるを得ないんだろうな

>>75
麻秋の場合戦った相手が悪すぎる
謝艾はこの板でも無名に近いが、涼州において最盛期の中央勢力による併合戦を撃退した
将軍ってのは、中国史見回しても他におらんぞ(前涼が70年近くも独立していたことが奇跡だが)

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/04(金) 20:55:23 ID:+KHF1D+o0
>>75
関羽みたいなもんじゃない?
関羽も正史の戦績だけ見てたら魏や呉に対して重しが効くとは思えないけど、一定の威名があった。

78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 09:36:30 ID:ufqqfSSm0
返す返すも、趙書がないのが惜しまれますねぇ。
程遐とか石聡の評価がどうなるのか、個人的には気になるところ。
石聡は、後趙後期の河南方面司令官としてどの程度の将才があったのか
解りづらいのがなんとも。晋書だとあんまりいい評価ではないし…。

79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 18:50:40 ID:irEPX+xJ0
謝艾は将帥として以外にも、政治上の議論(戦争中の秋の郊祭をやるべきか否か)にも
参加してるのを見ると、推薦の言葉通り文武の才を兼ねていたんでしょうね。
涼州の謝氏はどうも寒族らしいので(元和姓纂にも載っていない)、もしかしたら
少年時代は勉学で身を立てようと悪戦苦闘してたのかな、と想像したりしてます。

謝艾が張重華の死後すぐ、張祚に警戒されて殺されたのが惜しまれますが…。

80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 20:09:38 ID:EGVBXyBb0
石勒の最盛期っていつなんだろうか?
個人的には、河北でグダグダしてたときが純粋に強かった時期だと思う
飛蝗の群れの如く、当たるを幸いに晋軍をことごとく喰らい尽くすような戦い振りには惚れる
幽州刺史を討ち取ったり、一介の盗賊がここまでするかといったくらいの大活躍
後年、襄国に落ち着いてからって小さくまとまりすぎな感じがする

81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/06(日) 18:10:59 ID:9r8z3/FF0
>>80
やはり、王浚を倒した時じゃない?
15でいうところの七回戦が個人的に、八回戦が組織的に最盛期だと思う。
それからはライバル劉曜を意識し過ぎて、動きに精彩を欠いたんじゃないかな
そういう意味では劉備を意識し過ぎた曹操にも似ているような気がする

82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/06(日) 21:14:33 ID:byKDizkd0
石勒VS劉裕

83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/07(月) 13:27:18 ID:pI8rtbiVO
世界に誇る漢文文化に親子揃って貢献した文明人曹操様に軍閥の親玉程度の石勒が勝てるわけない。

84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/07(月) 19:58:09 ID:QbsybT3A0
つ 仏教

85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/07(月) 20:09:00 ID:mNknGbQG0
曹操も究極的には、鄴の軍閥でしかないわけだが。
しかも一臣下。
最近、よく曹操マンセーを目にするけど、曹操だけが特に優れているとは思えないけどな。


86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/07(月) 21:39:56 ID:d1LH84Yt0
軍事の能力だけで評価すれば曹操よりも石勒の方が優れているような気がするけどな

87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/08(火) 15:48:11 ID:YSbjSPe2O
>>85
>最近、よく曹操マンセーを目にするけど
蒼天航路の影響じゃねーの?
つーか曹操の戦下手は有名。

88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/08(火) 16:02:35 ID:xDk536M/0
そんなもん出る前から評価は高かったですが

89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/08(火) 16:20:15 ID:YSbjSPe2O
>>88
>そんなもん出る前から評価は高かったですが   

んなぁことは前提であの本の影響でさらにマンセー度がUPしてんじゃねーのって言ってんの。

90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/08(火) 23:04:25 ID:P6AmI1lN0
英雄とか政治家とかは別にして、男として

石勒>>>>>>(超えられない壁)>>>>>>曹操

は同意。司馬懿は論じるにも足らんな

91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/09(水) 17:35:29 ID:MvOrxChm0
蒼天航路なんか読んだら逆に嫌いになっちまうぜ

92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/10(木) 00:30:05 ID:MzB8pY+i0
>>91
最初の何巻までかは、曹操かっこよくてよかったんだけど
だんだん、読んでてハラたってきた、おれは。
演義バカにしぃの諸葛亮バカにしぃので、そこまで曹操マンセーするか、とか。
あれもひとつの見方だろうけどさ。

93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/12(土) 07:44:18 ID:UqdTSmwU0
>>85-92
まあまあ、そんな曹操よりも、我らが石勒さまの方がはるかに偉大なのが現実だ。
これには、この板の住民ほとんどが認めている。(三国志しか知らない人以外)
昔の五胡スレには『曹操がいれば、五胡時代はすぐに統一できた』などと言っていた
人がいたが、本人は今頃、自分の発言を恥ずかしいと思っているはずだ。
自分は総合能力的に、曹操=桓温だと思っている。
彼が西晋に生きていても、司馬乂や苟晞より少しましな活躍で終わったのでなかろうか

でも、
>>75
>>77
麻秋=関羽は、関羽を過小評価し過ぎ。
当代最大軍閥の重将・顔良、于禁を倒した関羽と麻秋ではさすがに格が違うでしょう。
麻秋は夏侯淵や楽進に近いんじゃない。
大軍は扱えないが、先鋒や遊軍として使えば結構使える武将。
彼程度しか大軍を預けられる武将がいなかったのが、石勒と石虎の最大の差だよな

94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/12(土) 19:35:49 ID:i7aO2mwqO
曹操、司馬一族以上の実力持ってて統一できない石勒しょぼすぎwwwwww

95 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/12(土) 19:59:57 ID:w1rKb2w10
>>94
部族数100人ほどの小部落の出身(母体の羯族ですら少数民族)
20代後半に奴隷として売り飛ばされる
地盤(地縁、血縁のコネほぼ皆無)、看板(権威からは程遠い)、鞄(金があったら奴隷にならん)
軍閥(政治家)として立つに必要な条件を持ち合わせていなくて、天下半分までもぎ獲ったんだから
曹馬なんぞ格下扱いして然るべきじゃない?
普通の異民族武将であれば、王世充あたりの成り上がりでも大したものなんだからさ

まあ、劉邦が身分の壁をぶち破っていてくれたおかげで中国においては天下人の間口が広がった
わけだから、尊敬するのも当然の成り行きだわな

96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/12(土) 20:00:30 ID:ILldww7z0
>>94
こういうこと言ってるのは、たまに見かけるが釣りだろうか。
それとも真剣にそう思っているのだろうか。
真剣に思っているとすれば、分析が足りないか、シミュレーションゲームレベルでの受け取り方なんじゃないか。

97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/12(土) 20:25:29 ID:4Vux7We60
釣りか無知 スルー推奨

98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/12(土) 22:19:20 ID:UqdTSmwU0
この石勒の比較論。
始皇帝、項羽、劉備、孫権が入っていたらどういう評論になっていたか激しく気になる。

99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/12(土) 22:36:54 ID:WwVm69JK0
石やんに匹敵するのは、
中華史の中でも劉邦、劉秀、劉裕、朱元璋 ぐらいだろう

100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/13(日) 00:35:46 ID:ms7Xj0OwO
つ 鉄木真

って、超えちゃマズいのか…

101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/13(日) 00:47:23 ID:i3BLJ+2L0
つ李世民

102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/13(日) 01:38:39 ID:4LB+KEa+0
俺はふけんのほうが好きだな^^

103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/13(日) 11:08:37 ID:/3+LfRm40
 石勒十八騎って、全員の名前って判明してんの?

104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/13(日) 11:42:50 ID:vxQssXga0
>>103

王陽、夔安、支雄、冀保、吳豫、劉膺、
桃豹、逯明、郭敖、劉徴、劉寶、張曀僕、
呼延莫、郭K略、張越、孔豚、趙鹿、支屈六

やっぱり、ネット上で翻訳がないのは痛いな

105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/13(日) 14:57:01 ID:/3+LfRm40
>>104サンクス

 支雄、桃豹とかは名前聞いたことある。奴隷時代に知り合って、従っていく過程とか考えると面白そう。

106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/13(日) 17:50:15 ID:vxQssXga0
初期の頃の石勒腹心は

謀主・張賓
股肱・刁膺、
爪牙・夔安・孔萇・支雄・桃豹・逯明
だったらしい
(資治通鑑より)

107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/13(日) 18:14:34 ID:U8WBvCKo0
>>106
311年の葛陂での長期滞陣による疲弊時に、張賓が名実共に「右腕」になるんよね
それまでは、軍略自体にはあまり口出ししていなかったみたいだけど(謀略、政略の助言はあった)
段部や王浚との戦いでは、ビシバシ妙手指してくるんだから、「何で、はじめから重用しなかったの?」という疑問符はつく

仏図澄も一応参謀とか政治顧問になるんか?

108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/13(日) 21:34:35 ID:3NnUPsCu0
>>108

 仏図澄は、顧問格だったと思う。予言とかをしたりして、戦いにも参加したらしい。

 石虎にも重用されてたらしいし。

109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/14(月) 17:48:41 ID:/JXZk9+SO
石やんと慕容の恪ちゃんならどっちが強えの?

110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/14(月) 21:23:05 ID:uzUhLFEZ0
恪ちゃん

111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/14(月) 21:57:47 ID:/JXZk9+SO
それじゃあ劉家の千里駒がもしアル中じゃなかったら
328年に洛陽を攻められた石やんは千里駒を撃退することは厳しかったの?

112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/14(月) 22:22:00 ID:N4LSbOcz0
>>111

 千里駒のアル中は筋金入りだから、328年のときじゃなくても石さんに
は勝てないんでないか?

 アル中じゃなくても、勝てないかもしれない。千里駒には、共に事を諮る
家臣がそばにいないから。

113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/14(月) 22:30:18 ID:o8slkPoB0
西晋を滅亡に追い込んだ劉曜では、結局江南の東晋と連携して石勒に圧力を加えることは不可能に近いから
劉曜正面の戦いに集中しやすい石勒に比べると、後背に前涼を背負っている分だけ相当不利。

まあ、そもそも本拠地を青天の霹靂によって失陥した上、宗家は滅亡、人民と領土は先手を打った
石勒に掠め取られ、仕方なく征服したばかりの関中に引き籠もって流遇政権を運営していかなければ
ならなかった劉曜の苦労は、想像を絶する。
キン準の乱を受けての皇位継承は、はっきり言って貧乏籤もいいところなのに、
短期間で関中の民衆の心を捉え、国を富ませ、たびたび河南へ侵攻できるくらいまで国力を拡大
させているんだから、こと統治手腕に関しては、実は十六国君主随一だと思ってる。

石勒は凶運、劉曜は不運としか言いようがない、決して幸福にはなれない。

114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/14(月) 22:44:45 ID:/JXZk9+SO
>>112-113 サンクス
ブレーンというか知恵袋な人物がいないんすか?・・・劉曜
自身はかなり有能なんだとは思うだけどな・・・千里駒


115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/14(月) 23:04:47 ID:N4LSbOcz0
劉曜と石勒が交わした重門の誓いって何を誓ったんだろう。捕らえられた
ときに劉曜が石勒に言ったらしいが。おそらく、仲はよかったんではないか
なと思ってる。劉曜が使者を処刑するまでは、けっこううまくいってたと思
ってるんだが。

116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/15(火) 00:07:03 ID:zBsi7seL0
>>114
小姑みたいな政策ブレーン游子遠、勇猛果敢な従弟劉岳、
前涼を脅かした庶長子劉胤、匈奴貴族で洛陽攻略の先鋒呼延晏など
ほかにも劉淵時代からの漢人官僚や匈奴貴族はそこそこいたはず。
蒲洪や姚弋仲も劉曜健在時は前趙に従っていたりする。

117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/19(土) 13:25:03 ID:uypl+1Hi0
ネタがないと、落ちるな

ところで、今『張賓伝』の翻訳をやっているんだが、その始めの方。

 張賓字孟孫,趙郡中丘人也.父瑤,中山太守.賓少好學,博涉經史,不為章句,闊達有大節,
常謂昆弟曰:「吾自言智算鑒識不後子房,但不遇高祖耳.」為中丘王帳下都督,非其好也,病免.

 張賓は字を孟孫といい、趙郡中丘の人である。父・張瑤は中山太守であった。若くして学を好み、
経書や歴史に詳しく、文章は作らず、闊達でおおいに節度があった。
いつも弟にいうには「私の知謀見識は張良にも劣らないと思っている。ただ、劉邦に会っていないだけだ」と。
中丘王の帳下都督となったが、意欲を抱けず、病気を理由にやめた。

これでいいかな?『章句』の意味が自信ないんだが

118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/19(土) 19:58:55 ID:Pd8N28zq0
>>117
「章句」は「離章辨句」の略で、一字一句、細々と研究・調査するようなこと。
訓詁学を指してると思ってもらえば。

「不為章句」という言い回しはよく出てくるけど、
「多くの書物を読んでいて、学識は広いけれど、
大意を掴んだところでキリを付けており、
専門的な学者のように文献自体の研究はしなかった」
というようなこと。


119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 08:43:54 ID:CMmfs2ls0
>>117
レス、ありがとう。助かりました。

それでは、これが訳↓

 張賓は字を孟孫といい、趙郡中丘の人である。父・張瑤は中山太守であった。若くして学を好み、
経書や歴史に詳しかったが大意をつかむところでとどめており、また、闊達でおおいに節度があった。
常々、弟に語っていた。「私の知謀見識は張良にも劣らないと思っている。ただ、劉邦に会っていないだけだ」
中丘王の帳下都督となったが、意欲を抱けず、病気を理由にやめた。

これからも細々と漢和辞典を見ながら翻訳するつもりなので、よかったらまた協力してね

120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 18:10:07 ID:blj0FK7R0
その勢いで晋書を完訳していただけたらすごく有難いんですけど
やっぱ大変ですよねえ…

121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 19:11:51 ID:CMmfs2ls0
ちゃんとレスもあったので浅学不才は恥じず、また、翻訳をやらせてもらいます。
専攻は史学でも漢文でもなかったので、諸兄らに笑われるかも知れないですがご容赦を

 及永嘉大亂,石勒為劉元海輔漢將軍,與諸將下山東,賓謂所親曰:「吾歷觀諸將多矣,
獨胡將軍可與共成大事.」乃提劍軍門,大呼請見,勒亦未之奇也.
後漸進規謨,乃異之,引為謀主.機不虛發,算無遺策,成勒之基業,皆賓之勳也.
及為右長史、大執法,封濮陽侯,任遇優顯,寵冠當時,而謙虛敬慎,開襟下士,
士無賢愚,造之者莫不得盡其情焉.
肅清百僚,屏絕私昵,入則格言,出則歸美.
勒甚重之,每朝,常為之正容貌,簡辭令,呼曰「右侯」而不名之,勒朝莫與為比也.

(以下、翻訳へと続く)

122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 19:18:23 ID:CMmfs2ls0
>>121
四つほど失敗しているな
機不虛發→機不虚發
而謙虛敬慎→而謙虚敬慎
屏絕私昵→屏絶私昵
每朝→毎朝

で、翻訳

 永嘉の乱の際に、石勒は劉淵の輔漢將軍として、諸将とともに山東に来ていた。
張賓は親しいものに話した。
「私はこれまで多くの将を見てきたが、あの胡將軍だけが共に大事業を行うに足る」。
剣を携え、軍門に行き、大声で呼んで会うことを求めた。
石勒は別段、この時は優れた人物とはみなさなかった。
のち、少しずつ、策略をすすめ、ただものでないと思い、謀主にした。
機は見逃さず、計略にあやまちはなかった。石勒の基業成功は皆、張賓の功績であった。
右長史、大執法となり、濮陽侯に封じられ、特別な扱いを受け、寵愛は当時で一位であった。
さらに、謙虚で慎み深く、下の士大夫にもあけっぴろげであり、士大夫は賢愚となく
百官を静め、コネを絶ち、幕下に入ってからは名言を放ち、
石勒はとても、彼を重んじ、毎朝、常に身だしなみを整え、「右侯」と呼んで名を言わなかった。
石勒は

(以下、疑問点に続く)


123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 19:19:18 ID:CMmfs2ls0
分からないところ
@『造之者莫不得盡其情焉』
A『出則歸美』
B『簡辭令』
C『朝莫與為比也』

自信がないところ
@『提』は『携え』でいいのか
A『規謨』は『策略』でいいのか
B『任遇優顯』
C『入則格言』
以上です。よかったらご教授下さい。


124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 21:08:58 ID:TMp35ZCQ0
> 造之者莫不得盡其情焉

「造之者」悉くその情を得ざるなし。

> 朝莫與為比也

石勒の朝廷に比する者なし。


かなあ?
「造之者」が良くわからん。

125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 21:55:28 ID:bS0o4l9O0
造之者=之と造(あ)う者は

劉備−諸葛亮と似たような関係だけど
君主−謀主のような関係が魏晋期には流行っているというか、頻繁に登場するけど
ナンバー2がこれほど脚光浴びる時代も珍しいよな

126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 14:37:16 ID:wpgDuemV0
あまあ、そんな曹操よりも、我らが石勒さまの方がはるかに偉大なのが現実だ。
↑ではなんで中国の半分も切り取れなかったんですか。
曹操よりずっと、優位な立場にいたのに。

これには、この板の住民ほとんどが認めている。(三国志しか知らない人以外)
↑馬鹿ばかりだからな。

>昔の五胡スレには『曹操がいれば、五胡時代はすぐに統一できた』などと言っていた
>人がいたが、本人は今頃、自分の発言を恥ずかしいと思っているはずだ。
↑曹操は鳥丸、鮮卑を討伐しました。


127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/23(水) 08:31:53 ID:s8aqMKedO
↑馬鹿が湧いたな

石勒が曹操より優位な立場にあったと言ってる時点で知識のなさ露呈
勉強しなおして出直してきなさい

128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/23(水) 14:36:37 ID:RWDPrpsz0
石勒が曹操より優位な立場にあったと言ってる時点で知識のなさ露呈
勉強しなおして出直してきなさい

↑曹操は5000の兵士か集められなかった。
袁紹や董卓など巨大な敵がいたが、石勒はいなかった。
曹操は献帝をうまくつかったが、石勒は何もしていない。
領土拡大率は曹操が圧勝している。

129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/23(水) 14:45:58 ID:fNWqVq3g0
劉曜も祖逖も知らんのか…

130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/23(水) 14:51:23 ID:UJb1Q9jc0
>>128は石勒のことを何も知らないんだろ…

131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/23(水) 16:24:14 ID:sGwRmsh50
石勒の出自には触れないのかな…?
しかしおもしろいヤツが最近繁殖してるな。

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/23(水) 16:52:26 ID:PJTEpJNwO
>>128
>曹操は献帝をうまくつかったが、石勒は何もしていない。
石やんは曹操みたいに献帝をの威光を使うなんてせこい真似などせず
自力で頂点まで上り詰めたのだがその事実をご存じ?
つーか偉そうに語ってますが恥ずかしくないの?

133 :127:2007/05/23(水) 16:53:20 ID:s8aqMKedO
>>128
ただの馬鹿だと思ってたが
真性の馬鹿だったのね

134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/23(水) 19:09:38 ID:a4fnsgGz0
放置してよ なんとかにつける薬はないって言うじゃん

翻訳がむばってる人 続き待ってるよ

135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 09:38:15 ID:gF2F97EN0
翻訳をやっているものだが、126に煽られたのを自分のレスだ(^^)
まあ、126は『蒼天航路』ばかりでなく、『まんが 中国の歴史』から勉強し直してね
それが終わったら、陳舜臣の『小説 十八史略』とか『秘本三国志』とか『曹操』で
活字に慣れてね。曹操びいきだし、漢字もそれほど多くないから、君でも読めるはずだ。
それから、陳舜臣『中国の歴史』と宮崎市定『大唐帝国』を読んでまた同じことが言える
か考えるといい。

それで、翻訳なんだが、
>>124>>125 レスありがとう
まだ、不明な点が揃っていないけど、おかげでなんとか意訳できるレベルにまで達せた。
大学の先生方すら解釈が分かれる正史の翻訳だ。完全なものは始めから求められない
のは当たり前。今回、できあがったのをお見せする。
>>120 一応、石勒の本伝までは翻訳するつもり(2割ぐらいはできている)
   最後までいけるかは皆様の協力無しには無理です。ご協力をお願いします。

136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 09:41:16 ID:gF2F97EN0
それで、翻訳↓

 永嘉の乱の際に、石勒は劉淵の輔漢將軍として、諸将とともに山東に来ていた。張賓は親しいものに話した。
「私はこれまで多くの将を見てきたが、あの胡將軍だけが共に大事業を行うに足る」。
剣を携え、軍門に行き、大声で呼んで会うことを求めた。石勒は別段、この時は優れた人物とはみなさなかった。
のち、少しずつ、策略をすすめ、ただものでないと思い、謀主にした。機は見逃さず、計略にあやまちはなかった。
石勒の基業成功は皆、張賓の功績であった。
右長史、大執法となり、濮陽侯に封じられ、特別な扱いを受け、信任は当時第一であった。
さらに、謙虚で慎み深く、下の士大夫にもあけっぴろげであり、
士大夫は賢愚となく、張賓とあうものは全て目をかけてもらえた。
百官を静め、コネを絶ち、朝廷の中では適切な進言を行い、朝廷の外では手柄を他人のものにするのをよしとした。
石勒はとても、彼を重んじ、毎朝、常に身だしなみを整え、簡略に「右侯」と呼んで名を言わなかった。
石勒の朝廷では比肩するものはいなかった。

※『入則格言』『出則歸美』は『入』は朝廷の中、『出』は朝廷の外と訳。
 『歸』は『帰休』の意味合いにした
※『簡辭令』は「右長史、濮陽侯」を「右侯」と約しているから『簡略に』で

137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 09:44:55 ID:gF2F97EN0
で張賓伝、最後の部分。

及卒,勒親臨哭之,哀慟左右,贈散騎常侍、右光祿大夫、儀同三司,諡曰景.
將葬,送于正陽門,望之流涕,顧左右曰:「天欲不成吾事邪,何奪吾右侯之早也!」
程遐代為右長史,勒毎與遐議,有所不合,輒歎曰:「右侯捨我去,令我與此輩共事,豈非酷乎!」因流涕彌日.

