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織田信長の戦略・戦術・外交・軍備を語るスレ

1 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 17:25:42 ID:vi1dqqYn
織田信長の総合スレッドです。信長関連のスレが乱立しているのでまとめました。

信長メインに史実を踏まえちゃったりそんなこと無視したりしながら、
ifだの分析だので楽しく語りましょう。

2 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 17:28:22 ID:EtB6LNea
信長に関する資料って、他の武将に関する物よりも客観的なものが多いよね。
例)宣教師の手記とか。信長公記も負け戦満載だし。

3 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 17:31:19 ID:h1jGAwf8
桶狭間にしろ長篠の戦にしろ
実像が分かりにくいよね

後世の創作の闇に包まれてる感じで

4 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 17:33:27 ID:KhErFLSG
【調査】織田信長がローマ法王に献上した安土城屏風、1592年まで7年間バチカンに収蔵──現地で邦人研究者ら調査
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1171154640/

ID:3csnXxso0が面白い

5 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 17:34:25 ID:EtB6LNea
★信長が贈った安土城屏風、1592年までバチカンに──現地で邦人研究者ら調査

 織田信長からローマ法王に贈られた安土城の屏風(びょうぶ)絵を捜すため
ローマに滞在中の若桑みどり・千葉大名誉教授らは9日、屏風は1592年までの7年間、
バチカンに収蔵されていたことが分かったと発表した。

 屏風は伊東マンショら少年4人の天正遣欧使節が1585年3月、
当時の法王グレゴリオ13世に献上したが、現在は所在が分かっていない。
 今回の調査で、1592年7月13日にベルギー人の骨董収集家ウィンゲが、
バチカンの「地図の画廊」で屏風をスケッチしたことが、ウィンゲの書簡から分かった。

 18世紀にフランスのイエズス会士が出版した本には安土城の絵が載っており、
屏風が法王からの贈り物としてフランスに渡った可能性もあるという。

日経新聞 http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/38295.html

6 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 17:35:36 ID:EtB6LNea
織田信長は日本最高の天才
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152867533/


織田信長は日本最高の過大評価
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1156136876/

7 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 17:36:24 ID:EtB6LNea
★信長の将棋観示す古文書、塩尻の民家で発見 平時でも「戦いを忘れざるの戯」

 戦国武将・織田信長(1534〜82年)の将棋観を示したとみられる文書が、塩尻市内の民家で
見つかった。戦国時代末期から江戸時代初期にかけて活躍した将棋の一世名人が信長から
渡された文を、将棋の家元の棋士が書き写したとされる。文書を調べた専門家は「将棋史のみ
ならず信長研究にとっても興味深い」として、2月に発行される雑誌「信濃」(信濃史学会編)で
公表する。

 古文書を調べたのは、囲碁史研究家の中田敬三さん(74)(長野市中御所)。
 文書は縦約30センチ、横約80センチの和紙に墨で書かれ、幕末から明治にかけて活躍した
塩尻市出身の囲碁棋士で、将棋も初段だった白木助右衛門の子孫の家に保管されていた。
 題名は「織田信長公象戯(将棋)文」。京都生まれで一世名人・大橋宗桂(1555〜1634年)の
名人位を継ぐ9代目の孫が、白木助右衛門のために書き写したと、由来が書かれていた。
 文書には、信長が宗桂に渡した文の内容として、「兵を局芸の中に寄するは、天下安しと雖(いえど)
も戦いを忘れざるの戯(あざ)なり」(将棋に親しむのは、平時においても戦いを忘れないためである)
とあった。戦国武将として天下統一を進めていた信長は、常に戦いのことを心に留めていたことが
うかがえる。

 中田さんによると、宗桂が桂馬を上手に操ることから、信長が旧名「宗金」から改名するように
命じたエピソードも記されている。

 1836年(寛永13年)に刊行された、将棋のルールなどを記した文書「象戯図式」に儒学者の
林羅山が寄せた序文にも、同じエピソードが記されていることから、中田さんは文書の信頼性が
高いとみている。

(2007年1月12日 読売新聞) ※リンク先消滅の場合あります
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nagano/news001.htm
画像:今回、確認された文書。1行目に「織田信長公象戯文」と書かれている
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nagano/img/news001_2.jpg

8 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 17:40:02 ID:FsFx6Ugs
合戦じゃないけど、信長の領国経営に関しての実像がよくわからない。
後北条氏は領国経営について書かれたのが多いんだが、信長について
調べようとするとなかなか見つからないんだよな、最近やっと1冊見つ
けたけど。

