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陳寿が本当に書きたかった正史

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 10:40:26 ID:uDcA37m30
 

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 10:48:52 ID:iUtruTBq0
2国史

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 11:24:23 ID:uDcA37m30
ごめん三戦板と間違えた

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 11:40:39 ID:0qadWPfZ0
wikiから
 陳寿(233年 - 297年)は、字を承祚といい、蜀漢・西晋の官僚で、『三国志』の著者。巴西郡安漢
の人。
 蜀漢の将、陳式は祖父とも大叔父ともいう説がある。一方、俗説として陳式が父というのは両者
の活躍時期から見て疑問である。甥に陳符・陳莅(兄の子)・陳階(弟の子)を持つ。

 初め譙周に師事し、蜀漢に仕えるも、黄皓に逆らって左遷された。
 また、父親の喪に服していた時に病気に罹り、下女に丸薬を作らせていた。このことが発覚する
と、親不孝者として糾弾された。これは、儒教の礼教では、親の喪に服している時にわが身をいた
わるのはもっての外とされていたからである。
 このため蜀漢の滅亡後も、しばらく仕官できなかった。

 やがてかつての同僚の羅憲によって推挙され、西晋に仕えた。
 皇帝の司馬炎にその才能を買われて、益州の地方史『益部耆旧伝』や蜀漢の丞相、諸葛亮の
文書集である『諸葛亮集』を編纂し、張華らに高く評価された。この他、やはり高く評価されたとい
う『古国志』を著した。
 これらの実績を踏まえ、『三国志』を編纂し、張華は「晋書はこの本に続けるべきだろうな」と称
賛した。しかし、荀勗は陳寿を歴史家としては評価していたが、『三国志』の「魏書」部分に気分を
害する部分があったため、陳寿を外地の長広太守に任命した。
 陳寿はこれを母の病気を理由に辞退したが、経緯を知った杜預の推薦により検察秘書官である
治書侍御史に任命された。


5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 11:41:25 ID:0qadWPfZ0
 また華陽国志によると、尚書郎の李驤(李福の子)は同門の先輩だったが蜀に仕えていた時の
仲は良好だった。だが、蜀が滅び晋の世になると、些細なことから両人の仲が拗れて対決し、後に
李驤が晋に再仕官する運動を行なった時に、陳寿がそれを妨害したといわれている。

 『三国志』は三国のうち魏を正統と扱ったが、魏を正統とした類書はほとんどが『魏書』(王沈の著
書)等、魏単独の表題としていた。蜀漢や呉の歴史は、あくまで『魏書』の中で語られたのである。
 これに対し、陳寿は表題上は三国を対等に扱い、また本文も「魏書」「蜀書」「呉書」と三国を独立
して扱ったところに大きな違いがある。また、元は蜀に仕えた人物であり、敬語の使い方などからも
蜀を比較的良く扱おうとする姿勢が見える。
 「魏書」東夷伝倭人の条には、邪馬台国など当時の日本についての記述があり、日本では「魏志
倭人伝」と俗称される。

 母親(『華陽国志』によると継母)が洛陽で死ぬと、遺言に従いその地に葬った。
 ところが、郷里の墳墓に葬る習慣に反したため、再び親不孝者と非難され、官職を罷免されてしま
った。数年後、太子中庶子に任命されるが、拝命しないまま死去した。


6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 11:41:56 ID:0qadWPfZ0
 かつて、師の譙周は陳寿に「卿は必ずや才能学問をもって名を揚げることであろう。きっと挫折の
憂き目にあうだろうが、それも不幸ではない。深く慎むがよい」といったが、その通りの結果になった
と『晋書』は評する。

 『三国志』は私家版だったが、陳寿の死後、西晋の恵帝の時代に范頵らの上表により正史と認定
された。残念ながら、『三国志』以外の著書は、現存しない。

陳寿への非難―演義の台頭による弊害―
 『三国志』については、優れた歴史書であるとの評価が高く、夏侯湛(夏侯威の孫)が『三国志』を
見て、自らが執筆中だった『魏書』を破り捨ててしまったという話が残っている。
 しかし、陳寿本人については、『三国志』を書くに際して、私怨による曲筆を疑う話が伝わっている。
 例えば、かつての魏の丁儀一族の子孫達に、当人の伝記について「貴方のお父上のことを、今、
私が書いている歴史書で高く評価しようと思うが、つきましては、米千石を頂きたい」と、原稿料を要
求し、それが断られると、その人物の伝記を書かなかったという話。また、かつて諸葛亮が自分の父
を処罰し、自身が亮の子の諸葛瞻に疎まれたことを恨んで、諸葛亮の伝記で「臨機応変の軍略は、
彼の得手ではなかったからであろうか」と彼を不当に低く評価し、瞻を「書画に巧み(なだけ)で、名声
が実質以上でさえあった」等と書いたのだといった話が伝わっている。