138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 09:50:05 ID:gF2F97EN0
それで翻訳。

彼が死んだ時、石勒は自ら哭して、側近に哀しみを告げた。
散騎常侍、右光祿大夫、儀同三司を贈り、諡を『景』とした。
正陽門において葬る際、石勒は眺めて、涙を流した。
側近に語るには「天は私が大事を成すのは望んでいないのか。なぜ、私から右侯をこんなに早く奪ったのだ!」。
程遐が代わりに右長史になった。石勒が程遐と議論し、合わないところがある度に、嘆いた。
「右侯は私を捨てて去ってしまい、こんな奴らと大事をさせようとしている。なんという残酷なことだ!」。
そのため何日も、涙を流した。

『彌日』があまり自信ないけどどうかな?
よろしければ諸兄らのご教授、お願いします。

139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 10:26:23 ID:A8wNutYQ0
翻訳をやっているものだが、126に煽られたのを自分のレスだ(^^)
まあ、126は『蒼天航路』ばかりでなく、『まんが 中国の歴史』から勉強し直してね
それが終わったら、陳舜臣の『小説 十八史略』とか『秘本三国志』とか『曹操』で
活字に慣れてね。曹操びいきだし、漢字もそれほど多くないから、君でも読めるはずだ。
それから、陳舜臣『中国の歴史』と宮崎市定『大唐帝国』を読んでまた同じことが言える
か考えるといい。


↑アホ丸出しだ。中国の歴史の中では三国時代が圧倒的にレベルが高く、そして知名度も高い。
曹操は10倍の軍勢を打ち破っていった。石勒とか知っている人間は日本ではほろんどいないのは実力差としか言いようがない。
石勒はせいぜい当時の中華の10分の4くらいしか支配しておらず、実質天下を取った曹操とは比べることすら出来ない。
曹操は漢の巨大な権威と戦わなければならなかったが、石勒はそれを切り開いたのは前任者がいるので曹操のような改革者と比べるとどうしようもない。

140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 10:28:13 ID:g3M2IgIX0
大家好,我是中国人........

141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 10:43:15 ID:kYjNvgjK0
>>139
曹操は漢の巨大な権威を神輿として担いでしまったがゆえに、その旧弊に悩まされてしまったわけで
袁紹のように、名門士大夫による新王朝路線を選択できていれば、あそこまでどつぼに嵌らなかった
と思うぞ(まあ、曹操がその選択肢を選べたかどうかは微妙だが)

逆に石勒は「権威」と最も縁遠い人物だろ
劉淵と組んだのも、権威という面ではほとんどプラスになってないし(逆賊という汚名をアップさせただけ)
劉コンからのスカウトや王浚からの招聘にも、全く心動かされていない
奴隷、少数民族というハンデを苦にもせず、ひたすら既存権益を破壊していく存在が
漢朝四百年のしがらみに悶え続けた曹操に劣るんかね?

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 11:02:36 ID:WinA/SEIO
>>139
>アホ丸出しだ。
それオマエ
>中国の歴史の中では三国時代が圧倒的にレベルが高く、そして知名度も高い。
それ三国志演義の影響w
ちなみにオマエもその一人www
後漢末〜三国を圧倒的にレベルが高いなんて言ってたら、笑われるぞ。
唐や明とかの立場はどうなるんだよ…
奴隷から身一つで皇帝まで登り詰めた石勒と大宦官の孫であり
スタートの時より比較的有利な立場にあった曹操とならどっちが有利だ?
あと劉家の千里駒と呼ばれた劉曜も東晋の名将祖逖も大したことないんですか?ああっそうですか。


あのさーせめて小説十八略史ぐらい読んでから語ることを俺も奨める。

143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 11:02:52 ID:kYjNvgjK0
あんまりスレとは関係ないが
本場中国には、石勒の母親が仙女で主人公の小説があると聞いたが
一体なんでそんなマイナーな人物を主人公にした小説が描かれたのか謎だ
まあ、劉曜が劉備の子孫というトンでも設定の演義もあるみたいだが

144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 11:11:26 ID:D91RpfpA0
>>141
相手にしちゃ駄目。こないだから出没してる痛い子だから

>>136
「毎朝」は「朝する毎に」ですね。「朝議のたびに」「朝見するたびに」、
この場合、どちらでも通らないことはなさそうだけど。
ひっくるめて「入朝するたびに」が無難かなあ。
「朝」=morningで使うことは少ないと思うので。

後、「簡辞令」は「辞令を簡す」。前の「正容貌」が「容貌を正す」であるのの対句。
この場合の「簡」は「簡単」ではなくて「選ぶ」の意味の方。
「辞令」は現代日本語の「辞令」じゃなくて「言葉遣い」。
「適切な言葉遣いをしていた」・「適切な言葉を選んで発言した」という感じ。

魏晋〜唐頃までの文章は対句・微妙に装飾された引用・独特の用語が
多くて大変ですが、上手いこと乗り切ってください


145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 11:24:15 ID:kYjNvgjK0
>>144
定期的に石勒と他の時代の傑物との比較、煽りレスあるけど
個人的には、あんまり好きじゃないんだよね
結局、天下は引っ掻き回すだけ引っ掻き回して統一できなかったし、
大虐殺者の汚名は免れ得ないわけだし
貶める気になれば、いくらでも貶められる悪党という一面を決して誤魔化してはいけないと思う
そういう意味では、手放しで絶賛できないし、誰某よりも格上と評価することもできない
(まあ、当の本人が歴史上人物の比較論をぶちかましているから、何とも言えないんだが)

誰かが言っていたけど、ケンシロウのいない北斗の拳というのは、ホント正鵠を射ているよな

146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 11:38:37 ID:2/qeNAC90
東晋五胡十六国無双
南北朝無双

147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 12:33:03 ID:TMRvy98P0
>結局、天下は引っ掻き回すだけ引っ掻き回して統一できなかったし、
大虐殺者の汚名は免れ得ないわけだし

そういう点では似てるよね曹操と石勒って


148 :135:2007/05/27(日) 12:42:26 ID:gF2F97EN0
>>145
確かに自分も言い過ぎたと思うし、今度から自粛するけど。
五胡十六国がそんな時代だからこそ、曹操や魏・晋の連中が過大評価されているのに
腹が立つんだよね。
石勒だって「劉邦になら仕えたい」と言っているし、乱世を求めていたとしても
心の底から大虐殺者になり、中国を征服しようと思っていなかったと思う。
トジュウ政策のせいで無理矢理、慣れていない農耕に従事させられ、
ずるがしこい漢人に搾り取られ、反乱か飢え死にかの二者択一にまで迫られ、
さらに司馬一族の体のいい使い捨ての軍事力にされた胡人たちばかりを責めるわけには
いかないだろう。復讐と独立を求めても仕方がない。
歴史の流れで仕方なかったかも知れないけど、やはり五胡十六国時代はひどすぎる

でも、
ケンシロウ=祖逖じゃ駄目?(略奪もしてたけど) 
石勒=サウザー
劉曜=シン
石虎=カイオウ

ということで

149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 14:32:52 ID:+mTdcQhn0
>>148
徙戎=シジュウ、徙民=シミンだな

祖逖は決して正義の味方ではないな、高潔な義士でもない
乱世が来れば思う存分出世できると歓喜する好戦主義者だし
戦争できるだけの体力がないにも関わらず、北伐の兵旅を発して、結局は略奪ばっかやってるし
命令系統は無視するわ、友軍であっても攻撃するわ
ぶっちゃけ自分の名誉や勢力の拡大、才能を誇示するために戦争しているような人間だよ
まあ、そこが魅力と言えば魅力だが

150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 16:23:01 ID:gF2F97EN0
>>149
まあ、確かに無理があると思うが
ttp://www2.ktarn.or.jp/~habuku/soteki.htm
これを見る限りそこまで言うのも極端と思われ。
徙戎=シジュウなのね。それは勘違いしていた。すまん。m(_ _)m

151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 19:42:27 ID:qUkeXAAd0
>>150
司馬乂が謀殺された時点で、祖逖自身が司馬家を見限っていたようにも見える。
(その後の各派閥からの招聘も悉く断っているし。)
二流以下の家格の自分の献策を気前良く採用してくれる貴公子だもんな。
性格は良いし、統率力も高く、何よりも人望があった。
東西両晋期において、東海王越の裏切りブックはいろんな意味でターニングポイントだったと思う。


152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 20:13:01 ID:MpMr3l250
もし東海王越が裏切らず、長沙王乂があのまま政権を掌握してたら、
西晋王朝はいったいどういう風になってたんだろうか……。

まぁ、長期的な衰退傾向は避けられず、どっちみち南渡を余儀なくされそうだけど、でも、
少なくとも、あそこまでみっともないこと(八王の乱末期)にはなってなかったんじゃないか。

153 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/29(火) 14:19:49 ID:I0l00Lqd0
曹操は漢の巨大な権威を神輿として担いでしまったがゆえに、その旧弊に悩まされてしまったわけで
袁紹のように、名門士大夫による新王朝路線を選択できていれば、あそこまでどつぼに嵌らなかった
と思うぞ(まあ、曹操がその選択肢を選べたかどうかは微妙だが)

曹操は、旧弊になやまられるどころかうまく利用し天下への架け橋とした。




逆に石勒は「権威」と最も縁遠い人物だろ
劉淵と組んだのも、権威という面ではほとんどプラスになってないし(逆賊という汚名をアップさせただけ)

馬鹿だからな

劉コンからのスカウトや王浚からの招聘にも、全く心動かされていない

裏切り

奴隷、少数民族というハンデを苦にもせず、ひたすら既存権益を破壊していく存在が
漢朝四百年のしがらみに悶え続けた曹操に劣るんかね?


しかし中原、華北のみしかとっておらず、国はすぐ滅びた。
曹操は後世で参考にされたが、石勒は参考にされていない。

154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/29(火) 19:43:36 ID:vh7bW9LFO
>>153の孔明様最高さんへ質問
>曹操は後世で参考にされたが、石勒は参考にされていない。
曹操はどの時代の誰がどの様に参考にしてるんだい?
具体的に例を挙げて下さいよ。
あと石勒について何から情報を得たんですか?
本当に石勒のこと知ってます?
>>139さんの奨めてくれた書籍は読みましたか?


155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/29(火) 19:45:51 ID:I0l00Lqd0
曹操はどの時代の誰がどの様に参考にしてるんだい?

↑唐の軍略書、孫武、詩、易姓革命、酒

156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/29(火) 20:10:38 ID:My7j2BaY0
李衛公問対を指してるのかどうかは知らないが、これを「唐の軍略書」と言う人を
初めて見たんだぜ

後、孫武や詩や易姓革命や酒が曹操以後のことだったなんて初めて知ったんだぜ

157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/29(火) 20:18:00 ID:ULWZerlW0
曹操は後漢朝の一臣下で終ったのだが…

158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/29(火) 20:32:32 ID:4RbPYgH20
李衛公問対ではどっちかというと曹操は馬鹿にされてない?

159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/29(火) 20:39:46 ID:A4EuH+9UO
兵学者や発明家や詩家としては一流
将や政治家としては二流
天下人としては三流

160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/29(火) 21:55:06 ID:vh7bW9LFO
>>155の孔明様最高さん

↑唐の軍略書→李衛公問対?何をどう参考にしてるの?
むしろ馬鹿にされてるって言ってますが…
孫武→孫子の研究家杜牧のこと?
詩→詩経の存在は?楚の屈原は?
易姓革命→夏王朝は殷王朝へと殷王朝は周王朝へとこれは易姓革命じゃないの?
つーかこの事実は無視?
酒→夏の傑王ですら既に飲んでますが…
あと中国に限らず古代ローマや古代エジプトにも既に酒は存在してますが…
だから曹操はどの時代の誰がどの様に参考にしてるか人物名などを具体的に教えて下さいよ。
あとしつこいようだけど石勒について何から情報を得たんですか?
本当に石勒のこと知ってます?
>>139さんの奨めてくれた書籍は読みましたか?
ちゃんと答えてよ(ry

161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/29(火) 22:44:08 ID:XfDrF6oR0
<南朝>
1:呉
2:東晋
3:宋
4:斉
5:梁
6:陳

<北朝>
1:魏
2:西晋
3:後趙
4:前秦
5:北魏⇒東魏、西魏
6:北斉、北周

162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/30(水) 09:50:57 ID:c6ND+zjMO
最近湧いてるお馬鹿ちゃんって
五胡十六国時代の歴史なんかまるで知らず
三国志の知識も横山光輝の三国志を読んだ程度で語ってる気がするのは気のせいか?

163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/30(水) 10:28:47 ID:AJ4NFRnM0
↑唐の軍略書→李衛公問対?何をどう参考にしてるの?
むしろ馬鹿にされてるって言ってますが…
↑魏武は何度も出てきている

孫武→孫子の研究家杜牧のこと?
↑第一人者は曹操

詩→詩経の存在は?楚の屈原は?
↑国家文化は曹操

易姓革命→夏王朝は殷王朝へと殷王朝は周王朝へとこれは易姓革命じゃないの?
↑曹操のやり方がスタンダート


酒→夏の傑王ですら既に飲んでますが…
あと中国に限らず古代ローマや古代エジプトにも既に酒は存在してますが…
↑曹操の発明手法が現在でも取られている

だから曹操はどの時代の誰がどの様に参考にしてるか人物名などを具体的に教えて下さいよ。
↑各王朝の太祖

164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/30(水) 13:59:04 ID:+7GkqeP40
魏武略孫子は別に評価してもいいけどな
あとは詩人としてか。評価は文化人としての評価だけだな>曹操
政治的には曹丕の方が功績がある。
仏教の流入という点においては石勒のはたした役目は大きい

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/30(水) 14:03:15 ID:OyaeEnsjO
>>162
気のせいじゃないよw
あのお馬鹿ちゃんは三国志演義が正史より信憑性があるんだって。
なんか解答も的外れでしかも抽象的過ぎて答えになってないし…

166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/30(水) 14:34:03 ID:AJ4NFRnM0
仏教は儒教、道教により駆逐されました。

167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/30(水) 14:38:47 ID:OyaeEnsjO
つ 南朝

168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/30(水) 15:08:00 ID:DziLVZ/S0
>>曹操のやり方がスタンダート

曹操はいつから皇帝になったんだ?

>>各王朝の太祖

知っている限りでは、少なくとも後周太祖郭威、北宋太祖趙匡胤は、曹操なぞ参考にしていない。


169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/02(土) 10:02:38 ID:llfI/jNi0
とりあえず、一週間ぐらいたったので翻訳の続き。
>>144 ご指摘ありがとうございました。ただちに、修正いたします。
自分としてのルールは
@公開は一回に一段落。(あまり訳に問題がないと思った時には二段落)
A一週間程度待ち、指摘があるのを待つ
B指摘があった場合、その修正文を直す。もちろんさかのぼって指摘された文も直す
 次回、まとめて修正文もだす。

でいこうと思うのでよろしく

170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/02(土) 10:04:18 ID:llfI/jNi0
で、張賓伝の全訳

 張賓は字を孟孫といい、趙郡中丘の人である。父・張瑤は中山太守であった。
若くして学を好み、 経書や歴史に詳しかったが大意をつかむところでとどめており、
また、闊達でおおいに節度があった。
常々、弟に語っていた。
「私の知謀見識は張良にも劣らないと思っている。ただ、劉邦に会っていないだけだ」
中丘王の帳下都督となったが、意欲を抱けず、病気を理由にやめた。
 永嘉の乱の際に、石勒は劉淵の輔漢將軍として、諸将とともに山東に来ていた。
張賓は親しいものに話した。
「私はこれまで多くの将を見てきたが、あの胡将軍だけが共に大事業を行うに足る」。
剣を携え、軍門に行き、大声で呼んで会うことを求めた。
石勒は別段、この時は優れた人物とはみなさなかった。
のち、少しずつ、策略をすすめ、ただものでないと思い、謀主にした。
機は見逃さず、計略にあやまちはなかった。石勒の基業成功は皆、張賓の功績であった。
右長史、大執法となり、濮陽侯に封じられ、特別な扱いを受け、信任は当時第一であった。
さらに、謙虚で慎み深く、下の士大夫にもあけっぴろげであり、
士大夫は賢愚となく、張賓とあうものは全て目をかけてもらえた。
百官を静め、コネを絶ち、朝廷の中では適切な進言を行い、
朝廷の外では手柄を他人のものにするのをよしとした。
石勒はとても、彼を重んじ、入朝するたびに、常に身だしなみを整え、
言葉遣いを選んで「右侯」と呼んで名を言わなかった。
石勒の朝廷では比肩するものはいなかった。
 彼が死んだ時、石勒は自ら哭して、側近に哀しみを告げた。
散騎常侍、右光祿大夫、儀同三司を贈り、諡を『景』とした。
正陽門において葬る際、石勒は眺めて、涙を流し、側近に語った。
「天は私が大事を成すのは望んでいないのか。なぜ、私から右侯をこんなに早く奪ったのだ!」。
程遐が代わりに右長史になった。石勒が程遐と議論し、合わないところがある度に、嘆いた。
「右侯は私を捨てて去ってしまい、こんな奴らと大事をさせようとしている。なんという残酷なことだ!」。
そのため何日も、涙を流した。


171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/02(土) 10:14:13 ID:llfI/jNi0
で、いよいよ『石勒伝』
(なお、晋書の本文では『注』がうってあるがほとんで文字の異同なので削除した)

石勒上
石勒字世龍,初名※,上黨武郷羯人也.其先匈奴別部羌渠之冑.祖耶奕于,父周曷朱,一名乞翼加,
並為部落小率.勒生時赤光滿室,白氣自天屬于中庭,見者咸異之.
年十四,隨邑人行販洛陽,倚嘯上東門,王衍見而異之,顧謂左右曰:
「向者胡雛,吾觀其聲視有奇志,恐將為天下之患.」馳遣收之,會勒已去.
長而壯健有膽力,雄武好騎射.曷朱性凶粗,不為群胡所附,毎使勒代己督攝,部胡愛信之.
所居武郷北原山下草木皆有鐵騎之象,家園中生人參,花葉甚茂,悉成人狀.父老及相者皆曰:
「此胡狀貌奇異,志度非常,其終不可量也.」勸邑人厚遇之.
時多嗤笑,唯鄔人郭敬、陽曲ィ驅以為信然,並加資贍.勒亦感其恩,為之力耕.
毎聞鞞鐸之音,歸以告其母,母曰:「作勞耳鳴,非不祥也.」

172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/02(土) 10:20:22 ID:llfI/jNi0
二つ失敗。
悉成人狀→悉成人状(本当は旧体字だけど)
此胡狀貌→此胡状貌

石勒伝上
石勒、字は世龍。初めの名は背(つつみがまえ付き)といった。上党武郷の羯族の人である。
先祖は匈奴の別部である羌渠族の冑である。
祖父の名を耶奕于といい、父の名を周曷朱もしくは乞翼加といった。
ともに少数部落の族長で、石勒が生まれたときには赤光が部屋に満ち、白気が天から中庭に降りてきた。
十四歳の時、邑の人に従い、洛陽にまで商売に来て、上東門に寄り掛かり鼻歌を歌っていた。
その時、王衍が彼をただ者でないと見て、側近を見て言った。
「向かいにいる胡人の子供は、私が声・姿を見るにたぐいまれなる志がある。
天下に災いになることが恐ろしい」。
側近をつかわし、捕らえようとしたが、石勒はすでに去っていた。
長じるに体は丈夫で力・度胸はあり、武芸に優れ、騎射を好んだ。
周曷朱の性格は凶暴でおおざっぱで、胡人たちが従わず、いつも自分の代理として
石勒に(部族を)統括、監督させた。部族の胡人たちは石勒を信愛していた。
居住していた武鄉北原山は鉄騎を生み出すところで、庭からは人参が生え、花や葉は生い茂り、みな
石勒とあった長老たちは皆、こういった。「この胡人の容貌はただ者ではなく、志が常人とは違う。
死ぬまでにどれほどの人間になるか、想像もできない」。
(長老たちは)邑の人に厚遇するように勧めたが、その時はほとんどのものが笑い飛ばした。
ただ鄔人の郭敬と陽曲のィ驅だけが、長老の言葉に同意し信じ、(石勒に)資金をめぐんだ。
石勒は恩を感じ、二人のために全力で畑を耕した。
その度に鐘の音が聞こえ、帰ってから母のそのことを告げた。母は言った。
「苦労して農作業をして耳が鳴るのは、悪いことじゃないよ」

※『悉成人状』が訳せません。(-_-)

それでは皆様のご教示をお待ちしています

173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/02(土) 10:25:07 ID:llfI/jNi0
あと、翻訳が無事、完成まで至ったら、永久に残すことを考えたのだけど……
「解體晉書」のサイトに出したら、著作権が自分のものになってしまうんだよね……
それも変だし、そんなつもりもないので、なんか方法ないかなあと思っています。
それはともかく、ご協力をお願いします。先は長いです。

174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/02(土) 11:29:08 ID:fc3Bx2n/0
Nida使うと、すべての漢字がちゃんと表示されてる。
你好も안녕も表示される。

175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/03(日) 01:40:18 ID:amlD8V5n0
所居武郷北原山下草木皆有鐵騎之象,家園中生人參,花葉甚茂,悉成人状.