いや北条が特別多いだけかも知れんけどさ・・・

9 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 22:09:19 ID:cvONZTw7
( ´゚ω゚` )

10 :人間七七四年:2007/02/12(月) 16:55:00 ID:PjVvgFj0
情をかけても裏切られてばっか。
信行・土田御前の乱
浅井長政の乱
足利義昭の乱
武田信玄の乱
上杉謙信の乱
松永久秀の乱
荒木村重の乱
明智光秀の乱
勝手に叛いて滅んでいく輩ども・・・

11 :人間七七四年:2007/02/12(月) 16:58:38 ID:zGBJR0Xe
武田信玄の乱って新鮮な響きだな

12 :人間七七四年:2007/02/14(水) 17:07:07 ID:sCaxDv+0
信長は何故美濃を落とすのに7年もかかったのか?
その後の神がかかった侵攻速度を考えると
あまりに時間がかかり過ぎじゃないか?
斎藤氏が強かったのか、北畠や六角が不甲斐無かったのか。

13 :人間七七四年:2007/02/14(水) 17:11:35 ID:U4cv0Q38
斉藤が強かったんだと思う

14 :人間七七四年:2007/02/14(水) 17:38:57 ID:GFJy6eKD
まず当初は今川を退けたばかりで、国力の拡充が不十分だった。
三河の松平、近江の浅井・六角、信濃の武田、伊勢の北畠と周辺に敵が数多くおり、
攻略直後の美濃もしくはからになった尾張を攻められる危険性があった。
だから信長は美濃攻略の前に、清洲同盟として有名な家康との同盟、伊勢桑名の攻略、浅井・武田に対する縁組を行い、
尾張をからにしても大丈夫な状況を作り上げた。
また、実際に一夜城だったかはともかくとして墨俣築城のエピソードからも分かるように
尾張から美濃に攻め込むにあたっての困難さ。また稲葉山城の守りの堅さ、道三によって鍛えられた美濃衆の精強さ。
これら様々な要素がからみあい、美濃平定までの年数となった。
いざ本格的な攻勢に移ってからは、稲葉山城を落とし一気に美濃を平定しているし、
美濃を得るためには避けられない準備期間だったと思う。
あと、義龍が若くして病死したのも大きかったと思う


15 :人間七七四年:2007/02/14(水) 22:12:36 ID:YUX8ONQb
>>12
桶狭間のあとで即松平と同盟したわけじゃない。
しばらく国境で争っている。
ここで2年程度ロスしている。

16 :人間七七四年:2007/02/14(水) 22:15:37 ID:EkDbZWvT
>>14
よく誤解されてるんだけど、信長の美濃攻めはそれまで苦戦してたのを稲葉山を
攻略していっぺんに終わったなんてシロモノじゃあない。
それまでの7年という期間をかけてそちらが言う様な対外的な処置を施すとともに、
まずは東美濃を調略、次に西美濃も調略をかけて稲葉山攻略前にはすでにその周辺
くらいしか残っていないほどに侵略していたんだよ。

17 :人間七七四年:2007/02/14(水) 22:23:11 ID:HDOqGYjg
>>8
奥野のやつ?

18 :人間七七四年:2007/02/16(金) 08:49:59 ID:7NOnz0rL
信長政権最末期の武田攻略後に出された発布。ここから織田の内政が見えるか?
国掟 甲・信州

一、関銭、駒口を取るべからざること。

一、百姓前には本年貢の外に不当な課役をすべからざること。

一、忠節人を立て置くほか、理屈を並べて懈怠する侍は殺害もしくは追放すべきこと。

一、公事はよくよく念を入れて詮議し、落着させるべきこと。

一、国侍は丁重に扱いつつ、さりとて油断なきよう気遣いすべきこと。

一、元来、欲のままに治めれば諸人は不満を覚えるものである。
所領の引き継ぎに当たっては多くの者に知行を与えて支配せしめ、広く人数を抱えさせるべきこと。

一、本国より奉公を望む者があった場合は、よく履歴を改め、前の主人へ届けた上で扶持すべきこと。

一、諸城は堅固に普請すべきこと。

一、鉄砲・玉薬・兵粮を蓄積すべきこと。

一、各々支配する郡内ごとに分担して道を作るべきこと。

一、境界が入り組むゆえ、多少の所領争いが起きようとも私怨を持つべからざること。

以上の他、悪しき事態が出来した折には、罷り上って直に訴訟すべきことである。

19 :人間七七四年:2007/02/16(金) 19:20:14 ID:lcRdp9M8
そんなことまで指示しなきゃならないことなのか

20 ::2007/02/16(金) 21:44:52 ID:eH1EMx+A
>>17
おれの持ってるのは「織田信長のすべて」って本。
その本の一章に領国経営について書かれた部分があるんだけどね。
でも知りたいことが十分に書かれてるわけじゃない。

奥野って人も領国経営の本出してるの?