 以上、いずれも正史『晋書』に収録された逸話である。もっとも、丁儀の一族は曹丕に誅殺されてお
り、子孫は存在さえ疑わしい。また、諸葛亮の政治家としての才能は非常に高く評価している。
 軍事能力に疑問符を付けたとはいえ、『諸葛亮集』の完成を西晋の司馬炎(武帝)に奏上した中で
北伐の敗因を天命に帰すなど、総合的な評価はむしろ絶賛に近い。『晋書』の記述は不当だろう。
 また、歴史書としての「晋書」は評価が低い。「晋書」は稗史に近い説まで取り入れて構成されてお
り、総花的な書物と言われる所以である。

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 11:42:32 ID:0qadWPfZ0
 しかし、陳寿に対する同様の悪評は、340年に完成した王隠の『晋書』など、類書に記録されており、
早くから広まっていた(正史『晋書』は648年刊)。
 また、陳寿は故国である蜀漢をできる範囲で賞揚したが、魏を正統な王朝として扱った。西晋は魏
から禅譲を受けた王朝なので、魏を否定することは西晋を否定することになる。だから陳寿が魏を正
統としたのは、時代状況からすれば当然といえる。
 また、表題を『魏志』単独にせず、『三国志』にしたのはむしろ大きな冒険といえただろう。(『三国
志』は後世つけられた総題で、当初の表題は三国独立していたという説もある)

 後世習鑿歯らによる蜀漢正統論が高まるにつれ、陳寿が蜀漢を正統としなかったために、批判に拍
車が掛かるようになった。
 更に時代が下ると、諸葛亮の神格化や蜀漢正統論者の朱熹の朱子学が朝廷における儒教の公式
解釈とされた事も相まって、陳寿は一層非難を浴びることになった(ちなみに陳寿同様に蜀漢の旧臣で
西晋に仕えた李密(『文選』などに採録された『陳情事表』で知られる文人)に対しても同様の非難が
浴びせられている)。

 ただし、一方でこれらの批判に対して、紀伝体としての体裁を整えるためにやむを得なかったとする意
見も根強い。詳細は三国志 (歴史書)の項を参照の事。


8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 17:57:43 ID:vPnRdLOT0
きっとこんな立伝形式だろうな

魏志
魏主操伝
蜀志
昭烈帝紀
呉志
呉主権伝

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 18:50:51 ID:zzI2Diy4O
「三国志」ではなく
「季漢書」となると思う

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 23:57:01 ID:q7om0rGq0
蜀の人なのねー

11 :無名武将@お腹せっぷく :2007/02/17(土) 08:53:07 ID:CKKC/P420
丁儀みたいな曹植の腰巾着は
伝を立てる程の人物ではないな

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/17(土) 19:43:33 ID:vFu5uJllO
丁儀は毛カイ・徐奕らを陥れた政治的影響力、曹操が真っ先に娘を嫁がせようとしたことなどを考えると、
彼の方が曹植を担ぎ出したというべきだろうな

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/17(土) 20:29:40 ID:C5esnEF20
>>12
丁一族は元々曹一族、夏侯一族と親交が深かったという説が石井仁だかからでてる

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/04(日) 23:40:12 ID:X6vs+Uuq0
曹操の正夫人は丁氏だっけ

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/05(月) 01:09:39 ID:yFAryuAMO
曹操の正夫人丁氏
曹嵩の正夫人丁氏

曹操が娘を真っ先に嫁がせようとしたのは丁氏

ところで曹操の母については全く記述がないのだが、これら丁氏の記述が抹殺されたのと一緒に消されたか?

16 :無名武将@お腹せっぷく :2007/03/05(月) 20:14:45 ID:Rj41F+GR0
>>15
曹操の母は側室

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/05(月) 20:18:30 ID:yFAryuAMO
>>16
ソースは?

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/05(月) 20:45:42 ID:ZD0zx7ND0
曹酢(155 - 220)

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 17:55:58 ID:pT5WDR/R0
晋の圧力で書かせられた部分ウゼエ

20 :無名武将@お腹せっぷく :2007/03/08(木) 20:37:41 ID:O1AWiEGj0
>>17
妾腹の長男は「孟」が付くんだったっけ。
正室の子なら「伯徳」になってたような。

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/09(金) 20:02:34 ID:GnRDPekg0
>>20
この時代正室と側室の法則は当てはまらない場合も多い

馬超は正室の子っぽいが孟起
董卓の兄である董擢の字も孟高で董卓が仲穎、董旻が淑穎
張バクの字も孟卓

22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/20(火) 14:30:20 ID:exdkBklg0
「伯・仲・叔・季」の法則は、
それほど厳密なものではなく、かなりいい加減だったみたいだよ。

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 00:50:32 ID:BcQ8Aocq0
秦叔宝なんか長男だよね

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/18(金) 08:48:49 ID:aLTo8uEb0
魏と蜀の扱いにばかり焦点が当てられ、
呉の扱いは忘れられがちだな。

25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/10(日) 00:50:55 ID:4JBHCL850
それは仕方ない。

26 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 06:44:11 ID:1+2C4/1K0
実際、蜀も呉も地方政権的な存在
しかも呉なんて流行で皇帝名乗ったようなものだし

27 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 15:23:47 ID:G6zarsUX0
魏はもともと皇帝が目標だったし蜀は献帝が廃された跡を継いだとして呉の場合は「ライバルがみんな皇帝になってる!?俺もならなきゃ負ける!!」
って感じ名乗った感がするな

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