居する所の武郷の北原の山下の草木には皆、鉄騎の象有り。
家の園中に人参を生み、花葉は甚だ茂り、悉く人状を為す。

双方とも凶兆と思われまつ。下のは「漢書五行志」等々に凶兆として出てる。
植物が人型になるのは、王の徳が衰えて、反乱が起こる兆し、とのこと。(京房易)
単純に「人型・人間の形になった」で良いと思う。

上のは、ネットで検索できるものと太平御覧を流し見たが、特に見つからなかった。
一方だけが凶兆ってこたあ無いので、多分、凶兆。「晋」書の記述だしね。
石勒別伝だと、地中から顔を出してる石の影が鉄騎状になったとのこと。

あと、細かいことだけど、原=高原台地というパターンが多い。五丈原とかね。

後、わかってることだったら失礼しましただけど、中央研究院とかの検索機能を
利用して用例を一通り調べるだけでも、結構、解決する問題は多い。
歴史関係なら二十四史と十三経、先秦諸子、通典、芸文類聚あたりは
一通り調べる癖をつけると、幅が大きく広がると思うよ。一応、無料だし。

176 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/03(日) 11:50:20 ID:gHY+RHFk0
>>175
ありがとう。勉強になる。今度から留意してからくる

>>144
ちゃんと礼をしておくのを忘れたな。
「毎」=たびたび
「朝」=朝廷
 なのですね。
「簡辞令」も勉強になりました。まだまだですな

>>143
遅レスだけど
>石勒の母親が仙女で主人公の小説
確かにある。ダイジェストだけど、日本語翻訳もある。
「後三国志」(同名の小説もあるけど違うから気をつけて)
最後に洛陽を落とし、石勒の母が石勒に天下を任せ、天下太平となる(-_-)
歴史無視かよ……(^^;)
>劉曜が劉備の子孫というトンでも設定の演義
これも日本語訳がある(漢文書き下ろし文だが。タイトルは忘れた……)
子孫関係は
劉淵……劉禅の子
劉曜……劉ェの子
石勒……趙雲の孫
王弥……王平の子か孫(忘れた)
呼延晏……魏延の子か孫
張賓……張飛の孫
他にも蜀漢子孫の武将が多数、劉淵の漢軍に加わるという設定
設定はトンデモだが、意外としっかりしていて途中からは歴史通りに動く。
石勒、劉曜の天下分け目直前で終わり。作者、投げたのか……
見所は架空の晋漢大決戦。
漢は劉聡を大将に、張賓を軍師に、石勒、王弥、劉曜、呼延晏、孔萇ら。
晋は成都王・司馬頴を大将に、陸機が軍師。
武将に司馬乂、司馬越、王浚、苟晞、劉琨、祖逖、張軌、馬隆、陳敏、劉弘、陶侃、李矩ら
が戦う。
架空でこんな面倒くさい記述をする作者の根性には恐れ入る。
機会があったら、このシーンだけでも見て欲しい。

177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/09(土) 17:16:06 ID:7RgRoE/a0
それでは175氏の指摘により、修正したので

で再掲載。

石勒、字は世龍。初めの名は背(つつみがまえ付き)といった。上党武郷の羯族の人である。
先祖は匈奴の別部である羌渠族の冑である。祖父の名を耶奕于といい、
父の名を周曷朱もしくは乞翼加といった。
ともに少数部落の族長で、石勒が生まれたときには赤光が部屋に満ち、白気が天から中庭に降りてきた。
十四歳の時、邑の人に従い、洛陽にまで商売に来て、上東門に寄り掛かり鼻歌を歌っていた。
その時、王衍が彼をただ者でないと見て、側近を見て言った。
「向かいにいる胡人の子供は、私が声・姿を見るにたぐいまれなる志がある。
天下に災いになることが恐ろしい」。
側近をつかわし、捕らえようとしたが、石勒はすでに去っていた。
長じるに体は丈夫で力・度胸はあり、武芸に優れ、騎射を好んだ。
周曷朱の性格は凶暴でおおざっぱで、胡人たちが従わず、
いつも自分の代理として石勒に(部族を)統括、監督させた。
部族の胡人たちは石勒を信愛していた。
居住していた武郷の北側の台地にある山の草木はみな鉄騎のような形をしており、
家の庭に生えた人参は花葉がとても生い茂り、全て人間のような形をしていた。
石勒とあった長老たちは皆、こういった。
「この胡人の容貌はただ者ではなく、志が常人とは違う。
死ぬまでにどれほどの人間になるか、想像もできない」。
(長老たちは)邑の人に厚遇するように勧めたが、その時はほとんどのものが笑い飛ばした。
ただ鄔人の郭敬と陽曲のィ駆だけが、長老の言葉に同意し信じ、(石勒に)資金をめぐんだ。
石勒は恩を感じ、二人のために全力で畑を耕した。
その度に鐘の音が聞こえ、帰ってから母のそのことを告げた。母は言った。
「苦労して農作業をして耳が鳴るのは、悪いことじゃないよ」

178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/09(土) 17:27:36 ID:7RgRoE/a0
で、続き

>>174
ご指摘ありがたいがうまくいかなかった……。とりあえずこのまま行く。
(だから、状は本当は旧体字ね)

 太安中,并州飢亂,勒與諸小胡亡散,乃自雁門還依ィ驅.北澤都尉劉監欲縛賣之,驅匿之,獲免.
勒於是潛詣納降都尉李川,路逢郭敬,泣拜言飢寒.敬對之流涕,以帶貨鬻食之,并給以衣服.勒謂敬曰:
「今者大餓,不可守窮.諸胡飢甚,宜誘將冀州就穀,因執賣之,可以兩濟.」
敬深然之.會建威將軍閻粹説并州刺史、東嬴公騰執諸胡於山東賣充軍實,
騰使將軍郭陽、張隆虜群胡將詣冀州,兩胡一枷.
勒時年二十餘,亦在其中,數為隆所敺辱.敬先以勒屬郭陽及兄子時,陽,敬族兄也,
是以陽、時毎為解請,道路飢病,ョ陽、時而濟.
既而賣與仕(草かんむりつき)平人師懽為奴.有一老父謂勒曰:
「君魚龍髮際上四道已成,當貴為人主.甲戌之歲,王彭祖可圖.」
勒曰:「若如公言,弗敢忘コ.」忽然不見.毎耕作於野,常聞鼓角之聲.
勒以告諸奴,諸奴亦聞之,因曰:「吾幼來在家恒聞如是.」諸奴歸以告懽,懽亦奇其状貌而免之.

179 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/09(土) 17:37:19 ID:7RgRoE/a0
一つ失敗。
甲戌之歲→甲戌之歳

で、翻訳。

 太安年間(302〜303年)。并州で飢饉が起き、石勒は若い胡人とともに遠くに散っていった。
のちに雁門郡から帰り、ィ駆を頼っていった。北沢都尉の劉監が石勒を捕らえ売ろうとしたところ
(ィ驅が)を匿ってくれ、とらえらえずに済んだのである。
石勒は事態がここに至ったので、ひそかに、都尉の李川のところに行き自首した。
路上で郭敬に会い、拝み泣いて寒さと飢えを訴えた。
郭敬も石勒に向かって涙を流し、持っていた金と食料と衣服を与えた。石勒は郭敬に言った。
「今は大飢饉です。困窮するのを待つばかりではいけません。多くの胡人たちはとても飢えています。
冀州に食料があるといって誘導し、捕らえて売ってしまうべきです。
それで、あなたと胡人ともに助かるでしょう」。
郭敬は石勒の言葉に大いに同意した。并州刺史、東嬴公の司馬騰が建威將軍・閻粹に、
胡人たちを捕らえ、山東に売り、軍資金にあてるように説かれ、(派遣された)
将軍の郭陽と張隆が胡人たちを捕らえ二人一枷にして冀州に赴いているのに会った。
石勒はその時、二十数歳であり、その中にいれられて、何度も張隆に殴られ、辱められた。
それ以前に郭敬は、郭陽が自分の兄筋の親戚だったので、
石勒を郭陽と兄の子、郭時に所属させるようにさせていた。
それで郭敬、郭時はいつも(張隆に石勒をいたぶるのを)やめるように頼んでいた。
途上で、飢え、病にかかったが、郭陽を頼り、なんとか助かった。
仕(草かんむりつき)平の人、師懽に売られ、その奴隷となった。ある老人が石勒に言った。
「あなたは、人の主となる貴い相をしている。甲戌の歳、王彭祖、図るべし」。
石勒は答えた。「もし、その言葉どおりならば、あなたの徳を忘れることはないだろう」。
(老人は)ふいに姿を消した。野を耕作する度に、太鼓と角笛の音が聞こえた。
石勒は他の奴隷たちに(そのことを)告げると、奴隷たちにも聞こえていた。それで石勒は言った。
「私は幼いとき、家にいる時からこれが聞こえていた」。
奴隷たちは帰ってから師懽に(そのことを)告げた。
師懽も(石勒の)姿形からただ者ではないと思い、耕作させるのを免除させた。

※『潛詣納降』が自信がない(>_<)

※『君魚龍髮際上四道已成』が訳せない。事例は探したけど……(-_-)

で、今週はここまで。
この謎の老人の正体はなんだったのだろう?
次回、ハードラックな我らが石やんの逆襲がはじまります。

180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/09(土) 21:40:27 ID:iwQEHJnd0
郭敬(季子)は、その後乞活集団に合流して激戦の末に石勒に降伏したんだっけ
乞活集団をことごとく坑殺しようとヤル気満々だった石勒が郭敬見つけた途端に
手のひら返して安堵を約束するあたりは、石勒の単純明快な性格が出ていて面白い

石勒の逆境の最高潮は、貧乏所帯時代でも奴隷時代でもなく
兄貴分の汲桑を失って流軍化していたときじゃないだろうか?
まだ、この頃の石勒は臧覇レベル(もしかするとそれ以下)の群盗の一味でしかないよね
この挫折から脅威の立ち直りを見せて、紆余曲折を経ながら捲土重来を果たしていくんだろうけど
先は長いなあ >>現代語訳事業
まあ、頑張ってください

181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/11(月) 06:21:05 ID:ZJND+kpO0
石勒子飼いの「十八騎」の一人に、支屈六ってのがいる。

「支」は胡姓で、西域僧の支樓迦讖や支曇籥と同じく、おそらく
月氏出身ってことなんだろうけど、問題は名前の「屈六」の方。
これ、やっぱ「クトゥルク(Qutluq)」の音写なんだろうか。

クトゥルクは、後代の突厥やウイグルに頻出する人名で、
そこでは「骨咄禄」とか「骨力」と音写されてるんだけど、
となると、単純に月氏出身というわけでもないのかな・・・。

182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/15(金) 08:33:57 ID:ck7GbjN20
いちおう保守

183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/16(土) 16:10:52 ID:jyzavwd/0
過疎が始まってるな……
まあいいや。とりあえず、修正なしということで。
『君魚龍髮際上四道已成』は人相学だから、学者先生でも難しいだろう。
分かった人は書き込んでね。石やんの人相が分かる貴重な手がかりであるから

それで、また、続き。

 懽家鄰於馬牧,與牧率魏郡汲桑往來,勒以能相馬自託於桑.嘗傭於武安臨水,為遊軍所囚.
會有群鹿旁過,軍人競逐之,勒乃獲免.俄而又見一父老,謂勒曰:
「向群鹿者我也,君應為中州主,故相救爾.」勒拜而受命.
遂招集王陽、夔安、支雄、冀保、呉豫、劉膺、桃豹、逯明等八騎為群盜.
後郭敖、劉徴、劉寶、張曀僕、呼延莫、郭K略、張越、孔豚、趙鹿、支屈六等又赴之,號為十八騎.
復東如赤龍、騄驥諸苑中,乘苑馬遠掠鋤潤C以賂汲桑.

184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/16(土) 16:24:01 ID:jyzavwd/0
で、翻訳。

 師懽の家は馬牧と隣り合っており、馬牧を率いていた魏郡の汲桑とは往来があった。
石勒は馬の扱いに長けていることで汲桑に売り込んだ。武安の臨水で雇われている時、遊軍に捕らえられた。
その時、鹿の群れがそばを通りがかり、軍人らがこれを追いかけ、石勒は逃げることができた。
突然、またあの老人に会った。老人は石勒に語った。
「鹿の群れを向かわせたのは私である。あなたは中州の主となるべきだ。だから助けただけだ」。
石勒は拝んで天命を受けた。そして、王陽、夔安、支雄、冀保、呉予、劉膺、桃豹、逯明という八騎と群盜となり、
後に、郭敖、劉徴、劉宝、張曀僕、呼延莫、郭黒略、張越、孔豚、趙鹿、支屈六もまた集まってきて、
十八騎と号した。赤龍のように東に戻り、様々な牧場にいた駿馬に乗って、遠出して絹や宝を掠めてきて、汲桑に上納した。

※『以能相馬自託於桑』と『如赤龍、騄驥諸苑中』が余り自信がない

『赤龍』は劉邦を意識しているのかな?
ここで遂に汲桑と『十八騎』が登場。孔萇はこの中に名前はないのに今、気づいた。
石勒軍の幹部となる夔安、支雄、桃豹、逯明がすでに入っているけど。
やっぱり、この老人は何者だったのかな

185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/16(土) 16:44:02 ID:HXj1Fd5D0
怪異説話の一環でしょ
劉曜が「朝鮮」から中原に帰還した後、一時期引き籠もっていたが
そのときに童子の精霊?から名剣を渡された話と同じで、箔をつけるためのエピソードか何かじゃないかな?

石勒は奴隷に売り飛ばされたものの、遊牧民の出自だけあって牧業に秀でていたおかげで
わりかしましな生活送れていたと思う
家内奴隷の中でも、専門職を任されていた奴隷や家僕は零細農民よりも地位が高いのが多かったらしいから
石勒のイメージだと奴隷闘士の方が似合っていそうだが

186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/16(土) 19:20:57 ID:V7ZvnpaL0
如ゆく
赤龍とか騄驥とかの苑に行って、そこの馬をパクって…

でも、赤龍にも騄驥にも横に線引いてないんだよな。

187 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/16(土) 22:30:32 ID:jyzavwd/0
>>184
>怪異説話の一環でしょ
>箔をつけるためのエピソードか何かじゃないかな?
確かに、自分もそう思うけど、(若き英雄の道筋を老人が示すのは神話などのパターン)
中国の仙人あるいは隠者伝説に関係あるのかなと思って。

胡人の奴隷から(当時)世界最大の国家の皇帝になる。
ううん、まさに英雄(大殺戮者)だ。まるで物語のような生涯だな

188 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/16(土) 22:55:06 ID:yiaZh3HI0
石勒ってまさに「報恩」と「報復」を徹底した人物だよな

189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/16(土) 23:19:38 ID:V7ZvnpaL0
後漢書に「騄驥,善馬也」
呂布の赤兎、冉閔の朱龍、趙匡胤の赤麒麟から考えると赤龍も名馬(汗血馬)
「赤龍,騄驥」じゃなくて「赤龍、騄驥」だから並列
名馬の苑

190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/17(日) 22:00:37 ID:5NEwzA3P0
翻訳乙です。

 最初の石勒に付いていた八騎は有名な人がいるけど、後からの十騎はあまり有名な人はいないんだね。

191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/20(水) 22:42:42 ID:6Cj7rliF0
十八騎ってそれぞれの具体的な記述はあるの?

192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/27(水) 11:42:38 ID:XxZmvnrt0
これのちょっと前に蔡氏がいなくなったんだっけ?

193 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/03(火) 00:27:36 ID:DnkLglcS0
十八騎って全員胡人?

194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/03(火) 15:10:41 ID:b7TRdU1v0
王陽(?〜?)
永嘉元年(307)、石勒に従って起兵し、十八騎のひとりとなる。
石勒が河北に勢力を伸ばすと、遊撃将軍となった。石勒が趙王
を称すると、胡漢分治を実行し、支雄とともに門臣祭酒となり、
胡人の争訟を担当した。東晋の祖逖が没すると、石勒の命を受
けて豫州に屯し、祖約を圧迫した。また石勒の次男石弘の教育
にあたった。趙王の八年(326)、石弘が鄴に鎮すると、驍騎将軍
となり、門臣祭酒を領した。

夔安(?〜340)
永嘉元年(307)、石勒に従って起兵し、十八騎のひとりとなる。
石勒が河北に勢力を伸ばすと、中堅将軍となった。石勒に従っ
て寿春を攻め、また王浚を攻めた。石勒が趙天王を称すると、
左司馬から尚書になった。石弘が立ち、石虎が専権を握ると、
鎮軍将軍・左僕射となる。石虎が石弘を廃して立つと、侍中
・太尉・尚書令となり、のち太保に進んだ。百官とともに石虎
に帝を称するよう勧めた。建武五年(339)、征討大都督となり、
歩騎七万を率いて、東晋の荊州・揚州の北部を攻め、七万戸を
掠めて凱旋した。

支雄(?〜?)
祖先は月氏の出身という。永興二年(305)、石勒に従って起兵
し、十八騎のひとりとなる。王浚・劉演を攻めて功を重ね、
中塁将軍となる。石勒が趙王を称すると、門臣祭酒となり、
胡人の争訟を担当した。後趙の建武四年(338)、龍驤大将軍
となり、石虎に従って遼西鮮卑の段部を攻め、長駆して薊に
入った。漁陽など遼西の諸郡を降らせ、段部を滅ぼした。

195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/03(火) 16:03:09 ID:b7TRdU1v0
孔萇(?〜?)
石勒が河北で勢力を伸ばすと、その爪牙となった。
晋の王衍の軍を破って捕らえたとき、石勒に王衍を
殺すよう勧めた。劉琨・倦ア・段匹テイ※1らを攻め、
幽州諸郡を平定するのに功績があった。

http://ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/chuframe.html

196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/17(火) 09:34:34 ID:yQWuSGSS0
久々に翻訳、復活。
>>186
>>189
レス。ありがとう。それで翻訳修正

 師懽の家は馬牧と隣り合っており、馬牧を率いていた魏郡の汲桑とは往来があった。
石勒は馬の扱いに長けていることで汲桑に売り込んだ。武安の臨水で雇われている時、遊軍に捕らえられた。
その時、鹿の群れがそばを通りがかり、軍人らがこれを追いかけ、石勒は逃げることができた。
突然、またあの老人に会った。老人は石勒に語った。
「鹿の群れを向かわせたのは私である。あなたは中州の主となるべきだ。だから助けただけだ」。
石勒は拝んで天命を受けた。そして、王陽、夔安、支雄、冀保、呉予、劉膺、桃豹、逯明という八騎と群盜となり、
後に、郭敖、劉徴、劉宝、張曀僕、呼延莫、郭黒略、張越、孔豚、趙鹿、支屈六もまた集まってきて、十八騎と号した。
再び東へ行き、赤龍、騄驥といった名馬を扱うあちこちの牧場の馬に乗り、遠出して絹や宝を掠めてきて、汲桑に上納した。


197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/17(火) 09:37:28 ID:yQWuSGSS0
で、また、続き

 及成都王穎敗乘輿于蕩陰,逼帝如鄴宮,王浚以穎陵辱天子,使鮮卑擊之,穎懼,挾惠帝南奔洛陽.
帝復為張方所逼,遷于長安.關東所在兵起,皆以誅穎為名.河間王顒懼東師之盛,欲輯懷東夏,乃奏議廢穎.
是歳,劉元海稱漢王于黎亭,穎故將陽平人公師藩等自稱將軍,起兵趙魏,眾至數萬.
勒與汲桑帥牧人乘苑馬數百騎以赴之.桑始命勒以石為姓,勒為名焉.藩拜勒為前隊督,從攻平昌公模於鄴.
模使將軍馮嵩逆戰,敗之.藩濟自白馬而南,濮陽太守苟晞討藩斬之.
勒與桑亡潛苑中,桑以勒為伏夜牙門,帥牧人劫掠郡縣繫囚,又招山澤亡命,多附勒,勒率以應之.
桑乃自號大將軍,稱為成都王穎誅東海王越、東嬴公騰為名.桑以勒為前驅,屢有戰功,署為掃虜將軍、忠明亭侯.
桑進軍攻鄴,以勒為前鋒都督,大敗騰將馮嵩,因長驅入鄴,遂害騰,殺萬餘人,掠婦女珍寶而去.
濟自延津,南擊兗州,越大懼,使苟晞、王讚等討之.