21 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

22 ::2007/02/16(金) 21:54:51 ID:eH1EMx+A
>>18
情報thx。
やっぱり織田の領国経営をまとめた本てのは見つからないな・・・(´・ω・`)
発給文書とかまとめたの探すしかないか・・・。

23 :人間七七四年:2007/02/17(土) 18:56:50 ID:tz9k1+kv
>>12
勢力を倍にするのに7年っていうのは他の大名からすれば驚異的な数字だね

24 :人間七七四年:2007/02/23(金) 00:42:50 ID:VfjGe/cB
信長の最大の敵は正親町天皇だったって今谷明が言ってるよね。

25 :人間七七四年:2007/03/12(月) 14:33:59 ID:y99GGXTJ
信長を戦国の覇者たらしめた諸要素を考察しよう。

自分は信秀の遺産が大きかったと思う。信秀の朝廷への献金額は、同時代の
他大名と比較するとずば抜けたもので、信秀の代で織田氏は既にかな
りの経済力を誇っていたものと思われる。

いかに当主の器量が優れていても、それを活かすだけの基盤がなければ
話にならない。信秀(というか、かなりの経済力を誇る家)の跡継ぎと
して生まれたことこそ、信長を覇者たらしめた第一の要因だと思う。

26 :人間七七四年:2007/03/12(月) 18:36:49 ID:VhTxCj6n
実力+運だろ
今川に勝ったのは運の要素大きいし

27 :人間七七四年:2007/04/16(月) 16:11:12 ID:mxIcqEb7
あげ

28 :人間七七四年:2007/04/16(月) 17:21:41 ID:0Ndd+nRc
自分の軍勢・国が弱い事など欠点を補う富国強兵施策は見事だよ。

29 :人間七七四年:2007/05/25(金) 18:00:33 ID:vaWB4VjA


30 :人間七七四年:2007/05/25(金) 23:24:47 ID:cq/q0/eq
>>12
自勢力を弱小・均衡状態から抜け出させるのが一番難しい。
ある程度の大勢力になると、自勢力より弱い相手を狙えばいいわけで、途端に展開が楽になる。
晩年の織田家ほど版図が拡大すると、もはや全国統一は消化試合になってしまう。

31 :人間七七四年:2007/05/27(日) 23:16:32 ID:2SkI/S2k
信秀あればこそというのに同意、正宗の時と同じだね。
尾張は江戸時代の石高は実に62万石。
信秀時代にはこの尾張半石高を抑え、斉藤氏や今川傘下の松平氏を度々圧迫した。

今川も信秀没後に尾張に侵入したけど、桶狭間時点では既に尾張の拠点の殆どを喪失、
あの勝利はそこまでの奇跡ではなく、もともと織田有利に戦いが進むなかでの義元のチョンボ。

32 :人間七七四年:2007/06/01(金) 00:00:56 ID:ds7jNIgH
>>30
そうだよな。いち早く大勢力になったもの勝ちなんだろうけど
戦国時代は信長が生まれる前から何十年も続いてきたわけで
それまでに勢力を拡大できなかった大名達は結局信長に劣ると思う

33 :人間七七四年:2007/06/01(金) 03:20:55 ID:KDLAuGMK
>>26
運を言い出したら何から何まで全て実力で歴史に名を残した人物なんていないと思うがな

34 :人間七七四年:2007/06/01(金) 03:36:50 ID:W26ndqvi
>>26
桶狭間は正面から攻めて義元を討ってる件
全軍団撃破でないにせよ、義元本体は正面から攻めて勝ってる。
運とは到底思い切れないんだが。

35 :人間七七四年:2007/06/01(金) 11:55:02 ID:JFcNA2We
まあ運よければ討てるだろうと十中八九ダメだと思って攻撃にでたわけじゃないだろうな

36 :人間七七四年:2007/06/04(月) 12:33:55 ID:w/dDpK/p
天下腐部

37 :人間七七四年:2007/06/04(月) 23:33:37 ID:DGqc/kLw
光秀の謀反も運がわるかったからかどうかは光秀の動機によるから結局わからんよな
野心を抱いたのなら誰だろうが関係ないし