198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/17(火) 09:41:51 ID:yQWuSGSS0
さらに翻訳。

 成都王・司馬穎が恵帝をつれて蕩陰において敗北し、恵帝は鄴にある宮廷に押し込められ、
王浚が司馬穎が天子を陵辱しているとして、鮮卑をつかわして、司馬穎を攻撃させた。
司馬穎は怖れて、恵帝を連れ、南・洛陽に逃げ、恵帝は今度は張方に押し込められ、長安に移された。
関東で兵を起こすものは、皆、司馬穎を殺すことを名目とした。
河間王・司馬顒は東の軍の勢いが盛んなのを怖れて、東のいる晋人をなだめようと、司馬穎を廃することを奏上し議題にあげた。
この年に、劉淵が黎亭において漢王を名乗り、司馬穎の武将であった公師藩が将軍を自称し、
趙魏地方において、挙兵し、数万の衆となっていた。
石勒は牧人の総帥である汲桑とともに牧場の馬に乗り、数百騎で公師藩の軍に赴いた。
汲桑はこの時、初めて石勒に石姓を与え、勒を名とさせた。
公師藩は石勒を前隊の督に任命し、鄴において平昌公・司馬模を攻めた。
司馬模は将軍の馮嵩に迎え撃たせ、公師藩を破った。
公師藩は白馬の南から(黄河を)渡ろうとしたが、濮陽太守・苟晞が公師藩を討ち、斬った。
石勒は汲桑と牧場に逃れて潜み、汲桑は石勒を伏夜牙門に任命した。
牧人たちを率い、郡県の囚人を攻め取り、山にいる亡命者を招き寄せ、多数が石勒についた。
汲桑は大将軍を自称し、成都王・司馬穎のために東海王・司馬越、東嬴公・司馬騰を誅することを名目とした。
汲桑は石勒を先鋒とし、しばしば功績をあげたので、掃虜將軍・忠明亭侯に任命した。
汲桑は進軍して鄴を攻め、石勒を前鋒都督にし、司馬騰の武将・馮嵩を大いに破り、長駆して、鄴に入り、
遂に司馬騰を殺し、一万余人も殺して、婦女子や珍宝を掠めとって去っていった。
延津から(黄河を)渡り、南に行き、兗州を攻撃し、司馬越は大いに怖れ、苟晞と王讚に命じて、汲桑を討たせた。

199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/17(火) 09:51:59 ID:yQWuSGSS0
今回は特に難しいと思えるところはなし。多分、大丈夫だと思う。

前回の分は186氏の解釈どおり馬をパクったのだろうか。
『汲桑帥牧人』である汲桑が、乱世の到来に備えて牧人たちに石勒に馬を提供させたとも解釈できる。

そして、今回、石やんは、早くも司馬騰に報復を果たす(映画並の速さ!)
そして敵の総帥・司馬越と宿敵・苟晞と王讚がついに姿をあらわす
ほとんどドラマ仕立ての石やんの物語。次回はさらなる苦難がふりかかります。

200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/18(水) 19:48:53 ID:HezPz3Wm0
>>196-199乙です
ほんと石勒の人生は波乱続きで面白いですね

201 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/21(土) 19:17:23 ID:ycu5vFB10
この時期の快進撃は、実際問題朝廷側の軍事力が壊滅状態という幸運があったからだと思う
もう、諸王の軍閥も決定的な軍事力は阻喪していて、王浚率いる幽州勢力が八王の乱に
幕を引いていたことを考慮すれば、中央から派遣された刺史や県令にどれほどの軍権があったことやら

貧乏くじ引きまくりの苟晞には心から同情する
タイプ的に後漢末期の皇甫嵩と被るんだな、軍事の才はあっても政界遊泳術にうといところなんかは
この時期の晋側の名将て、性格に難ありなヤツが多いな(特に祖逖や陶侃、劉コンは癖が強い)

202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/22(日) 05:18:17 ID:ELGNQXfY0
>>201
貧乏くじなのは認めるけど、そうでなくては、世にでることはなかったかも知れないし
自分は、『屠伯』苟晞は司馬懿タイプだと思っている。
(司馬懿が自立して半群雄になったら、あんな感じって印象)

政界遊泳術にうといかなあ。失脚しても、また、登用されるねばり強さがあると思うけど
なにげに山東の軍事力をまとめ、司馬越を憤死させているところも
皇甫嵩とはひと味違うところじゃないかな

ちなみに、ご存じであると思うが、苟晞伝の翻訳は【解體晉書】のサイトにある。
王浚伝や祖逖伝もだして欲しいなあ



203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/22(日) 05:20:16 ID:ELGNQXfY0
それで、前回からの続き。

 桑、勒攻幽州刺史石尟於樂陵,尟死之.乞活田禋帥眾五萬救尟,勒逆戰,敗禋,與晞等相持于平原、陽平間數月,
大小三十餘戰,互有勝負.越懼,次於官渡,為晞聲援.桑、勒為晞所敗,死者萬餘人,乃收餘眾,將奔劉元海.
冀州刺史丁紹要之于赤橋,又大敗之.桑奔馬牧,勒奔樂平.王師斬桑于平原.

204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/22(日) 05:22:23 ID:ELGNQXfY0
 汲桑と石勒は幽州刺史・石尟を楽陵に攻め、石尟は戦死した。
乞活の田禋が五万の衆を率いて石尟を救いにきて、石勒は迎え撃ち、田禋を破り、
苟晞と平原、陽平の間で数ヶ月、相対した。
大小あわせて三十数回戦い、互いに勝ち負けがあった。
司馬越は怖れて、官渡に軍を宿営させ、苟晞のために(汲桑を)牽制させた。
汲桑と石勒は苟晞に敗れ、死者一万余人を出し、残った衆を集め、率いて劉淵のもとに逃げていった。
冀州刺史・丁紹が赤橋においてこれを阻み、大いに破った。汲桑は馬牧に逃げ、石勒は楽平に逃げた。
晋軍が汲桑を平原において斬った。

205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/22(日) 05:37:07 ID:ELGNQXfY0
今回も難しいと思えるところはなし。
今週はもう一段、行う予定。

快進撃のすえ、幽州刺史を倒し、大軍の乞活も破る。
(しかし、幽州刺史は王浚がいるはずなのに、この石尟は誰から任じられていたのであろうか?)
そして、苟晞と対戦。敗北の末、兄貴分の汲桑が死ぬ。
丁紹も有能な官僚で正史に伝がある人物。この頃の晋は威光はまだあったと思う。

またも大ピンチの石やん。もちろん、このままでは終わらない。

206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/22(日) 07:25:50 ID:whadn3t80
ここは、劉淵、王彌の動きも結構重要なあたりだと思う。
確かに洛陽にとって切迫していた脅威は公師藩−汲桑−石勒の賊軍であったかもしれないが
山東(青、?、豫)一帯で厳然たる独立勢力を築きつつあった王彌こそが苟晞
(ひいては司馬越)の最大の主目標であったと思われる。

山西に劉淵率いる匈奴軍閥
山東に王彌を中心とした叛乱軍
そして魏郡一帯を飛蝗のごとく荒らしまわる盗賊石勒
幽州には洞ヶ峠を決め込む、野心の塊王浚
関中では司馬模を派遣するも、現地の漢人豪族は独立の意思を漂わせ始める
江南はほぼ完全にコントロール不能(面従腹背とはまさにこのこと)

司馬越も憤死するわな(権力者なんかになったのは自業自得なんだが)
ぶっちゃけ、この時点で晋の切り札が苟晞一枚という破滅的な状況なのが、何とも……

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/22(日) 10:36:33 ID:whadn3t80
>>202
この時期の王浚は寧朔将軍、持節、都督幽州諸軍事だったような気がする(詳しく調べていないからあやふや)。
ほぼ温存されている軍事力に加えて、鮮卑最強の段部と婚姻外交による強固な同盟を結んでいた点で、
他の群雄よりもはるかに天下人に近かったと思われる(家柄も庶流とは言え太原王氏の出身だし)。
成都王、河間王、石勒、王彌と数多の群雄が、王浚股肱の鮮卑・烏丸に蹴散らされていることから、
本人の軍事的才能とは別にしても、当時最強の勢力であったことは疑う余地もない。

石勒の立場で就職活動するなら、地元の老舗企業「漢」か、新興で上り調子の「王浚」か
はたまた国家公務員になって「朝廷」に仕えるか

208 :207:2007/07/22(日) 17:52:01 ID:TcNpQoKm0
掩護射撃になるかどうかは分からんが、王沈伝より王浚のところでも抜粋して意訳でもするか。

 浚、字は彭祖。母は趙氏の婦人(未亡人?)で、良家の生まれであったが、生活に困窮し
王沈の屋敷に小間仕えで出入りしているうちに、まもなく浚を出産した。
 王沈ははじめ、浚を嫡出子とは認めなかった。
 浚が十五歳のときに王沈は薨じたものの、嫡子に恵まれず、親戚達は相談して王浚を嗣子とし、
当主に擁立した。このとき【馬付】馬都尉の官職に蔭補された(拝領した)。
 太康年間の初め(280年)、諸王侯に付き従って任地の郡国に赴任した。
 太康三年(282年)、朝廷に召し出されると、新たに員外散騎侍郎の職に任ぜられた。
 元康年間の初年(291年)には、員外常侍に転任し、さらには越騎校尉、右軍将軍へと位を進めた。
 転出して河内太守に補任されたが、司馬氏の郡公が知行を得ていたので、地方長官として
政務を執り行う機会は得られなかった。(ここの意訳は自信がない)そこで、東中郎将に転任し、
許昌に出鎮することになった。

 愍懷太子が許昌に幽閉されるに及んで(元康十年・300年)、王浚は賈后の意を受けて
?門の孫慮とともに太子を殺害した。
 (この功によって)寧北将軍、青州刺史へと昇任した。
 ついで間もなく、寧朔將軍、持節、都督幽州諸軍事にまで昇進を重ねた。
 時に、朝廷は(八王の乱によって)混乱を極め、巷間には盗賊が跋扈して、平寧を得る様子が
なかったので、王浚は自らの保身を案じて、夷狄と交際を親密にして友好関係を築き、同盟を
結ぶことを計画した。そこで一女を鮮卑の段務勿塵に、一女を蘇恕延に嫁がせることとなった。

209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/22(日) 19:33:11 ID:TcNpQoKm0
「以郡公不得為二千石」
これは、「郡公をもって地方長官となることができなかった」で良いのかもしれん、早速誤訳だ。
王浚の伝の続きです。

 趙王倫が簒奪するに及んで、三王(斉王、成都王、河間王)は義兵を挙げ檄を飛ばしたが、
王浚は配下を使って国境封鎖を厳にして檄書をさえぎり、領内の士大夫から庶民に至るまで
三王の挙兵には参加しないように措置を講じた。 (永康二年・301年)
 成都王穎はこのことを根に持って、いつか王浚を討伐してやろうと意気込んだものの、なかなか
その機会を得ることができなかった。趙王倫が誅伐されるに及んで、王浚は安北将軍を号するに
至った。河間王?、成都王穎は共謀して兵を洛陽に差し向け、長沙王乂を詐略に嵌めて討ち
滅ぼしたが、このことで王浚は成都王穎に対し不満を抱くようになった。(太安三年・304年)

 成都王穎は上表して、幽州刺史石?を右司馬に、右司馬の和演を石?に代えて幽州刺史
に任じるような人事異動を要求したが、その実、密かに演に命じて王浚を攻め滅ぼさせ、幽州の
衆人を己の勢力に併呑しようと目論んでいたのだった。
 和演は烏丸単于の審登と暗殺計画を共謀し、王浚と薊城の南清泉で遊覧する約束を交わ
して、そこで彼を亡き者にしようと図った。薊城には西に通ずるにふたつの幹線道路があって、
浚と演はそれぞれの一道を通ってやって来た。
 演は浚と合い鹵簿することを望み(干戈を交えるの意か、それとも行列を並べてともに遊覧に
行こうと誘っているのか?ちょっと自信なし)、よってすなわち計画をここで実行することにした。
ところが、天候はたまたま暴風雨にあたり、準備しておいた兵卒・装備は雨に濡らし、何の成果
も得られないまま還るはめになってしまった。
 単于はこの出来事で考えるところがあったので、烏丸の衆人たちを集めて相談することにした。
「和演の野郎は、王浚を暗殺しようと図ったが、もう少しで事が成るってときに、大雨が降ってきて
 まんまと取り逃がしちまった。こりゃあ、天が王浚を助けようと思ったからに違いねえ。」
「ツキに見放されちまった和演の野郎なんかと一緒に行動するなんて真平御免だな。」
 こうして、烏丸の部衆は暗殺計画があったことを王浚に密告した。王浚は密かに軍に戒厳令を
布き、兵旅を準備させ、烏丸単于と共に和演を包囲した。演は白旗を揚げて王浚に投降した。
王浚は和演を斬首して、成都王への叛旗を翻し、ついに自ら幽州を領有する意図を明らかにした。

 兵器を大々的に製造し、娘婿の段務勿塵を招聘して胡漢合わせて20,000の兵を率いさせ、
成都王穎討伐の軍旅を進める次第となった。主簿の祁弘を尖鋭部隊として進軍し、平棘に
おいて成都王の部将石超の軍と遭遇した折には、これを散散に撃ち破った。
 王浚は勝ちに乗じて遂には【業β】城を攻め落としたが、この際兵卒に略奪を許可して、
多くの城民がその災禍に巻き込まれ命を落とした。さらに鮮卑は婦女子を略奪すること甚だしく、
見かねた王浚が「敢えて略奪した婦女子を隠匿する者がいたら斬る!」と発令すると、あわてて
易水に沈められてしまった婦女たちは八千にも達したといわれる。
黔庶荼毒、自此始也。(人民の害悪、これより始まる)

とりあえず永安元年(304年)まで。
凄まじく意訳が混ざっているので、原文とかけ離れてるところが多々あります。

210 :207:2007/07/22(日) 23:10:36 ID:TcNpQoKm0
王浚の伝、まだちょっとだけ続きます。

 王浚が薊城に帰還すると、その声実は否が応でも高まった。東海王越はまさに天子(恵帝)を
迎えんとしたので、浚は祁弘に烏丸突騎を率いて派遣させ、先駆の任務を申し付けた。(永興二年・305年)

 恵帝が洛陽に凱旋すると、浚は驃騎大將軍、都督東夷河北諸軍事、領幽州刺史に任じられ、
燕国から博陵の封地をもって加増を受けた。(永興三年・306年8月)
 懐帝は即位すると、浚を司空及び領烏丸校尉に任じ、段務勿塵に大単于の位を授けた。
王浚はまた、務勿塵に遼西郡公の封位を授け、烏丸の大飄滑及びその弟羯朱らをして親晋王
と為すように上表した。

 永嘉年間(307年〜312年)、石勒が冀州に寇略してきたため、王浚は鮮卑の段文鴦を
派遣して石勒を討伐させた。この敗戦によって石勒は南陽(黎陽の誤文?)方面へ敗走した。
(永嘉三年・309年「飛龍山の戦い」)
 明くる年(310年)、石勒はまたもや冀州に侵攻し、刺史の王斌を殺害した。このため、王浚は
ふたたび冀州に軍を差し向けることとなった。王浚を大司馬、加侍中、大都督、督幽冀諸軍事
に昇進させる詔勅が発せられた。

 しかし、その詔勅を届ける使者が出立しないうちに、洛陽は匈奴に攻め落とされてしまったので、
王浚は大司馬の威令をもって、自ら征討の軍を起こし、督護の王昌、中山太守の阮豹たちをして
諸軍及び段務勿塵の世子疾陸眷、並びに弟の文鴦、従弟の末?ら鮮卑兵を率いさせ、石勒
を襄国に攻略した。勒はその部衆を率いて長躯来寇したが、王昌は逆撃してこれを敗走させた。
 段末?がこれを追撃して、襄国の塁壁に侵入したあたりで石勒の捕虜となってしまった。勒は
末?を人質として水面下で和平交渉を始めたので、段疾陸眷はついに鎧馬二百五十匹及び
金銀各一?をもって末?と交換することにし、停戦の盟約を結んで、その軍を撤収させたのである。

 ※ 永嘉六年(312年)まで、ようやく石勒とドンパチを始めたようです。

211 :207:2007/07/22(日) 23:21:51 ID:TcNpQoKm0
>>207の誤りを訂正
自分で書いといて気づいたが、永嘉年間の王浚の官位は基本的に
「司空、驃騎大將軍、都督東夷河北諸軍事、領幽州刺史、領烏丸校尉」になるのかな?

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/23(月) 22:08:04 ID:hnzvmQvb0
>>207
おつかれ。王浚は意外に、祖逖や王弥よりも石勒との関係は深い。一番読みたかった。
援護射撃は非常に助かる。祁弘の最期は石勒伝にはないので補完する意味もある。

自分的に、読みたいのは劉淵伝、劉曜伝、祖逖伝、王弥伝、劉コン伝、邵続伝かな?
王浚伝の続き、楽しみにしているのでよろしく(^o^)

しかし、>>211のとおりだったら、石尟は誰から……。
公師藩・汲桑の乱は明らかに、恵帝の洛陽凱旋後だしな。
やはり、司馬越かな? それとも王浚が軍事に専念するために腹心に任じたか。

まあ、とりあえず、翻訳続き、行きます。

 時胡部大張※督、馮莫突等擁眾數千,壁于上黨,勒往從之,深為所昵,因説※督曰:
「劉單于舉兵誅晉,部大距而不從,豈能獨立乎?」曰:「不能.」勒曰:
「如其不能者,兵馬當有所屬.今部落皆已被單于賞募,往往聚議欲叛部大而歸單于矣,宜早為之計.」
※督等素無智略,懼部眾之貳己也,乃潛隨勒單騎歸元海.元海署※督為親漢王,莫突為都督部大,
以勒為輔漢將軍、平晉王以統之.勒於是命※督為兄,賜姓石氏,名之曰會,言其遇己也.

※=背(つつみがまえ付き)

213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/23(月) 22:11:22 ID:hnzvmQvb0
で、訳。

 時に、胡族の酋長、張背(つつみがまえ付き)督、馮莫突は衆数千を擁して、上党に籠もっていたので、
石勒はそこに赴き、昵懇の仲となり、張背督に言った。
「劉単于(劉淵)は挙兵して、晋を滅ぼそうしているのに、酋長は従属することを拒んでいる。独立できると思っているのか?」。
(張背督が)答えるには「できないだろう」。
石勒は言った。「そのようにできない者が、兵馬を所有している。今、部族のものは全員、単于の召募にかかっており、
幾たびも酋長に逆らって、単于のところに行きたいと望んで議論している。その計画が実行されるのももうすぐだろう」。
張背督たちは元々、知略が無く、部族のものの二心を怖れ、ひそかに石勒に従い、単騎で劉淵のもとに帰順した。
劉淵は張背督を親漢王に任じ、馮莫突を都督部大にした。石勒を輔漢將軍、平晉王として、二人を統率させた。
石勒は張背督を兄とし、石姓を与え、名を会とさせ、彼に対して自分に対するのと同じ言葉遣いを(部下に)させた。

※『宜早為之計』と『言其遇己也』があまり自信がない
 間違いがあったら、ご指摘お願いしますm(_ _)m

214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/23(月) 22:23:58 ID:hnzvmQvb0
今回はちょっと難しかった。

さすが、石やん。手ぶらで劉淵のところにはいかずに、半ば詐欺と脅迫で
それなりの部族の長を、弟分にして、労せずにみやげを持っていく。
(一気に輔漢將軍、平晉王! 空手形かも知れないが名称がすごい。国号が漢、敵国が晋だからね)

さて、石やんはいかに207氏のいう老舗企業(やくざ?)の親分・劉淵のもとでのしあがるか
次回をお楽しみに。


215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/25(水) 01:35:44 ID:s/h3jOV90
214さん、207さん、翻訳本当にご苦労様です。
このスレは本当に良スレですね。いつも楽しみにさせて頂いております。
さて、214さんの読みたいと言われていた劉元海戴記を翻訳されている方
をたまたま発見しました。
ttp://www.geocities.jp/takemanma/index.html
お一人で、ここまでの戴記を翻訳されたのは頭が下がる思いです。
現在は石勒と並ぶ大英雄の苻堅戴記を掲載中です。
宜しかったらご覧になられて下さい。
(既にご存知でしたら失礼しました。)

216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/25(水) 11:23:57 ID:EKPdddVG0
石勒は根強いファンを獲得できるタイプの人物だな。

217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/27(金) 19:36:29 ID:eftKk6a40
王浚の伝、永嘉六年以降から行きます。

 その後(>>210 襄国包囲の後)、王浚は天下に布告し、(内々で)詔を受け制を承ったのだと称して、
司空の荀藩を太尉に光禄大夫の荀組を司隷校尉に、大司農華薈を太常に、中書令李?を河南尹に
任命した。

 王浚は一方で、祁弘を石勒討伐のため廣宗まで派遣した。ところが、途中凄まじい濃霧に見舞われて
迷ってしまった行軍を立て直すために、祁弘が道を探して兵を誘導していたところ、不運にも石勒の軍と
鉢合わせてしまう。祁弘は捕らえられ、石勒の斬殺するところとなった。
 (王浚の軍事力の要とも言うべき祁弘が亡くなったことを受けて)劉コン(以後字の越石で通します。)は、
王浚と冀州の覇権を争う意図を顕わにした。劉越石は一族の劉希を中山へ帰還させて、拓跋部の勢力
と中山の現地兵力を合流させたので、代、上谷、廣寧の三郡の人々は(その威勢を恐れて)
みな劉越石の下へこぞって帰順した。
 浚はこのことを大変煩わしく思い、準備していた石勒討伐の出陣を取りやめ、劉越石との国交を断絶し
て、先に并州の憂いを取り除こうとした。浚は燕国の相胡矩に兵を授けて、段疾陸眷と共同で劉希を
攻撃させこれを撃ち破った。代、上谷、廣寧の三郡の士女は大いに略奪を受け幽州まで連行されたため、
劉越石はそれ以上王浚と戦争を継続することが出来なくなった。

 建興元年(313年)、王浚は薊城へ帰還すると再び石勒征討を企て、棗嵩に総司令官として諸軍を
率いて易水に駐屯させると、段疾陸眷に共同で襄国を攻略する作戦計画を持ちかけた。
 この時期になると、王浚の政治は苛暴となり、またその官吏たちは貪欲で残酷、誰も彼も国有地である
山沢を荘園として広大に占有横領し、勝手に公共の堤防から己の荘園の農地に水を引き入れ、
墓荒しが横行し、租税の徴発が度重なったため、庶民は堪えきれずに多くが造反して鮮卑(拓跋部、
段部及び慕容部)部落へと亡命して行った。
 從事侍郎であった韓鹹はこのことを強く諫言したが、浚は激怒して彼を処刑した。
 疾陸眷はこの事件のせいで、盟約を違えたときに王浚に誅殺されるのではないかと恐れるようになった。
 石勒もまた賄賂を段部にたびたび贈答して誼を通じて来ていたので、疾陸眷たちは王浚の招聘に次第に
応じなくなっていった。王浚は大いに怒り、拓跋単于の猗盧に厚く賄賂を贈って、右賢王の日律孫を
派兵してもらい疾陸眷を攻撃させたところ、逆に撃破される有様であった。

218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/27(金) 20:22:37 ID:ahiw8AMM0
乙。でも、?と字の表記がどうにも目に鬱陶しいので、スマンが今度から
ここ(↓)でJIS外漢字をコードに変換してから貼ってもらえんだろうか・・・。
ttp://code.cside.com/3rdpage/jp/unicode/converter.html

219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/27(金) 20:33:24 ID:eftKk6a40
一代の驍将祁弘もまさか濃霧のために呆気ない最期を遂げることになるとは……。
(東魏の慕容紹宗も間抜けな最期だったが、これに勝るとも劣らない無念な死に方だ)
このまま祁弘が生きていたら、石勒もいずれ攻め滅ぼされて楽に死ねただろうに。

220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/27(金) 20:43:46 ID:eftKk6a40
>>218
すまん、環境上入れるのは若干問題があるんで、大目に見てくれんか?

221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/27(金) 22:49:19 ID:lbc9aHPu0
李涉
劉琨

222 :214:2007/07/27(金) 23:35:11 ID:bNqkmAA00
>>215
どうもありがとうございます。このサイトの存在は知っていましたが、ただの漢詩サイト
と思ってました。(−_−)
すごい! 劉淵伝どころか、劉聰伝まである(*^_^*)
まだまだ更新中だ。手書き訳終了で張昌伝、王彌伝がある。すげー
うん? 手書き訳中に、『石勒 下』があるぞ? これじゃ、自分の翻訳、意味ないじゃん(>_<)
……。まあ、いいや。掲載されるまで時間はあるだろう。
それじゃ、翻訳続ける
>>217
乙。漢字は正史を見れば分かるから私は気にしない。
それにしても、祁弘のあっけない死は意外だ。資治通鑑にも書かれてなかったため、
死亡時期は不明だと思っていたのに。
まあ、生きてても、最終的に勝つのは石勒だと思うけどな

それで今回の原文

 烏丸張伏利度亦有眾二千,壁于樂平,元海屢招而不能致.勒偽獲罪于元海,因奔伏利度.
伏利度大ス,結為兄弟,使勒率諸胡寇掠,所向無前,諸胡畏服.
勒知眾心之附己也,乃因會執伏利度,告諸胡曰:「今起大事,我與伏利度孰堪為主?」諸胡咸以推勒.
勒於是釋伏利度,率其部眾歸元海.元海加勒督山東征討諸軍事,以伏利度眾配之.

223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/27(金) 23:38:06 ID:bNqkmAA00
で、訳

 烏丸の張伏利度が衆二千をもっており、楽平に籠もっていた。劉淵は何度も招安しようとしたが、
来させられなかった。石勒は偽って、劉淵から罪を得た形にして、張伏利度のところに逃げた。
張伏利度は大いに喜び、結んで兄弟となり、石勒に胡人たちを率いさせて、攻めさせた。
向かうところ敵無く、胡人たちは畏れ、心服した。
石勒はみなの心が自分についたのを確認すると、張伏利度を捕らえ、胡人たちに言った。
「今、大事を起こす時に、私と張伏利度、どちらが主となるに堪えようか?」。
胡人たちは石勒を推し、石勒は張伏利度を解放した。その部族を率い、劉淵のもとに帰順した。
劉淵は石勒の職に、督山東征討諸軍事を加え、張伏利度の衆を配下にした。

224 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/27(金) 23:45:21 ID:bNqkmAA00
今回は難しいところはなし。(前回の分とあわせて指摘があったら、お願いします)

劉淵のもとで初手柄の石やん。損害は少なく、利は多し。
石やんがただの武将ではないことがこれで分かる。

次回は劉淵・劉聰のもとで強敵の一人、劉琨と戦います。

225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/28(土) 11:19:59 ID:tNElRYXM0
王浚の伝つづき

 劉聡による劉越石への圧迫が目に見えてに増大してくると、中原の乱から避難していた多くの人士たちが
王浚のもとへ帰順するようになった。王浚の勢力は日増しに強盛となる。その権勢は、祭壇を造営して
天に犠牲を捧げる儀を執り行い、皇太子を建立し、百官を設置するまでに増長した。
 浚は自ら尚書令を拝領し、棗嵩、裴憲を尚書に、その子は王宮に近侍させ、持節、護匈奴中郎将に
任命した。また妻舅であった崔を東夷校尉に、棗嵩をして監司冀並びに?諸軍事及び行安北将軍に、
田徽をエン州刺史に、李ツを青州刺史にそれぞれ任命した。しかしながら李ツは石勒に敗れ、殺害されて
しまったので、後任に薄盛をもって代わらせたのであった。
 ※ 記事的には永嘉五年(311年)7月の王浚による仮の立太子の儀の内容だと思われるのだが……

 浚の父王沈は字を「處道」と名のっていた。そこで王浚は、古の予言書に顕れるという「当塗高」とはまさに自分のことであるとして、帝号僭称の謀議を諸将らに打ち明かした。(建興元年・313年 11月)
 胡矩は王浚を必死に諫止し、薄盛は「そりゃ無理です。」と申し上げた。浚はこれに不満を覚えて、胡矩
を魏郡の太守に左遷した。
 つづいて、前の渤海太守劉亮、従子の北海太守劉搏、司空掾の高柔らが雁首揃えて諫言しにやって
来ると、王浚の怒りは頂点に達し、彼らをことごとく誅殺してしまった。

 浚は平素から長史である燕の王悌と不仲であったので、いろいろと理由をこじつけて彼を処刑した。
 当時、こんな童謡が謡われたと言われる。「十嚢、五嚢、棗郎へ入る。」
棗嵩は王浚の娘婿である。王浚はこの童謡のことを聞くと、棗嵩を叱責するにはしたが、ついに刑罰を
加えることはできなかった。また、こんな童謡も流行った。「幽州(薊城)の都城は倉庫にそっくりだ。
中に横たわっているのは王浚の屍だ。」
 この頃、狐が府門にうずくまったままだったり、尾長雉が庁舎に進入するといった変事があった。
 時に燕の霍原は、北方の諸州においてその賢才が広く知れ渡っており、王浚は帝位の僭称の件に
ついて彼の意見を聞いてみることにした。霍原は王浚が望むような返答をしなかったので、浚はこれもまた
一思いに抹殺した。この事件によってついに幽州の士人は憤激し、王浚に愛想をつかして離散するものが
続出した。
 しかしながら王浚の驕慢は日に日に甚だしくなり、政治に倦んで政務を顧みなくなっていった。こうして
政治は悪辣な酷吏の手に委ねられることになった。折悪く、幽州は旱魃・蝗害に毎年のように見舞われて
いたことも、士官兵卒の衰弱に追い討ちをかけたのである。

 ※ 慕容部がこの時期にそれほど強盛を誇っていないことを考慮すると、結構話半分で聞いていたほうが
  よい記事です。段部の圧力が除かれて初めて中原侵入への野望が開けたことを鑑みれば、実は王浚
  の暴政は言われてるほどのものではなく、むしろ段部と石勒による幽州分割の帰結だったのかもしれま
  せん。しかし、「刺史キラー」と言っていいくらい石勒の攻撃が凄まじい。刺史任命=石勒に殺される
  の図式が出来上がっているような……。

226 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/28(土) 16:10:35 ID:DR90RxN30
刺史キラーw

227 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/28(土) 22:02:18 ID:rbW9W5z50
王浚の伝、まだまだいくよ。

 王浚が百官の制を定めた際に、譜代の参謀・幕僚はみな高官に叙任されたのだが、司馬の遊統だけが
この行賞人事の蚊帳の外であった。統はこのことを怨みに思い、密かに石勒と内通しようと企んだ。
 石勒は王浚軍閥内の不協和音を感じとった。そこで王浚に偽りの降伏を申し出、主君として奉じる
策略を実行に移すことにした。(建興二年・314年)
 折も折、幽州では民衆の造反が已むことなく、段部の叛乱・侵略はひっきりなしに続いていた。
 王浚は石勒が自分に寝返ったことを大変喜んだ。石勒はこれによりますます言葉使い丁寧に、礼儀態度
は必要以上に謙るようにして王浚に仕えるようになった。珍宝を贈答する際には、駅を途切れることなく
乗り継がせて献上させた。
 王浚は石勒に二心が無いことを確認し、襄国に対する備えを全く顧みなくなった。やがて石勒は使者を
遣わして、王浚に尊号を称するように上奏させると、浚はこれを快諾した。

 建興二年(314年)3月、石勒が易水まで進出して兵を駐屯させると、督護の孫緯はその行動に何か
裏があるのではないかと訝しがり、早馬を出して王浚に「石勒に軍を引き上げさせ、その隙に逆撃を喰ら
わせる」ように申し出た。王浚はこれを無視し、勒に真直ぐ参内するように使者を出した。
 諸官はみな口を揃えて言った。「胡人というやつはそもそも貪欲にして、信義というものを知らず、
その言葉には必ず詐術が紛れると言います。こんな連中、即刻攻撃してしまいましょう。」
 王浚はその建議に激怒し、石勒を誹謗中傷するような連中は斬罪に処するとまで言い切ったため、
ついぞ、その後命がけで諌める者はいなくなった。また、勒を饗応する宴席の場の準備を張り切って
設営させた。

 ※ この部分だけだと王浚がアホの子に見えなくもないが、石勒載記を読めば、張賓による詐略の限りが
  ビシバシ炸裂しているわけで、楽しみはそっちに取っておいてくれ。幽州の人士が王浚を本気で見限って
  いたかと言うと、やはりそれはなかったと思う。強力な庇護者王浚がいたからこそ、幽州は重税に
  喘ぎながらも他国に蹂躙されることなく、むしろ近隣の諸州から人的資源や物的資源を収奪し続ける
  ことができていたのを、当時の州民はみな理解していたはずだ。彼がいなくなれば、もっと素晴らしい
  統治者が現れるなんて、世紀末救世主伝説を本気で信じ込んでいたんだろうか?

228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/28(土) 22:57:44 ID:rbW9W5z50
王浚の伝、ラスト

 石勒は薊城に到着すると、兵卒の思うがままに略奪を許容した。(かつて王浚が冀州で同じことをやって
いたわけだから、このときの趙魏の兵士たちの略奪には多分に復讐の意味合いが強かったと思われる。)
 王浚の側近たちはなお勒を討ち取るように哀願したが、この期に及んで浚はそれを許さなかった。
 石勒が庁舎に進入するに及んで、王浚はあわてて堂皇?に逃げ込んだものの、石勒の将兵の捕えるところ
となり石勒の面前へと連れて来られた。さらに、浚の妻もとっ捕まえられて夫婦並べて引き出されてしまった。

 王浚は石勒を思いっきり罵って言った。「この胡奴(適切な訳語が見つからないが、毛むくじゃらで彫深の
奴隷人種野郎くらいの意味にしておく)め!貴様いったい何様のつもりで俺にこんな悪逆非道な真似を
するというのだ!」
 石勒は王浚の晋に対する不忠の数々を列挙し、さらに庶民の飢饉窮乏を知りながら粟穀五十万斛を、
倉庫にただ山のように積み重ねておくだけで、何の窮余策も講じなかったことを並び立てて非難し、その
罪を弾劾した。
 石勒はおよそ五百騎ほどに王浚を護衛させて襄国に先遣させる一方で、王浚麾下の精兵万人を収容
して、後顧の憂いを除くべく、これらを悉く皆殺しにした。二日間ほど薊城にとどまって戦後処理をしていたが
その帰路、孫緯が径路を遮断して襲撃を仕掛けたが、石勒は僅差でこれを免れることができた。

 石勒は襄国に到着すると王浚を斬刑に処したが、王浚は最期まで石勒に屈するところなく、大いに罵倒
して死に臨んだ。嫡子はいなかった。(太元二年・377年のお家復興の記載は割愛)

 ※ まあ、梟雄の最期なんてこんなものだろう、寂しいけど。

229 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/04(土) 01:04:14 ID:FXBjo8eA0
保守ついでに、次は王彌伝を訳してみる。

 王彌(字は不明)は東莱出身であった。その家門は代々太守を輩出する家柄で、祖父は魏の
玄菟太守を経て、武帝司馬炎の時代には汝南太守にまで昇任している。
 王彌は知恵と能力に恵まれ、特に文書記述において幅広い見識を持ち合わせていた。しかしながら
若い頃は京都(洛陽)で遊侠の徒に交わるような一面もあったりした。隠者の董仲道がそんな王彌を
見かけて思わず話しかけた。
「君は、豺のような声と豹の眼を合わせ持っているようだが、そりゃあ兵乱を好んで災禍を楽しむ
 人物の相に他ならない。もしも、天下が騒擾するような乱世がやってきたら、君が士大夫として
 身を興すようなことは到底考えられないね。」

 恵帝司馬衷の時代に、妖賊(宗教叛乱)劉柏根が東莱で兵を挙げると、王彌は実家の従僕たちを
率いてこの叛乱軍に身を投じた。(光煕元年/306年 3月)
 劉柏根に長史に任じられていた王彌は、柏根が戦死して、海岸部に逃れた敗残兵たちが苟純に討伐
されるに及んで、長廣山に入って群賊となり一時の雌伏を図った。
 王彌は権謀知略に優れ、掠略するところあれば必ず事前にその成否を検討し、抜かりない作戦を
計画することしばしばであった。弓術馬術は迅速にして敏捷、膂力は常人の敵うものではなく、青州の
人士は彼を畏敬をこめて「飛豹」と呼ぶようになった。

 後に兵を引き連れ、青州・徐州へと暴れこんだものの、刺史苟晞の逆襲に遭い大敗を喫してしまう。
(永嘉元年/307年 2月)
王彌は残余を集めて撤退、あちこちへと散らばって身を潜めていたが、再びその勢力を盛り返すように
なると、もはや苟晞の手に負える相手ではなくなっていた(晞之と連戦し、克能わず)。
 王彌は兵を進めて泰山、魯国、梁、陳、汝南、潁川、襄城諸郡を寇掠し、許昌に入るとその府庫を
開放して武器装備品を奪取した。城邑が陥落すると、多くの太守、県令が殺害の憂目に遭った。
 その衆は数万を擁し、朝廷はもう青州の王彌の勢力を如何こうすることも出来なかった。
(永嘉二年/308年 4月)

 ※ ちなみに劉柏根の軍は、劉暾(司隷校尉などを歴任した高官)による討伐軍を退けたものの、
  王浚の派遣した軍により討ち取られたとある。また、最後の段の王彌の軍事行動については、
  京師にまで攻め込んでいる凄まじい寄せっぷりである。

230 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/04(土) 11:28:36 ID:4e3tn+er0
このスレ、勉強になる。
次の訳、楽しみにしてます。

231 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/04(土) 11:40:47 ID:aHwwYmJj0
>>228
おつかれ。王浚伝は非常に読みたかったので、うれしかった。
貴兄のペースがあまりにも速いのであっという間に追い越されてしまったな。
王浚の内政がさほど乱れていなかったというのは賛成。
むしろ拓跋部や段部との外交、石勒、劉琨に対抗するための軍事負担の増大が原因だと思う。
(劉琨と連携がとれなかったけど、悪いのはどちらの方であろうか?)

王浚は袁紹に近いイメージがある。やはり、一代の人物だろう。

次は王彌伝のようで、これも非常に楽しみにしております。

で、石勒伝の続き

 元海使劉聰攻壺關,命勒率所統七千為前鋒都督.劉琨遣護軍黄秀等救壺關,勒敗秀於白田,
秀死之,勒遂陷壺關.元海命勒與劉零、閻羆等七將率眾三萬寇魏郡、頓丘諸壘壁,多陷之,
假壘主將軍、都尉,簡強壯五萬為軍士,老弱安堵如故,軍無私掠,百姓懷之.