38 :人間七七四年:2007/06/06(水) 12:20:54 ID:uXtQ3q5I
光秀の動機を確定できる当時の証拠が出てくることはもう無いんじゃないかな

39 :人間七七四年:2007/06/07(木) 21:27:31 ID:e11mb/XO
そもそも、現代の普通の殺人事件でも純粋単独の動機なんてほとんど有り得ないしな。

40 :人間七七四年:2007/06/08(金) 00:14:17 ID:QfO/AE2F
光秀に聞いてもハッキリとした理由なんてなかったかも知らん。w
「自分でも何なぜああなってしまったのか」
とあの世で思ってるかも。

41 :人間七七四年:2007/06/08(金) 01:29:37 ID:hx6oirdX
秀吉は光秀が謀反起こした動機を調べようとは思わなかったんだろうかね?
光秀は農民に討たれて死んだけど側近は捕らえた奴もいるだろうし、
取り調べてたなら動機が判明しそうなもんだけどな

42 :人間七七四年:2007/06/08(金) 23:30:15 ID:joER4wxZ
敗者の意見なんて、歴史書には残らんからな。

43 :人間七七四年:2007/06/09(土) 04:57:36 ID:9j9+7+Bm
秀吉か家康が一枚噛んでたら記録は残せんわな。
記録に残ってないからこのあたりの妄想も広がるわけだが。

44 :人間七七四年:2007/06/10(日) 00:29:40 ID:JTBxP0cq
>>41
信長が死んだ後は混乱でそれどころじゃ無かったはず。
当時は明智が殺されたことにそれほど関心が払われてなかったんじゃないか。
それこそ部下の裏切りなんてままあることだったんだし。良くある事、見たいな感じ。

45 :人間七七四年:2007/06/10(日) 16:37:14 ID:rXnz7lC+
外部に共謀者がいるかもしれないわけだから、
秀吉がそれを探し出して始末しないのは詰めが甘い気がする

46 :人間七七四年:2007/07/24(火) 10:42:06 ID:EQs3LIfT


47 :人間七七四年:2007/07/24(火) 12:16:28 ID:nbp9+jCo
天下が転がり込んできそうな時に共犯者なんかかまってる場合じゃなかったんじゃね?
天下取ってからいくらでも出来るし。
逆に秀吉にとって使えそうなヤツなら知らないふりして生かしておいたって可能性も

48 :人間七七四年:2007/07/30(月) 22:20:22 ID:OGv1GGDn
信長の財力と戦略は、イエズス会の影響と聞いたことがあるけど、どなたか情報を提供してくれまいか。

49 :人間七七四年:2007/08/05(日) 00:49:48 ID:V+qKanYZ
信長には妹&娘が大勢居た訳ですが、
蒲生氏郷みたいに優秀な人物に嫁したパターンよりも、外れな婿の方が多い気がします。
信長の人を見る目はイマイチだったのでしょうか?
それとも、何か他に原因が在ったのでしょうか?
織田家の姫は軒並み下げマンだったとか。

50 :人間七七四年:2007/08/07(火) 16:34:41 ID:a/4V7IRd
「本能寺の変」の焼け瓦発見 旧寺跡で 堀や石垣も   京都新聞 2007年8月7日(火)
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007080700027&genre=M2&area=K1C

 旧本能寺跡で見つかった「☆」の字が刻まれた丸瓦。堀の壁面には大量の焼け瓦が
埋まっていた(京都市中京区)

 京都市中京区西洞院通六角下ルの旧本能寺跡の発掘調査で、織田信長が明智光秀に
攻められ自害した「本能寺の変」と同時期とみられる堀跡や大量の焼け瓦が6日までに
見つかった。旧本能寺の明確な遺構や遺物が見つかったのは初めて。堀跡からは、護岸
の石垣も見つかり、寺が城塞(じょうさい)のように堅固に守られていた可能性が出てきた。

 マンション建設に伴い、関西文化財調査会(上京区・吉川義彦代表)が7月下旬から
約130平方メートルを調査した。

51 :人間七七四年:2007/08/07(火) 19:14:30 ID:e6txtD+g
だいたい本能寺の変は、光秀としては信長と共に信忠も殺さないと意味が無いわけで、
その信忠はもともと家康と一緒に堺に行く予定だったのが、急遽予定が変更されて京に向かった訳で。
その意味では、信忠在京の情報を得た光秀が、「今が戦機」とすぐに決断して、根回し無く急遽行った下克上、
と見るのが正しいだろ。