232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/04(土) 11:43:06 ID:aHwwYmJj0
 劉淵は劉聡に壺關を攻めさせ、石勒に七千を統率させ、前鋒都督に命じた。
劉琨は護軍の黄秀らに壺關を救援させ、石勒は黄秀を白田で破った。
黄秀は戦死し、石勒は壺關を陥れた。劉淵は石勒に劉零、閻羆ら七將、衆三万を率いさせ、魏郡を攻めさせた。
頓丘のたくさんの壘壁をいくつも陥れ、壘主を仮の将軍や都尉とし、すぐに強壮なもの五万を兵士にし、
老弱はもとのようにして安堵させ、軍は私的な略奪はせず、百姓を懐柔した。

233 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/04(土) 12:20:58 ID:aHwwYmJj0
今回も難しいところはなし。大丈夫なはず

劉淵の配下、劉聡の先鋒として劉琨に一勝。長い戦いの端緒を飾る。
>軍は私的な略奪はせず
これは本当か、と思うが。

次回からはまた石やんの快進撃と報復の嵐が始まります

234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/05(日) 10:06:55 ID:yGn3rfkc0
>>231
自分にとっても王浚の最初のイメージは袁紹っぽかったんだが、
(特に名門に生まれながら、庶子として扱われざるを得なかった点など)
やってることは袁術っぽかったりして、何かいろいろ複雑な人物像

235 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/05(日) 12:04:15 ID:yGn3rfkc0
王彌伝

 天下大乱の時勢に乗じ、王彌は洛陽へと逼迫した。洛陽ではその脅威に震え上がり、宮城の
門は堅く封鎖された。司徒の王衍たちは断固死守すべく、百官を率いて防御態勢をとると、王彌は
これに対して七裏澗へと布陣した。朝廷軍は進撃して、王彌の軍を大破した。(永嘉二年/308年 5月)

 王彌は仲間の劉霊と相談して言った。
「晋軍はまだ手強い、俺たち単独ではこの先やっていけまい。
 実はな劉霊、匈奴の劉淵とは昔、やつが質子として洛陽に留め置かれていた頃、いろいろ世話を
 焼いてやったこともあってな、兄弟の契りまで結んだ仲なんだ。
 あいつは今漢王を称して、正に日の出の勢いだ。
 ちょっとばっかし、あいつのところで世話になろうと思うんだが、お前はどう思う?」
 劉霊がその考えに同意を示したので、王彌は黄河を渡り劉淵のもとへと帰順した。

 劉淵は王彌が帰順したことを聞くと大いに喜び、侍中兼御史大夫であった呼延翼を出迎えの
使者として送り出すと、平陽の城外で王彌を郊迎させ、文書を彼宛てにしたためて言った。
「将軍には不世の功、超時の徳が備わっていることは誰の目にも明らかです。だからこうして歓迎
 させてもらいました。将軍が来るのを今か今かと待ち望んでいましたが、私が今から直接将軍の
 お館にお邪魔させていただき、すぐにでも酒席を準備してグラスを洗い、将軍に一杯注がせて
 頂いて、真心をこめて歓待したいものです。」(※ 超意訳、相当脚色してます)

 王彌は劉淵と接見するや、皇帝を称することを勧める。劉淵は王彌に答えて言った。
「私は昔、将軍を竇融に比されてしかるべき人物だ(竇融程度の人物でしかない)と思っていたが、
 今はまさに、私にとっての諸葛亮、ケ禹であったと思い知らされた。
 (ただただ、己の不見識を責めるばかりである。)
 昭烈帝には青雲の志があったが、烈祖が言った水魚の交わりとは、正しく私と将軍との関係の
 ことを言うのだな。」

 ここにおいて劉淵は王彌を司隸校尉に任命する。侍中、特進の位も与えようとしたところ、王彌は
これを固辞した。王彌は漢軍に合流するや、劉曜とともに河内攻略に参加したり、あるいは石勒と
共同で【業β】を攻めるなど、その軍事行動を再び活発にした。

236 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/09(木) 06:24:40 ID:OqZhuj7d0
石虎ってものすごい残虐な事したと書かれてるけどさ、

なぜか石邃だけに異常に寛大だよね?? 

自分と口利いただけでも家臣殺してそうな男なのに、なぜか彼だけ
謀反しでかしたり罵ったりしても本人は赦されたり殺されてないのが不思議。

家臣が許可しないので殺したくなかったけど殺したとか記述もあるけど、
石虎て実際にはどんくらいヤバイ奴だったんだろう・・
史実どおりなのかなにか脚色されているのか・・

237 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/10(金) 02:50:42 ID:4zEllKJBO
>>236
かなり脚色されてると思う。
石虎に限らず必要以上に脚色される事は多いよ。

238 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/11(土) 09:00:21 ID:2yKHpLlL0
石虎なんて、石勒の遺骸を「秘葬」したことを、あたかも山奥に捨ててきたみたいな記述だからな
どうも、石虎も石勒の母王氏も山野への秘葬だったことを考えると、羯族にはそういう風習が
あったと見るべきだろう

しかし、簒奪後の軍事行動の拙さを見てると、石虎も石勒の「軍事代行者」としては有能であっても
トップとしての展望や指揮采配能力には欠けていたんだろうなあ
張賓のような参謀を得られなかったことも、そういう欠点に拍車をかけているっぽい

239 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/11(土) 09:22:12 ID:hw1xb7ki0
>>236
脚色もあるだろうけど、石虎の治世がかなりひどかったのは確かだろうな
もし、異民族だからといって晋書が貶めているなら、石勒や苻堅ももっと批判的に
書かれているだろうし。(結構、この二人の政治は好意的に書かれている)

晋書が書かれた唐の時代は北朝流れなので正統を南朝とはしていても、十六国政権を
少なくても歴史家としては故意に悪くは脚色しようとしていないと思う。

上のレスで石虎政権の時は反乱の記述が少ないとあったが、これは石勒の時に政権の基礎が固まった
ことと少なくても石虎の代は恐怖政策がうまくいっていたということだろう
(こういうのはその独裁者の死後、反動が来るけどね)

石邃の件に関しては、非人間的な虐殺者に限って、親子の情や家族愛にしがみつく
という映画や漫画の悪役によくいるタイプという解釈でいいんじゃない?

まあ、伝聞も入るだろうから、真実は分からないけど

>簒奪後の軍事行動の拙さを見てると、石虎も石勒の「軍事代行者」としては有能であっても
>トップとしての展望や指揮采配能力には欠けていたんだろうなあ

これには全面同意。石虎は名将かも知れないが英雄ではないと思ってる

あれほどの国土・兵力を持っておきながら、涼州や慕容氏に負ける。正直、ださい
こいつって、ひょっとして中国史上最も弱い中央政権の主じゃないか


240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/11(土) 09:26:34 ID:hw1xb7ki0
それよりもまた翻訳。今回は少し長い。


 及元海僭號,遣使授勒持節、平東大將軍,校尉、都督、王如故.勒并軍寇鄴,鄴潰,和郁奔于衛國.
執魏郡太守王粹于三臺.進攻趙郡,害冀州西部都尉馮沖.
攻乞活赦亭、田禋于中丘,皆殺之.元海授勒安東大將軍、開府,置左右長史、司馬、從事中郎.
進軍攻鉅鹿、常山,害二郡守將.陷冀州郡縣堡壁百餘,眾至十餘萬,其衣冠人物集為君子營.
乃引張賓為謀主,始署軍功曹,以刁膺、張敬為股肱,夔安、孔萇為爪牙,
支雄、呼延莫、王陽、桃豹、逯明、呉豫等為將率.使其將張斯率騎詣并州山北諸郡縣,說諸胡羯,曉以安危.
諸胡懼勒威名,多有附者.進軍常山,分遣諸將攻中山、博陵、高陽諸縣,降之者數萬人.

241 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/11(土) 09:28:53 ID:hw1xb7ki0
 劉淵が皇帝を自称するに及んで、石勒に使者をだし、持節を授け、平東大將軍、校尉、都督にし、王号はもとのとおりとさせた。
石勒の軍は鄴を攻め、壊滅させて、和郁は衛国まで逃げた。魏郡太守・王粹を三台において捕らえた。
趙郡に侵攻し、冀州西部都尉・馮沖を殺した。乞活を赦亭に攻め、田禋を中丘において、皆殺しにした。
劉淵は石勒に安東大將軍、開府,置左右長史、司馬、從事中郎を授けた。進軍して鉅鹿、常山を攻め、二郡の守將を殺した。
冀州の郡県堡壁を百以上陥れ、衆は十数万に至り、衣冠をつけた人物(士大夫)を集め、君子営とした。
張賓を登用して、謀主にし、始めは軍の功曹に任じた。
刁膺、張敬を股肱とし、夔安、孔萇を爪牙とし、支雄、呼延莫、王陽、桃豹、逯明、呉予らを将にし、率いた。
武将の張斯に騎兵を率いさせて、并州の山北諸郡県を訪れさせて、羯族の胡人たちを説得させ、安危をさとさせた。
胡人たちは石勒の威名を怖れ、多くの者がついた。
常山に進軍し、諸将を分けて遣わし、中山、博陵、高陽の諸々の県を攻めさせ、数万人を降伏させた。

242 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/11(土) 09:45:47 ID:hw1xb7ki0
特に難しいところはなし。今回の記述は結構、重要。

まず、汲桑の時におとした鄴を再び落とす。
さらに汲桑を直接、殺した乞活を皆殺しにして、報復の二段階を果たす。
(残る報復リストは王衍、司馬越、苟晞か。丁紹はこの前後に死亡)
丁紹不在の冀州は石やんに切り取られ放題。

さらにこの頃、張賓が加わる。(まだ、君子営の末席だろうけど)
ここで、いつの間にか刁膺、張敬という二軍師と
(この二人って出自はなんであろう。特に張敬は武将なのか士大夫なのかも謎)
名将・孔萇が加わっている。
以前、石勒陣営を聞きたがっていた人はこの節を見るといい。初期はこのメンバーが中核。

次回、快進撃を続ける石やんに新たなる宿敵が現れる(バレバレ)

243 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/11(土) 09:48:55 ID:hw1xb7ki0
今回、おまけで整理のために
三国の州に合わせて、この時点での勢力者一覧を作成
(晋はもっと州が分かれるけどこっちの方がわかりやすい)
間違っていたらご指摘下さい

幽州:王浚
并州:劉淵・劉聰、劉琨
冀州:丁紹(死)→混乱状況、石勒
青州:王弥・曹嶷、苟晞
徐州:司馬越
兗州:苟晞
予州:司馬越
司州:司馬熾、司馬越・王衍
雍州:司馬模
涼州:張軌
揚州:司馬睿・王導
荊州:劉弘
益州:李雄、羅尚


244 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/11(土) 10:07:37 ID:2yKHpLlL0
>>239
東晋攻略や段遼征伐の時期までは、支雄や桃豹、キ安たちが生き残っていたおかげで
軍事行動ではまずまずの成果を収めていたんだがねえ
ちょうど、彼ら開国の元勲?たち(こいつら元勲ってタマじゃないんだが)が340年前後に
櫛の歯が抜けるように、フェードアウトしていくのと同時に石虎の軍事行動にも翳りが見え
始め、ご存知のように当代最強の慕容恪、ディフェンスには定評のある謝艾らに立て続けに
敗戦を重ねてしまった

名選手が必ずしも名監督になるとは限らない好例だな
逆に、明らかに石勒に関しては、「どう考えても統治者なんぞになれるわけないだろう」
と周囲に思われていたにもかかわらず(王浚への手紙等)、かなりレベルの高い
統治者になってしまうんだから、世の中先が読めない

245 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/11(土) 19:34:14 ID:/mQB63180
>>243
いやあ、荊州と涼州くらいだな、政治がまともなのは
こっから荊州は王敦(軍事面では、劉弘の子飼の陶侃)へと受け継がれていくわけね
個人的には羅尚は趙括と並ぶ不肖の倅だと思うんだが、いかがだろう

王彌伝(今回は時系列がかなり曖昧)

 永嘉の初め、王彌は上党郡に寇略し、壺関を包囲した。東海王越は、王彌を討ち取るべく
淮南?史王曠、安豊太守衛乾らに命じて派兵させたものの、王彌は高都〜長平間で戦端を
開くや、大いに討伐軍を破り、討伐軍の六割から七割を死に至らしめた。(永嘉三年/309年 夏)
 ※ 劉聡、石勒らによる王曠、施融、曹超ら官軍との長平での戦役のことと思われる。

 劉曜、石勒たちと魏郡、汲郡、頓丘を攻めて城砦(塁壁)五十余りを陥落させると、城民を
ことごとく徴発し、軍士として自らの部隊に取り込んだ。(永嘉二年/308年 冬)
 また、石勒と共同で業を攻略した際には、安北将軍和郁を潰走させている。(同年 9月)
 懐帝は北中郎将の裴憲を王彌討伐のため白馬へ、車騎将軍王堪を石勒征討のため
東燕へ、平北将軍曹武を劉淵攻略のため大陽へと、それぞれ宿営させた。武部将軍彭黙ら
が劉聡に敗れ殺害されてしまうと、彼ら討伐軍は我先に撤退し始めた。

 劉聡軍が黄河を渡ると、懐帝は司隸校尉の劉暾、将軍宋抽らにこれを迎え撃たせたが、
誰一人として防ぐことはおろか足止めすらできなかった。王彌、劉聡は万騎をもって京城に
至ると、二学(国子監、太学)を焼き討ちした。東海王越は西明門に漢軍を迎撃して、
王彌たちを敗走させた。(端折りすぎで時系列が分からん、永嘉三年/309年 十月か?)
 ※ 同じ頃、石勒は飛龍山で王浚の派遣した祁弘・段務勿塵連合軍に大敗を喫している。

 王彌は態勢を立て直すと、二千騎あまりを率いて襄城郡の諸県城に来寇、河東、平陽、
弘農、上党各郡からの亡命難民たちで潁川、襄城、汝南、南陽の河南諸郡にいた数万家
を略奪し陵辱しつくした。歴史ある河南の諸郡も秩序を失い、無法地帯と化してしまうと、その
多くの城邑が焼き討ちに遭い、王彌に降伏する者たちは、二千石以上の長吏の殺害をもって
これに応じたのであった。また、王彌は二万人の兵力をもって石勒と合流すると陳郡、潁川郡に
侵寇し、次いで陽曜に駐屯した。弟の璋を石勒に同行させて共同で徐州・エン州の攻略に与る
と、司馬越の残軍は持ちこたえられず瓦解した。(〜311年 4月 司馬越の葬列襲撃まで)

 ※ 永嘉年間天下大乱。官軍も奴隷狩りしたり、内部抗争に明け暮れるド腐れ外道
  ばかりならば、匈奴軍も負けず劣らず鬼畜の軍団。舎弟の曹巍はこの頃、青州に居残って
  苟晞、苟純兄弟と激しい攻防を繰り返してたりするんだが、王彌伝、時系列が無茶苦茶
  すぎる。>>241の和郁壊走と若干リンクしているんだが、前後の記述が繋がらん。
   まあ、確実なのは、王彌が関東をことごとく蹂躙しつくしたってことか。

246 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/12(日) 01:21:12 ID:V8wm8tr20
蜀では羅尚の評価はかなり良くなかったみたいですね。
文献をそのまま信じれば

刺史羅尚  羌を征討して破る  は後秦のこと? とか
李特を殺してるし将軍としてはそれなりの能力があるんじゃない?

人間性や統治能力(する気がない?)はアレとして。

247 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/12(日) 19:36:29 ID:NAmhUyvx0
>>245

ごめん。劉弘は、光熙元年(三〇六)に死去しているから、
このころの荊州刺吏は山簡だと思う。
荊州もまともな政治が行われてなかったということだな。
まさに世紀末。(本当は、世紀初めだけども)
山簡は清談で知られた司馬越好みの人物。
(司馬越って、謀略は優れているのに、政治は全然だめという司馬懿から脈々と
 流れる司馬一族の血を完全に引き継いでいるな。彼の後世の評判悪さはここにも
 起因していると思う。司馬乂の死が西晋にとどめを刺したという意見に同意)

ということで勢力表は

幽州:王浚
并州:劉淵・劉聰、劉琨
冀州:丁紹(死)→混乱状況、石勒
青州:王弥・曹嶷、苟晞
徐州:司馬越
兗州:苟晞
予州:司馬越
司州:司馬熾、司馬越・王衍
雍州:司馬模
涼州:張軌
揚州:司馬睿・王導
荊州:司馬越
益州:李雄、羅尚

ってことで。

しかし、李雄なんて三国志にでてきていれば、孫策・孫権を上回る人気があるだろうに。
ほとんど無名で話題にのぼることもないなんて……。
やっぱりかなり理不尽だな

248 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/12(日) 21:37:04 ID:aBMf7BXi0
>>247
あれ、荊州で劉弘の麾下と言えばもちろん陶侃だけど、
この時期(劉弘死後数年)の陶侃って何してたんだろ?

249 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/13(月) 18:47:19 ID:8Y28a1Ky0
213さん、初めまして。
お盆休みのところ、失礼致します。

石勒伝を拝見させていただきましたが、たいへん参考になりました。

>言其遇己也。
>彼に対して自分に対するのと同じ言葉遣いを(部下に)させた

間違いかもしれませんが、直訳すると、

彼は自分を〔よく〕待遇してくれた〔からである〕、と言った。

ではないでしょうか。

「言」や「遇」は他にも意味があるので、別の訳も考えられると思います。

250 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/13(月) 21:51:24 ID:Rdjfhonb0
>宜早為之計
>その計画が実行されるのももうすぐだろう。

間違いがあるもしれませんが、
「之」は、ここでは多分、二人称の代名詞だと思います。
あくまで直訳ですが、

あなた方自身のために〔劉淵に帰順するのか、しないのか〕早く考えて決めるべきです。

といった意味でしょうか。

251 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/14(火) 11:16:19 ID:M6KB4cecO
>>248
303年 劉弘の麾下として張昌の乱を平定。東郷侯となる。
305年 江夏太守として陳恢を撃破。
307年 江夏太守として陳敏の乱を平定の後、母親の死により辞職。
喪が明け東海王・司馬越の麾下に入り、次いで江州刺史・また華軼により
揚武将軍となり夏口に駐屯。
司馬睿に奮威将軍の地位を与えられ、続いて龍驤将軍、武昌太守となる。

(年代不明だが喪の期間を考えると恐らく310年辺りか?)
劉弘の死後、数年の陶侃の様子はこんな感じですね。

252 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/16(木) 13:22:03 ID:/dSMq4F+0
私は通俗続三国志と通俗続後三国志読んだんですけど、これって中国の続三国演義の訳かな?
なんか魏の武将の子孫(架空の人物)の扱いが酷い、とくに張遼の孫たち、あと呉奇だか朱伺だか一度死んだ武将が生き返ってる。

253 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/16(木) 22:18:41 ID:mYTworON0
>>252
よくよく考えたら、中英板て三国演義関連のスレがないんだな
このスレには詳しい人いるみたいだけど(>>176)、若干スレ違い気味のような……

劉弘と言えば、賈后に毒を呷らせたのも彼でいいのかな?
何か、八王の乱の要所要所で登場してくる印象が強い(たいてい、調停役で奔走している)
荊州に赴任したら赴任したで、地方官がいない郡県がいっぱいあったんで、彼自ら選定して
任命した逸話とか、苦労人過ぎるよなあ
後の江陵軍閥の礎を築いたのは、武人たちの軍事力ではなく、間違いなく劉弘の行政と人徳だわ

254 :213:2007/08/17(金) 08:57:12 ID:TkxtcYEY0
盆休みなのでちょっと早く書き込み。
(今度からこの番号をとる)

>>249-250
ご指摘ありがとうございます。
あなたの言われることが全面的に正しいと思います(^o^)
自分は前に言ったけど、漢文の文法や史学のちゃんとした勉強を受けていないただの
素人です。これからもご指導・ご意見をお願いしますm(_ _)m

「言其遇己也」は、事例では、遇の後には厚、薄が普通はいるので深読みしました。
言が『言葉遣い』は無理があると思っていたのだけど

「宜早為之計」は之が二人称であることが漢和辞典に載っていなかったので
深読みしました。よろしく……べし。は分かっていたのだけどなあ

本日、やりかえます。

>>245
羅尚って、陸抗から蜀を守ったあの羅憲の兄の子だったのか。
調べて初めてしった。
(『解體晉書』のサイトに伝がある。陶侃もあるので248さんは知らなかった読むといい)

確かに羅尚伝では救いようのない男に見えるけど、
レールから外れた蜀出身者であそこまで出世したのはそれなりに実力があったのでない
李特伝を読むと、辛冉とかよりは評価されているし、
246さんの言うとおり李特を殺しているので、軍事に関しては叔父譲りの実力だったかも知れない

>>252
自分が176で紹介した奴ね。魏の武将の子孫はピンでは強いのに、いつもリンチにあってやられて
可哀想。張遼の子孫は殺されているけど、生け捕りにされた方がもっと悲惨なような……
(再登場はないから処刑されている)
漢の方が関羽の子孫、黄忠の子孫がオリキャラで追加されているのでこちらも追加したみたいだね

あれは『続三国演義』の訳だったんだ。
(なぜか、通俗二十一史では元ネタが記述されていない)

晋漢大決戦の時に死んだ武将で生き返っているのが何人かいるけど、それぐらいはいいんじゃない?
朱伺とか皮初とかでてくるのはこの小説ぐらいだもん。
自分は『反三国志』よりはるかに面白いと思っている。(文章もかなり名文だと思う)
自分はこれで王浚、苟晞、祁弘、王弥、劉霊、張方、李矩らを知った。

>>253
別にスレ違いじゃないんじゃない。ここは中華英雄板だから。
石勒全般について語るということで。
(三国志キャラは演義とは切り離せないだろう)

どうせ石勒がでてくる小説は
『通俗続三国志』『通俗続後三国志』
と『両晋演義』しかないのだから
(『後三国志』では母に取られているし)


255 :213:2007/08/17(金) 09:03:55 ID:TkxtcYEY0
で、とりあえず自分が>>213
でやった翻訳の訂正。

 時に、胡族の酋長、張背(つつみがまえ付き)督、馮莫突は衆数千を擁して、上党に籠もっていたので、
石勒はそこに赴き、昵懇の仲となり、張背督に言った。
「劉単于(劉淵)は挙兵して、晋を滅ぼそうしているのに、酋長は従属することを拒んでいる。独立できると思っているのか?」。
(張背督が)答えるには「できないだろう」。
石勒は言った。「そのようにできない者が、兵馬を所有している。
今、部族のものは全員、単于の召募にかかっており、幾たびも酋長に逆らって、単于のところに行きたいと望んで議論している。
あなた自身のためにすぐに考えて決断するべきだろう」。
張背督たちは元々、知略が無く、部族のものの二心を怖れ、ひそかに石勒に従い、単騎で劉淵のもとに帰順した。
劉淵は張背督を親漢王に任じ、馮莫突を都督部大にした。石勒を輔漢將軍、平晉王として、二人を統率させた。
石勒は張背督を兄とし、石姓を与え、名を会とさせ、彼が自分を(よく)待遇してくれたからだ、と言った。

256 :213:2007/08/17(金) 09:11:08 ID:TkxtcYEY0
それでは前回からの続き

王浚使其將祁弘帥鮮卑段務塵等十餘萬騎討勒,大敗勒于飛龍山,死者萬餘.
勒退屯黎陽,分命諸將攻諸未下及叛者,降三十餘壁,置守宰以撫之.進寇信都,害冀州刺史王斌.
於是車騎將軍王堪、北中郎將裴憲自洛陽率眾討勒,勒燒營并糧,迴軍距之,次于黃牛壘.
魏郡太守劉矩以郡附于勒,勒使矩統其壘眾為中軍左翼.勒至黎陽,裴憲棄其軍奔于淮南,王堪退堡倉垣.
元海授勒鎮東大將軍,封汲郡公,持節、都督、王如故.勒固讓公不受.
與閻羆攻※圈、苑市二壘,陷之,羆中流矢死,勒并統其眾.潛自石橋濟河,攻陷白馬,坑男女三千餘口.
東襲鄄城,害兗州刺史袁孚.因攻倉垣,陷之,遂害堪.渡河攻廣宗、清河、平原、陽平諸縣,降勒者九萬餘口.
復南濟河,滎陽太守裴純奔于建業.

※ 者(にちへん付き)

257 :213:2007/08/17(金) 09:15:56 ID:TkxtcYEY0
一つ失敗。
次于黃牛壘→次于黄牛壘


 王浚は武将の祁弘に鮮卑の段務塵ら十数万騎の大将にし、石勒を討たせ、石勒は飛龍山において大敗し、戦死者は一万人以上にのぼった。
石勒は黎陽にまで退いて駐屯し、諸将を分け、命じて、まだ降伏させていないところや反乱を起こした者を攻めさせ、
三十以上の壁を降伏させ、守宰を置き、慰撫した。
信都を攻め、冀州刺史・王斌を殺した。この時、車騎將軍・王堪、北中郎將・裴憲は洛陽から兵を率いて、石勒を討ち、
石勒は陣営と兵糧を焼き、軍を引き返して防ぎ、黄牛壘に宿営した。
魏郡太守・劉矩は郡ごと石勒に降伏し、石勒は劉矩にその壘と衆を統率させて、中軍左翼にした。
石勒が黎陽につくと、裴憲は軍隊を捨てて、淮南に逃げていき、王堪は退いて倉垣を守った。
劉淵は石勒に鎮東大將軍を授け、汲郡公,持節、都督に封じ、王号はもとのままとした。石勒は固く辞退し、受けなかった。
閻羆と者(にちへん付き)圈、苑市の二壘を攻め、陥れたが、閻羆は流れ矢にあたり戦死し、石勒はその衆を統合した。
石橋から密かに黄河を渡り、白馬を攻め落とし、男女三千人以上を穴埋めにした。
東に行き、鄄城を陥れ、兗州刺史・袁孚を殺した。
それから倉垣を攻め、陥れ、王堪を殺した。黄河を渡り、広宗、清河、平原、陽平の諸県を攻め、九万人以上を降伏させた。
また、南へと黄河を渡り、滎陽太守・裴純を建業へと逃亡させた。

258 :213:2007/08/17(金) 09:25:53 ID:TkxtcYEY0
ついに、第二の宿敵・王浚登場。
祁弘と段氏という統率された騎兵軍団に寄せ集めの石やん軍は蹴散らされる。
黄河の北岸まで逃亡。(幽州の騎兵のすさまじさが分かる)
だが、ここから復活! 王斌・袁孚を殺し、刺吏キラーぶりを発揮。
中央からの討伐軍も壊滅させ、(ここの裴憲は王浚配下の?)黄河を南へ渡る

>男女三千人以上を穴埋めにした
やっぱり石やんはこれですな


259 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/18(土) 11:32:11 ID:/EyXeWB70
213さん、石勒伝訳出お疲れ様です。
先日の書き込みをご覧くださり、ありがとうございました。

「宜早為之計」の「之」についてですが、
「張背督」らを指す人称代名詞ではなく、
「今部落皆已被單于賞募,往往聚議欲叛部大而歸單于矣」
という一文(状況)を指す指示代名詞としたほうが自然で、適切かもしれませんね。

このためにすぐに考えて決断するべきだろう

でしょうか。

>「賞募」
>召募
とされていますが、懸賞をかけて人を集める、懸賞募集
という意味だと思います。

>往往聚議欲叛部大而歸單于矣
>幾たびも酋長に逆らって、単于のところに行きたいと望んで議論している。

213さんの訳でも特に問題はないと思いますが、「往往」が本来修飾すべき「聚議」から離れすぎて、
「叛」にかかっているように誤解されてしまうのではないか、と感じました。
直訳ですが、

はやく酋長に反乱して、単于に従おうと時々集まって議論している。


260 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/18(土) 18:55:23 ID:qb03rNd80
ひさびさに王彌伝、どっからだったか忘れかけてる(確か311年

 王彌は(河南諸州を荒らし回った)後、今度は劉曜と合流して襄城を寇掠し、
京師に再び逼迫した。折りしも洛陽は大飢饉に見舞われ、衆人相食む様相を呈し、
役人のことごとくが流亡する有様であった。公卿の中には、(漢に寝返り)黄河の南岸へ
出奔する者が続出した。

 やがて王彌、劉曜らは宮城を陥落させた。太極前殿まで至ると、兵卒達を城中に放し、
欲しい儘に略奪を行なわせた。懐帝は(捕らえられると)端門に幽閉され、恵帝の皇后
羊献容は(劉曜から)陵辱を逼られ、皇太子であった司馬詮らは容赦なく殺害された。
 晋朝歴代の陵墓は余すところ無く盗掘に遭い、宮城祖廟は焼き払われ、官府も残さず
使い物にならないくらいまでに略奪されつくした。
 洛陽陥落時の犠牲者数は、官民の男女合わせて三万人余りにのぼり、このような惨状の中で
懐帝は平陽へと連行された。

 王彌軍の略奪は目に余るものがあり、総司令官であった劉曜はこれを禁止させようとしたが、
王彌は従わなかった。
 劉曜は見せしめのため王彌の牙門であった王延を斬首に処したが、これが王彌を激怒させた。
ついにお互い兵を繰り出し、漢軍内部での武力衝突にまで発展してしまう。この衝突の死者は
千人余りにのぼった。

 この時、王彌の長史であった張嵩が諌めた。
張「明公(との)が漢朝勃興の大事業に参画するようになったと言っても、ようやくその端緒に
  就いたばかりではございませんか。共同戦線を張ろうとしている矢先、いきなり仲間割れ
  をしているようでは、どの面下げて主上に見えようと言うのですか?」
 「洛陽平定の功績が将軍にあるのは明らかです、然れども、傍流とは言え劉曜は皇族です。
  これに謙り、阿るほかございません。晋の二王の孫呉平定の戦役を鑑みますに
  (※王渾と王濬の確執)、高位で親近なる劉曜を立てるは、的外れではありますまい。
  願わくは、明哲なる将軍がご深慮されるばかりでございます。」
 「将軍が勝って気まま士卒を失い、無事に帰還させられなかったと聞いたら、兵の子弟や
  家族はどのように思われるか!」

 ※ ちょっと小休止。
   王彌軍にはどうも、漢軍とはあくまで同盟関係であって、従属しているわけではないという
  意識が強いようだ(だから平気で劉曜とも衝突する)。これを手懐けるには容易でないん
  だろうが、肝心要の旧友である劉淵自身は永嘉四年(310年)に亡くなっているわけだから、
  せがれである劉聡らにとって、これ程扱いづらい居候もおるまい。

261 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/18(土) 21:39:41 ID:qb03rNd80
王彌伝(中途半端なところで切ってしまったな)

彌「その通りだ、道理に適っておる。
  まさか、微子(殷の紂王の庶兄)に勝るとも劣らない諌士がいるとはな。」
(※ 原文「善、微子、吾不聞此過也。」 訳に自信が無いんで、添削お願いします。)

 こうして王彌は劉曜の陣に謝罪のため出頭すると、当初の如く親子の契りを交わし直した
のであった。(「結分」を親子の盃と解釈させてもらったが、そうだとしたら相当謙ったものである。)

彌「下官(官吏の謙称、王彌卑屈すぎ)が、己が過ちに気づかされましたのは、これすなわち
  張長史のはたらきに他なりません。」
 劉曜は張嵩に言葉をかけた。
曜「全く、大した朱建であることよ。(楚の英布に諫言した朱建のことか?)
  どうして範生(范増のことか?)に譬えることができようか?」
(※ 原文「君為朱建矣、豈況範生乎!」 これまた非常に訳が怪しい)
そして、それぞれで張嵩に金百斤を賜ったのであった。

 王彌は劉曜に進言した。
彌「洛陽は天下の中心に位置し、四方を山河に囲まれて、堅固な地勢を擁しております。
  都城や庭園、宮室を一から造成しなくても、今残っているものを利用すれば十分に賄う
  ことができましょうぞ。平陽から洛陽へ根拠地を移すべきです。」
しかし、劉曜は王彌の献策には従わず、洛陽を焼き払って立ち去ってしまった。王彌は憤激して
罵った。
彌「屠各のジャリめ!己が帝王にでもなったつもりか!?
  貴様ごときが天下を如何こうしようと言うのか!」
遂には、自分の軍を接収して東進し、項関へと駐屯してしまった。

 ※ 多分、古典を持ち出して互いにウィットに富んだ会話のやりとりをしたんだと思うんだが
  俺の脳みそでは着いていくことができなかった……。でも、自分で洛陽を破壊しつくしておいて
  洛陽への奠都を提案する王彌って、……何か耄碌してきた観があるなあ。

262 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/19(日) 09:26:42 ID:F5Aab08W0
王彌伝

 以前、劉曜は王彌をもって洛陽先遣の任に当たらせていたが、王彌が自分を待たずに勝手に
入城したことを怨んでいた。ここに至ってついに、両者の嫌隙は決定的なものとなった。
 (晋の司隸校尉で降将の)劉暾は王彌に、青州に還り割拠するように主張した。
 王彌はそれに同意すると、すぐに左長史の曹嶷を鎮東将軍に任命し、兵五千を与えるとともに、
多額の宝物を贈与した上で郷里の青州に派遣させ、それで戸籍を失った流民達を招誘し、
その一党に迎え入れようと企んだ。
 王彌の将であった徐貌、高梁は間もなくその部曲数千人を率いて、曹嶷に従って王彌の陣営
から離れていったが、これにより王彌の勢威はますます衰弱してしまった。

 ※ 王彌伝に拠れば、徐・高の二将が離脱したのは、青州割拠の地ならしのため、曹嶷に
  配属したことが理由と分かる。

263 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/19(日) 21:26:10 ID:N30w9VVh0
王彌伝 ラスト

 以前から石勒は王彌の驍勇を忌々しく思っていたが、衝突を避けるために平素は親密に
振舞うようにしていた。
 洛陽を陥落させた時期、王彌は数多の美女寶貨を石勒に贈答することで、彼と義兄弟の
契りを結ぶことにした。
 時に、石勒は苟晞を降伏させると、彼を左司馬に登用した。王彌は石勒に申し出た。
彌「公が、苟晞を獲たばかりかこれを登用するとは、余人には思いもよらぬことでしょう。
  苟晞を公の左司馬として用いられるのであれば、私を右司馬として用いられるべきです。
  そうすれば、天下を定めることなど何の造作も無いことでしょう。」
 石勒は(この話を聞くと、たいへん胡散臭く思ったのか)、ますます王彌を憎むようになり、
裏で王彌暗殺の陰謀を張り巡らし始めた。

 劉暾は、ふたたび王彌に献策し、曹嶷を支配下に再度収めて、その兵力を併せて石勒を
誅戮するように勧めた。
 こうして王彌は劉暾を青州へと、曹嶷に兵を引き連れて己が勢力に合流するように、
その上で騙し討ちで石勒を要撃して、しかる後に青州に共に下向するように説き伏せるべく
派遣させた。
 ところが、暾は東阿に差し掛かったあたりで石勒の遊騎に捕獲されてしまった。
 石勒は王彌と曹嶷による謀議の密書を発見すると、大いに怒り、そのまま劉暾を殺害する。
 王彌は己の策が漏洩したことを知らずにいたため、逆に石勒の伏撃に襲われて殺害されてしまう。石勒は王彌の勢力を併呑した。

 ※ 梟雄王彌の末路、作戦的には、曹嶷と合流して石勒を邀撃するというよりは
  挟撃した方が理に適っているように思うんだが、やはり意思疎通が難しいから、無理にでも
  己の配属に置きたかったんだろうか?
   後半は、ひたすら裏目に出まくりな飛豹(豆知識:この通称の戦闘機が解放軍には装備
  されています)王彌だが、青・豫、司州を席巻した勢力は、やはり一方の英雄であったと
  思わされる。それだけに戦闘力の分散をやっちまったのは解せない。老いにしろ焦りにしろ
  じっくり、石勒を料理していくことは不可能ではなかったんだから、非常に勿体無い。

   関係ない話だが、王彌の祖父こそ卑弥呼に援軍を送った玄菟太守の王【斤頁】だったり
  するわけで、何だか非常にインターナショナルな時代だと改めて実感させられました。

264 :213:2007/08/19(日) 22:49:54 ID:fEUEBE550
>>259
ご指摘ありがとうございます。
次回の翻訳の時までに直しておきますのでお願いします。
やっぱり難しいなあ

>>263
王彌伝、お疲れ。これも非常に読みたかったのでとても楽しめた。
なぜか曹嶷伝はないんだよね。残念。
王彌も一代の梟雄だろう。タイプ的には樊崇かな?
戦争は強いが、戦略や内政が全くだめということで。
(樊崇よりは教養はあっても、人望は劣るだろうけど)

石勒が王彌の手紙を見て憎んだ理由は、石勒翻訳の続きにあるから待っていてくれ。
王彌が曹嶷を呼んだのは、当時、晋将・劉瑞に敗れるほど勢力が衰えていたからだろうね
しかし、劉暾はすごい間抜けだ。これが西晋クオリティーって奴か。

もしよろしければ、次は劉琨伝をリクエストします
(別に無視してもいいけど)

265 :213:2007/08/19(日) 23:05:40 ID:fEUEBE550
あと、>>261
古典を持ち出したウィットに富んだ劉曜と王彌の会話。
石やんがいたら、
(はぁ? なに言っているんだ。こいつら。酒臭えんだよ! このエセインテリどもが!)
ってことに、なっていただろうな。

ドキュンの巣窟と思っていた漢軍でも孤立感を味わう石やん。負けるな(^o^) 

266 :213:2007/08/25(土) 18:30:40 ID:0nWhF8OI0
また、翻訳の続き。

まず、>>259への返答

※「宜早為之計」の「之」は省略した方が無難と判断
※「今部落皆」の「皆」は「部落のものは全員」より「全部落」に変更
 (さすがに一人一人にかけているわけではないと思う)
※ 残りは259氏の意見に従う

それでは>>255の再改編

 時に、胡族の酋長、張背(つつみがまえ付き)督、馮莫突は衆数千を擁して、上党に籠もっていたので、
石勒はそこに赴き、昵懇の仲となり、張背督に言った。
「劉単于(劉淵)は挙兵して、晋を滅ぼそうしているのに、酋長は従属することを拒んでいる。独立できると思っているのか?」。
(張背督が)答えるには「できないだろう」。石勒は言った。
「そのようにできない者が、兵馬を所有している。今、全部族が単于の懸賞募集にかかっており、
酋長に反乱して、単于に従いたいと何度も議論している。すぐに考えて決断するべきだろう」。
張背督たちは元々、知略が無く、部族のものの二心を怖れ、ひそかに石勒に従い、単騎で劉淵のもとに帰順した。
劉淵は張背督を親漢王に任じ、馮莫突を都督部大にした。石勒を輔漢將軍、平晉王として、二人を統率させた。
石勒は張背督を兄とし、石姓を与え、名を会とさせ、彼が自分を(よく)待遇してくれたからだ、と言った。

267 :213:2007/08/25(土) 18:33:15 ID:0nWhF8OI0
さらに>>256-257の続き
今回は二段。

時劉聰攻河内,勒率騎會之,攻冠軍將軍梁巨于武コ,懷帝遣兵救之.勒留諸將守武コ,與王桑逆巨於長陵.
巨請降,勒弗許,巨踰城而遁,軍人執之.勒馳如武コ,坑降卒萬餘,數梁巨罪而害之.
王師退還,河北諸堡壁大震,皆請降送任于勒.
 及元海死,劉聰授勒征東大將軍、并州刺史、汲郡公,持節、開府、都督、校尉、王如故.勒固辭將軍,乃止.

268 :213:2007/08/25(土) 18:36:58 ID:0nWhF8OI0
 その時、劉聡が河内を攻めており、石勒は騎兵を率いて合流し、冠軍將軍・梁巨を武コにおいて攻め、
懐帝は兵を遣わし(梁巨を)救援させた。石勒は諸将を武コに留め、王桑とともに梁巨を長陵において迎え撃った。
梁巨は降伏を求めたが、石勒は許さず、梁巨は城を越えて逃げようとしたが、軍の人に捕らえられた。
石勒は武コにまで馳せ、降伏した兵士、一万人以上を穴埋めにし、梁巨の罪を数え上げ殺した。
晋軍は退き帰り、河北のもろもろの堡壁は大いに動揺し、皆、石勒に降伏を求め、人質を送ってきた。
 劉淵が死ぬに至って、劉聡は石勒を征東大將軍、并州刺史、汲郡公,持節、開府、都督、校尉に任じ、王号を元のままにした。
石勒は(征東大)将軍を固辞し、取りやめとなった。

269 :213:2007/08/25(土) 18:44:02 ID:0nWhF8OI0
残酷行為が続く石やん。
なぜ、梁巨の降伏を認めなかったか。数え上げるほどの罪とは何か。謎のままだ。
(梁巨はここしかでてこない)
そして、ついに劉淵が死亡。将軍号を固持したところに、劉淵以外を主君とあおぐ気がないのがかいまみえる。

次回は強敵たちとの戦いが石やんを待っています。

270 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/26(日) 15:46:26 ID:ORT4sq+F0
まとめページとかってないのかな?

271 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/26(日) 21:17:29 ID:cgZquLY80
スレの流れとは別な話題で

インドの仏教興隆では、アショーカ王による庇護によって上座部仏教が地位を高めたことが
教科書にはよく載ってるし、日本でも崇仏論争以来聖徳太子やら聖武天皇やら桓武天皇やら
仏教の庇護者は枚挙にいとまがない
でも、中国仏教だとなぜか本格的に庇護した後趙政権がすっ飛ばされて、
後秦やら北魏やら梁にやら話題が飛んでしまうのは何故なんだろう
物自体が残っていないからかなあ?

272 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/26(日) 22:48:07 ID:fU+YpTRXO
>>271
石勒・石虎は仏教を保護、民間に信仰を浸透させたのって、
分かりにくい業績だからじゃないかな?
鳩摩羅什が後秦の姚興によって長安に迎えられたり、姚興の話とか。
北魏は廃仏で有名な太武帝がいたり、
梁には仏教狂いの武帝がいたりするしそっちの方が具体的に目に止まりやすいのでは?
まあ寺院とかをやたら建ててたりするのも理由だとは思うけど。

273 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/27(月) 16:16:05 ID:hfevsqkd0
劉琨
うまくいったかな?