逆に言えば信忠がそのまま堺に行っていれば、間違い無く本能寺はおこらなかった。

52 :人間七七四年:2007/08/07(火) 19:16:55 ID:e6txtD+g
>>48
立花京子あたりの説だろうけど、あれは典型的な「結論に資料をあわせる」説だよ。
おばさんの妄想だから、微笑んで上げなさい。

53 :人間七七四年:2007/08/14(火) 22:47:54 ID:2n+SWSVe
>>49
利長とか長重とか氏郷と同じぐらいだろ

54 :人間七七四年:2007/08/15(水) 10:26:07 ID:ffHSRck5
あんまり力の有る家臣を一門衆にしちゃうと家中のバランスが悪くなっちゃうから。

55 :人間七七四年:2007/08/20(月) 09:14:31 ID:nSLmuNLw
  

56 :人間七七四年:2007/08/20(月) 11:23:25 ID:HHMVu7+l
信長って戦略が上手いのか下手なのかよくわからない。
東国勢に媚び売って騙しきって勢力拡大したあたりは上手いんだけど、
それ以降本願寺や浅井・朝倉・根来衆に囲まれて泥沼。
その後は信玄主導の包囲網でも苦しい感じだし、
謙信の手取川前後もなんか後手後手な感じするしな。

上手いのか? 下手なのか? どっち?

57 :人間七七四年:2007/08/20(月) 12:18:44 ID:hL7t0T4q
信長の戦略、外交の手腕は見事。
しかし家臣を道具と一緒に見た感情欠落は駄目だ。

58 :人間七七四年:2007/08/20(月) 15:52:05 ID:k8rQWGv0
手取川の戦いなんて良質の文献に載っていない以上なかったと見ていいだろう
勿論、信長公記にもそのような戦いがあったことは記されていない

もしあったとなれば柴田以下有力武将は粛清されただろう
七ヶ国にわたる軍勢を付与されながら5年も攻めあぐねた佐久間信盛・信栄父子
の高野山追放
馬廻から大和守護に大抜擢された出世頭で光秀、長秀とともに朝廷から原田備中
守の賜姓・任官された塙直政は山津寺砦攻めで本願寺・雑賀衆に惨敗し戦死
その後、塙一族はことごとく粛清された
そして柴田の越前領有以前に加賀国主とされた梁田広正はついに加賀の一向衆を
鎮圧できずに召し上げられ本領わずか九坪に減らされ左遷

信長は大戦での失態・敗北を見逃すほどお人好しではないし、家中には人材が豊
富だから手取川の戦いがほんとにあって阻止出来なかったら重臣といえども粛清
されたはずだし、上杉が手取川の戦いで勝ったなら加賀のみならず越前でも大規
模な一向一揆が呼応したはず、しかし実際には粛清もなかったし、大規模な一向
一揆もなかった

59 :◆nzdGjBH722 :2007/08/21(火) 04:33:09 ID:GE60WIU+
>>58
>>その後、塙一族はことごとく粛清された

息子の塙安友は生きていなかったか?
信ヤボでやたら統率低かった覚えがあるんだが・・・。
あと佐久間の追放は光秀の讒言という説があるな。
真偽のほどはわからないが・・・。


60 :人間七七四年:2007/08/26(日) 12:51:00 ID:5e/0by5h
佐久間が追放された理由は本願寺包囲中の愚物的行動だろ。

61 :人間七七四年:2007/08/26(日) 14:27:02 ID:AbGE5DgB
>>60
信長の佐久間への弾劾状を見るに感情的な対立がありありと伺われる。
信長も機械じゃないんだし、感情を持った普通の人間。

ようするに嫌われていたんだな>>佐久間

62 :人間七七四年:2007/08/26(日) 14:36:36 ID:xQ3tJK0K
大体本願寺包囲の責任というなら、一番責任を取らないといけないのは、自分の都合で包囲の将兵を
各方面にガンガン引き抜いて、方針も効率もあったものじゃ無い状況にさせた信長自身だしな。

63 :◆nzdGjBH722 :2007/08/29(水) 20:11:52 ID:8j5BfK3L
俺の中では三国志の朱霊とダブるイメージ>佐久間
要するに生真面目な人で信長とソリがあわなかったんだろうな。
後々信長も反省して、佐久間の息子信栄を信忠つきの家臣にしてるし。



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