次は晋書巻六十二、列伝第三十二をメインで

274 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/27(月) 17:56:32 ID:hfevsqkd0
 劉琨(271年〜318年)、字は越石、中山魏昌を本籍とし、漢中山靖王劉勝の後裔であった。
 祖父の邁は行政経営の才能に恵まれ、相国参軍、散騎常侍を歴任した。
 父の蕃は気品があり慎ましい性格の人物で、官位は光禄大夫までのぼっている。
 劉琨は若いころから俊朗との評判を得ており、范陽の祖納とともに雄豪なる人物でもって
その名を知られていた。

 二十六歳で司隸従事に採用される。
 当時、征虜将軍であった石崇(豪奢で有名)は河南金穀澗の渓谷の中に別荘を構えていたが、
評判の優れている人物たちは賓客としてよく招かれ、日がな一日賦詩に興じて過ごすことが
しばしばあった。
 劉琨もそのサロンに属しており、特に詩文を詠じることおびただしく、その文才は広く世間に
認められるところであった。

 秘書監の賈謐が朝政に預かるようになると、京師の人士でこれに傾心しない者は誰一人として
いなかった。
 石崇、欧陽建、陸機、陸雲といった連中が、軒並み文才を以って卑屈なまでに賈謐に屈従
していたが、劉輿、琨の兄弟もまたその中の一員であった。世に言う「二十四友」である。
 太尉の高密王泰が琨を招聘してその掾と為すや、時を置かずして著作郎、太学博士、
尚書郎へと累進を重ね(、その文才を遺憾なく発揮し)た。

 ※ 漢文苦手な俺にとっては、文人の訳出はかなりしんどい作業だなあ。
  それにしても、この人は文芸畑でおとなしくメシ食っていられたら、それだけ大成出来たんだか。
  はっきり言って、戦乱の世に生まれたがゆえに、家族、部下、その衆民をことごとく不幸に
  巻き込んでしまった、はた迷惑な人物なんだよな。なぜ、愛国者に生まれてしまったんだか。
  
  「この時代に曹操が生まれていたら」のひとつの回答かもしれない。(戦争はそんなに強くないけど)

275 :213:2007/09/01(土) 18:01:21 ID:QQA6e4aV0
>>274
おおっ。劉琨伝が始まった。リクエストに応えてくれてありがとう(^^)/

劉琨って、中山靖王劉勝の子孫だったんだね。
劉備と先祖を同じくする漢王朝の子孫の劉琨が晋に仕え、漢の宿敵・匈奴の劉淵
が漢を名乗り、戦うところが面白い。

>漢文苦手な俺にとっては、文人の訳出はかなりしんどい作業だなあ。

これはよく分かる。自分も劉琨の石勒に送った手紙に苦戦している。
ほんとよく分からん(>_<)

劉琨を曹操といったら、信者が騒ぎそうだな。
でも、劉琨は張賓に「大敵」といわれているから結構、有能だったんじゃないかな
「曹植が世にでてきていたら」という感じだと思っている。

276 :213:2007/09/01(土) 18:03:47 ID:QQA6e4aV0
で、今回はここ

劉粲率眾四萬寇洛陽,勒留輜重于重門,率騎二萬會粲於大陽,大敗王師於澠池,遂至洛川.
粲出轘轅,勒出成皋關,圍陳留太守王讚於倉垣,為讚所敗,退屯文石津.
將北攻王浚,會浚將王甲始率遼西鮮卑萬餘騎敗趙固于津北,勒乃燒船棄營,引軍向柏門,
迎重門輜重,至于石門,濟河,攻襄城太守崔曠於繁昌,害之.

277 :213:2007/09/01(土) 18:06:06 ID:QQA6e4aV0
 劉粲は四万の衆を率いて、洛陽を攻め、石勒は重門に輜重をとどめ、騎兵二万を率いて、大陽において、
劉粲と合流し、晋軍を澠池において大いに破り、洛川にまで至った。
劉粲は轘轅から出て、石勒は成皋関から出て、
陳留太守・王讚を倉垣において囲み、王讚に敗北し、退いて、文石津に駐屯した。
それから北上し、王浚を攻め、王浚の武将・王甲始が遼西鮮卑の騎兵一万人以上を率い、
趙固を津北において破ったので、石勒は船を焼き、陣営を捨て、軍を率いて柏門に向かい、
重門の輜重を迎え入れ、石門に至ってから、黄河を渡り、襄城太守・崔昿を繁昌において攻め、殺した。

278 :213:2007/09/01(土) 18:18:50 ID:QQA6e4aV0
正直、位置関係があまりよくわからないが、悪戦苦闘が続く石やん。
宿敵・苟晞の配下、王讚に敗北、もう一人の宿敵・王浚の配下、王甲始に転進に追い込まれる
黄河をはさんでの戦い、北に王浚、東に苟晞。西晋の二枚看板が石やんに迫る。

>>277の五行、『王浚を攻め』→『王浚を攻めようとした時』に訂正。
 『將』にがついているからね)

次回は、南方の群雄と石やんの戦い。

279 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/01(土) 18:39:03 ID:n8ElYltI0
常勝不敗が名将の条件と言うのであれば、石勒は間違いなく名将の範疇からは外れてしまう
まあ、名将というには品位なんて微塵も持ち合わせていないし、騎士道精神みたいな美学も
理解する気なんて端からないくらい、戦闘においては残虐行為に躊躇無く手を染めている

カテゴリー的には、猛将……ではないな、調略、奇策、使える手段であれば、どんな汚い策でも
平気で仕掛けてくるし、盟約破りなんか朝飯前
謀将と言うには余りにも純朴すぎるし、陽気な感じ
何つーか、客観的に評価すれば均衡の取れた良将に落ち着くんだが
やはり奴隷時代、穴埋め、虐殺、強制移住等のせいで、ブラックな印象が憑いて回っちまうな

280 :213:2007/09/08(土) 08:53:03 ID:3Mr+cItM0
レスが少なくて少しさびしいが、地道に活動するか。

>>279
確かに。総合能力では名将でいいんだろうけど、曹操同様、多少むらがある。
>均衡の取れた良将
将としてなら、そうだろうね。ただし、高い統率力がただの良将では終わらせなかったのだろう

光栄ゲームだったら、能力値は光栄版趙雲(初期の頃)ってかんじ。
(武力を90代前半に下げる代わりに、特殊能力をばんばんつけてバランスをとればいいような)

で前の続き。

 先是,雍州流人王如、侯脱、嚴嶷等起兵江淮間,聞勒之來也,懼,遣眾一萬屯襄城以距,勒擊敗之,盡俘其眾.
勒至南陽,屯于宛北山.如懼勒之攻襄也,使送珍寶車馬犒師,結為兄弟,勒納之.如與侯脱不平,説勒攻脱.
勒夜令三軍雞鳴而駕,晨壓宛門,攻之,旬有二日而克.嚴嶷率眾救脱,至則無及,遂降于勒.
勒斬脱,囚嶷送于平陽,盡并其眾,軍勢彌盛.

281 :213:2007/09/08(土) 08:55:34 ID:3Mr+cItM0
 それより先に、雍州の流人・王如、侯脱、厳嶷らが長江と淮河の間で挙兵していて、石勒がやって来たのを知り、
怖れ、衆一万を遣わし、襄城に駐屯させ(石勒を)防がせたが、石勒はこれをうち破り、その衆を全て捕らえた。
石勒は南陽につき、宛北山に駐屯した。
王如は石勒が襄城を攻めたことで怖れ、珍宝や車馬を贈り、(石勒の)軍をごちそうでねぎらい、
結んで兄弟となり、石勒はこれを承諾した。
王如は侯脱と不仲で、石勒を説いて侯脱を攻めさせた。
石勒は夜、命令を下し、三軍に鶏鳴とともに出発させ、朝には宛門に迫り、攻めて十二日で勝った。
厳嶷は衆を率い、侯脱を救援しようとしたが、間に合わず、石勒に降伏した。
石勒は侯脱を斬り、厳嶷をとらえて平陽に送り、その衆を全て組み入れ、軍勢はますます盛んとなった。

282 :213:2007/09/08(土) 09:06:56 ID:3Mr+cItM0
石やん、南陽方面にいた雍州の流人勢力と戦い、圧勝。圧倒的軍才をみせつける。
(これって張繍と同じパターンだよね。
 李特・李雄親子も雍州の流人だったけ。王如は晋書に列伝がある人物)

厳嶷のその後の運命は・・・(T_T)

次回は南方の戦い、その続き。

283 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 21:20:17 ID:7Jt7+Ncd0
劉琨伝

 永興元年(301年)四月、趙王倫がクーデターを成功させ輔政の座に就くと、劉琨を
記室督に採用し、さらに従事中郎へと昇進させた。倫の嫡子夸(くさかんむり)は劉琨の
姉婿であったので、そのため親兄弟含めた劉琨の一族の大半が、趙王一党の預かる
ところとなっていた。

 趙王倫が帝位簒奪に及ぶと、夸は皇太子に冊立され、改めて劉琨は太子・事に任ぜられた。

 永興二年(302年)三月、三王(斉王、成都王、河間王)が趙王倫討伐の兵を挙げる。
 劉琨は冠軍将軍に任じられ仮節を賜ると、孫秀(趙王倫の私党の筆頭)の子
孫會とともに宿衛兵3万を統率して、河北正面の成都王穎軍に立ち向かった。
 黄橋において戦端は開かれたものの、ゲキ【シ臭】水の戦いで劉琨らの軍は大敗し
撤退を余儀なくされる。趙王軍は、河橋を焼き払い守備を堅固にして防勢へと転じた。

 三王起義が成り、今度は斉王冏が輔政の任に就くこととなったが、劉琨の父子兄弟
誰もが当時一級の評判を得ていた人物ばかりだったので、劉氏が趙王の一党に与し、敵対
していたことは特別に赦され、放免されることになった。
 こうして、兄劉輿は中書郎を拝領し、琨は尚書左丞、つづいて司徒左長史へと
任ぜられたのであった。
 永寧二年(302年)十二月、斉王冏が成都王、河間王に攻められ敗亡すると、范陽王
は許昌へと出鎮し、その際琨を自らの司馬として引き抜いた。

 ※ 誰か、八王の乱を分かりやすく説明できる人おらん?
   どう考えても賈后時代の方がマシなんだが。

284 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 22:32:24 ID:7Jt7+Ncd0
劉琨伝、もう一丁

 永安元年(304年)十一月、張方により恵帝が長安へと御幸させられると、東海王越は、帝を
洛陽に取り戻そうと謀り、劉琨の父劉蕃に淮北護軍、豫州刺史の地位を授けた。
 永興二年(305年)十月、河間王閥のひとりであった豫州刺史の劉喬が范陽王を許昌に攻めた。
 劉琨と汝南太守の杜育は兵を率いてこれを救わんとしたが、彼らの救援軍が到着しない
うちに范陽王は敗れてしまい、劉琨は范陽王に付き従って河北へと遁走した。このとき、琨
の父母が劉喬の捕虜として執らわれてしまった。

 ※ 簡単にまとめると、東海王越が河間王派であった劉喬を冀州刺史へと転じ、豫州には自分の
  息のかかった人物を配置しようと企んだことに劉喬が反発し、「劉輿・劉琨兄弟が范陽王
  を唆して専横を振るっているからこれを取り除いちゃうもんね。」と称して、敢然と東海王側に
  喧嘩を売ったのが、河南戦線の始まり。ちなみに兄貴の劉輿は穎川太守として活動している。

 劉琨はすぐさま冀州刺史の温羨の元に赴くとこれを説き伏せ、刺史の地位を范陽王に
譲らせる。范陽王は冀州を領有すると、つづいて劉琨を幽州へと遣使し、王浚に増援を
要請した。
 劉琨は烏丸・鮮卑の突騎800騎ほどを得ると、范陽王とともに黄河を渡り、共同で
兗州刺史であった東平王楙を廩丘に攻めてこれを撃ち破り 、また劉喬の勢力も南方へと
壊走させて、関東の河間王勢力を一掃した。(※ 恐るべきはやはり王浚の援軍!)このときに
なってようやく父母を取り戻すことが出来た。

 劉琨の軍はまた、滎陽において石超を斬り(十二月)、明くる年には張方の誅殺を
受けて、滎陽に籠もっていた呂朗を降している。
 ここに至って関東の東海王派の諸軍は統合し、鮮卑兵率いる祁弘を先鋒として、帝を奪還すべく
長安へ向けて、その征旅を進軍させたのであった。
 (東海王越が恵帝を奉じて洛陽に帰還し、輔政の座に就任すると)、劉琨はその勲功を
以って広武侯に封ぜられ、邑二千戸を賜った。

 ※ 劉琨兄弟、なぜか河間王サイドから目の敵にされとりますが、それだけ目障りな存在
  だと思われていたんだろうか。この時期は基本的に兄貴の劉輿と共に行動している。范陽王を
  よく補佐しているし、幕僚としては十分に有能な類だったことが窺える。
   なお、山東においては劉柏根、王彌らが蠢動を見せ始め、趙魏においては成都王軍の
  遺将公師藩が汲桑らを率いてその軍事活動を開始した時期に当たります。

285 :213:2007/09/15(土) 07:29:06 ID:WdnRTCch0
>>283
劉琨伝の続き、おつかれ。
劉輿・劉琨は奸臣として扱われていることが多い。
確かに、劉輿の評判は悪いが八王の乱を見事に泳いでいるのはさすがだ。
劉輿がかなりの世渡り上手であったのは分かる。

冀州刺史の人事の流れがよく分からない。
丁紹→温羨→范陽王・司馬虓→王斌 なのかな?

>※ 誰か、八王の乱を分かりやすく説明できる人おらん?
>  どう考えても賈后時代の方がマシなんだが。

これやるのも面白いかもしれない。まあ、八王といっても実際は十数人いるのだが。
「両晋英雄」スレがいいのか、「司馬家」スレがいいのか、ここがいいのか迷うところだが。




286 :213:2007/09/15(土) 07:34:13 ID:WdnRTCch0
で、続き。

 勒南寇襄陽,攻陷江西壘壁三十餘所,留刁膺守襄陽,躬帥精騎三萬還攻王如.憚如之盛,遂趣襄城.
如知之,遣弟璃率騎二萬五千,詐言犒軍,實欲襲勒.勒逆擊,滅之,復屯江西,蓋欲有雄據江漢之志也.
張賓以為不可,勸勒北還,弗從,以賓為參軍都尉,領記室,位次司馬,專居中總事.


287 :213:2007/09/15(土) 07:36:37 ID:WdnRTCch0
 石勒は南下し、襄陽を攻め、江西の壘壁を三十カ所以上も攻め落とし、刁膺を襄陽の守備にとどめ、
自身は精鋭の騎兵三万の将として帰還して、王如を攻めた。王如は(石勒の)勢い盛んなのを怖れ、襄城に赴いた。
(王如は)弟の王璃を騎兵二万五千を率いて遣わし、いつわって軍をねぎらいの言葉を与えて、石勒を襲撃しようとした。
石勒は迎え撃ち、(王璃の軍を)滅ぼし、また江西に駐屯し、江漢により自立しようという志を持った。
張賓は無理であるといって、石勒に北に帰ることを進めたが、(石勒は)従わず、
張賓を參軍都尉にし,記室を領せしめ,位を次司馬にして、陣営の中のことに専任させた。

※ 『領記室,位次司馬,專居中總事』に自信がない。
   ご教示お願いしますm(_ _)m

288 :213:2007/09/15(土) 07:48:46 ID:WdnRTCch0
前回の兄弟のちぎりはなんだったのか、と小一時間問いつめたくなるような石やんの行動。
さっそく王如を裏切り、攻めまくる。
続いてなにを思ったか、江漢地方(漢水と長江の間にある地域のことだろう)に自立しようとする。
王浚、苟晞、劉琨みたいな強敵がおらず、王彌と劉聡と勢力圏が重なる地域を避けたのだと思う。
このころの荊州刺吏は山簡だろうから切り取り放題だったろうな。

次回は南方の戦い、その3。司馬睿と初の接触をする。

289 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 09:11:14 ID:hI+8/q0+0
江漢平野で自立するメリットは、それほど有力な晋側の軍閥がいないこと
より一層開発の進んだ肥沃な平野部とそこそこの人口を有すること(また、流民が多く流入していた)
三国時代に軍事都市として発達した、襄陽(樊城)、江陵の存在

こんなところかな、目の付け所は悪くない
魏晋南北朝時代を通じて、江陵に拠る勢力は、たとえ官軍であろうと事実上一軍閥として
他の勢力に拮抗できるほどの実力を誇っていた

でも、張賓はそれを捨てて「(たとえ群雄が犇めいていようと)河北で割拠するべきです。」と主張するわけだ

290 :祖逖:2007/09/15(土) 23:13:47 ID:ZjVXlQjh0
北伐したいと言ったが、全然兵力が増強されない


死ねと言うことか

291 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/19(水) 19:33:48 ID:kH5y9Bua0
王彌伝、拝見させていただきました。
いつも勉強になります。

>遣其侍中兼御史大夫郊迎
を235で
>侍中兼御史大夫であった呼延翼
と訳されています。

呼延翼が御史大夫であったことは『晋書』で確認できたのですが、
侍中であったことは分かりませんでした。

不勉強で恐縮ですが、
>侍中兼御史大夫であった呼延翼
とされる根拠、或いは典拠をご教授いただけないでしょうか。

どうかお願い致します。

292 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/20(木) 15:18:47 ID:bJK1T4G50
>>291
勢いで訳していたから、そこら辺の記述から早とちりしてしまったかもしれません
確かに、どこにも呼延翼が侍中を兼任していたことは書いてなかったんで、誤訳していたみたいです
すいません、侍中兼御史大夫(姓名不詳)に訂正しておきます

293 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/21(金) 20:22:39 ID:qURnb5R10
お知らせくださり、ありがとうございました。
細かいことですが、つい気になったので書き込んでしまいました。

294 :213:2007/09/22(土) 06:38:17 ID:zGYKkJFQ0
>>292,>>293だいぶ、死んでしまったスレが増えてきたけど、
まだまだ、このスレは健在ってことで。特にお二人のおかげです。
>>290
正直、司馬睿、王導の本音はそうだろうね。二人とも全く北伐する気がなかったか
不明だが、江南豪族の内部調整に忙しく、失地奪回はあきらめていたような空気がある
その中で北伐を求める祖逖は邪魔者なわけだ。

司馬睿に至っては、祖逖の兵力を王氏の権力を抑えるのに利用しようとするわけで
、その軍事力は、司馬睿と王導の政争の道具にされたともいえる。
岳飛も哀れだが、全く援助をうけられない祖逖はもっと苛酷な状況だ。

逆にいえば、そんな状況で当代屈指の軍事能力をもつ石勒・石虎と相対したのだから
祖逖がいかに名将であったということがこれで分かる。

295 :213:2007/09/22(土) 06:44:06 ID:zGYKkJFQ0
で、翻訳の今回分。

元帝慮勒南寇,使王導率眾討勒.勒軍糧不接,死疫太半,納張賓之策,乃焚輜重,裹糧卷甲,渡沔,寇江夏,太守楊岠棄郡而走.
北寇新蔡,害新蔡王確于南頓,朗陵公何襲、廣陵公陳眕、上黨太守羊綜、廣平太守邵肇等率眾降于勒.勒進陷許昌,害平東將軍王康.

 司馬睿は南へと攻めてくると考え、王導に衆を率いて石勒を討たせた。石勒軍は兵糧がつづかず、(軍の)死すもの、
病気になるものが大半となり、張賓の献策をいれ、輜重を焼いて、兵糧を持たせ鎧をつけさせたまま、沔河を渡り、江夏を攻めた。
太守の楊岠は郡を棄てて逃げた。北に行き、新蔡を攻め、新蔡王・司馬確(司馬騰の子)を南頓において殺し、
朗陵公・何襲、広陵公・陳眕、上党太守・羊綜、広平太守・邵肇は衆を率いて、石勒に降伏した。
石勒は進軍し、許昌を攻め落とし、平東將軍・王康を殺した。

296 :213:2007/09/22(土) 06:53:05 ID:zGYKkJFQ0
さっそく、張賓の危惧はあたり、兵糧が確保できず、(なんでこうなったかはよく分からないが)
危機に陥る石やん。(こういう機動戦を得意とするタイプが陥りやすい罠だよな)
といいつつ、前回あたりから張賓が頭角を現し初めているのに気づく。

張賓に従い、江夏をおとし、あの自分を奴隷にした司馬騰の子・司馬確(残りは全て死亡)
を殺し、家を断絶においこみ、報復を完成させる。
さらに三太守を降伏させ、許昌を落とす。

次回、有名なあのエピソード。『晋の半分』との決着。

297 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 16:46:02 ID:GRlmd8gw0
213さん、こんにちは。
石勒伝、毎回読ませて頂いております。

細かい点なのですが、

>乃焚輜重,裹糧卷甲,渡沔,寇江夏
>、輜重を焼いて、兵糧を持たせ鎧をつけさせたまま、沔河を渡り、江夏を攻めた。

間違いがあるかもしれませんが、「裹糧卷甲」は、兵糧を携帯し、甲(よろい)を脱ぐことで、軽装で急行したり、遠征したりすることを形容する言葉だと
思います。

ですので、鎧をつけさせたままと訳すのは、原文の意味とは少し違うのではと思いました。

また、「寇」ですが、石勒が江夏郡を攻めた理由が、兵糧を確保できなかったということから、
食糧を奪うことだったのではないかと思います。「寇」には、略奪の意味も含まれていますので、
その点も訳に反映されるとよいのではないかと個人的に思います。

「沔」ですが、歴史地図には「沔水」とありました。淮水を淮河というように、沔河というのでしょうか。
詳しくないので、ご教授いただけますでしょうか。些細なことですみません。

213さんの今までの訳のようには、なかなかうまく訳せませんが、

〔石勒の軍勢は〕輜重を焼き、軽装で〔急〕行軍して沔河(沔水)を渡ると、江夏〔郡〕に攻め込んで、略奪を行った。

括弧が多くて読みづらくなりました。^^;

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