5ちゃんねる ★スマホ版★ ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50  

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

歴史が違う方向に行ってた場合の人物略歴【三国志】

1 :無名武将@お腹せっぷく:2006/08/16(水) 22:58:16
あちらは戦国時代しか扱っていないようなので立てました。

関連スレ
歴史が違う方向に行ってた場合の人物略歴
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152719747/l50

2 :無名武将@お腹せっぷく:2006/08/16(水) 23:38:40
曹操 (155-190)

後漢末期の将。黄巾賊との戦いなどで功績を上げる。190年に陳留で旗揚げし反董卓連合を結成する。
虎牢関で董卓軍を追い払い、長安に逃げる董卓軍を追撃中に徐栄の伏兵に遭い、従兄弟の曹洪とともに斬首された。

夏侯惇 (不明-194)

曹操の配下。曹操が徐栄に討たれた後残軍を整え陳留に帰った。その後青州黄巾賊を根絶やしにするなどした。194年、呂布との戦闘中に左目を射らるた。その後城に帰る途中で呂布に捕らえられ斬られた。残軍は劉備が引き受けた

3 :無名武将@お腹せっぷく:2006/08/16(水) 23:41:49
郭嘉

袁紹の配下。官渡の戦いで田豊と共に優れた献策をするが用いられず敗北。
官渡後は内紛する何とか袁家をまとめながら曹操に対抗するも病死。
その後袁家は衰退する事となる。

4 :無名武将@お腹せっぷく:2006/08/16(水) 23:42:48
内紛する袁家を何とかまとめ

5 :無名武将@お腹せっぷく:2006/08/17(木) 00:02:23
上の話とは関係なす
劉備 (161-185)

中山靖王劉勝の子孫を名乗る謎の男。関羽、張飛と義を結び黄巾賊討伐で功を上げ尉に任命されるものの後の漢中王督郵を200回にわたり棒で叩き、その後督郵の軍に追跡され、斬首される

督郵 (不明-218)

若い頃は官史として地味な仕事をしてい

たが、謎の男劉備に棒で叩かれてから発
起し、改めて関羽、張飛と義を結び衰退

した漢王朝復興を目指す。(ここから途中
まで劉備と同じ)曹操と歓談したときに雷
が脳天を直撃し、督郵は自分の本当の才に目覚める。200年董丞、馬騰とともに曹
操を殺害。その軍を吸収し、大将軍となる。同年、エンショウに大勝し華北を占領。ま
た、孫策を破り意気揚々だった劉ヨウも撃破。208年、劉ソウを降伏させ、217年には

劉ショウ、218年には遂に馬騰をも降伏させ天下統一。

6 :無名武将@お腹せっぷく:2006/08/17(木) 00:35:48
諸葛亮(181−208)
字は孔明。徐州瑯邪郡陽都県の人。漢の司隷校尉諸葛豊の子孫。
父は諸葛珪。孔明が幼いころに亡くなったので弟均とともに叔父の諸葛玄の元で育つ。
叔父の死後、均とともに荊州南陽県、隆中の臥龍崗の草庵にて晴耕雨読の生活を送った。
その間、崔州平、徐庶、石韜、孟建と交際し、その才を讃えられ臥龍と謳われる。
207年、徐庶の紹介によって劉備に三顧の礼をもって迎えられた。
そして劉備に対し、中原の曹操に対抗するため、荊州、益州を押さえ江東の孫権と結び
機を見て長安方面に進出して天下を平定する、いわゆる天下三分の計を進言する。
翌208年、曹操は総勢70万と称する大軍を率い南下を開始した。
おりしも荊州の劉表は病死し、跡を継いだ次男の劉ソウは抵抗することもなく降伏した。
このさい孔明はこれを討ち荊州を手に入れるよう進言するが受け入れられなかった。
孤立した劉備軍は、長江づたいに南下し、長坂で追いつかれるが、何とか難を逃れ夏口へ到達した。
そこで劉表の長男・劉キと合流し、孫権の命で荊州の動向を探りに来た魯粛と落ち合う。
その後、呉の主戦派筆頭である周瑜とともに呉に赴き、迷う孫権に開戦を決断させることに成功した。
この戦のさなか孔明の才を恐れる周瑜は孔明を処刑する口実をつくるために
無理を承知で10日で百万本の矢を用意するように依頼した。
無論才知において周瑜をはるかに凌ぐ孔明、周瑜の真意を見抜いた上で引き受け、
策を胸に秘め夜の闇にまぎれながら船団を率い曹操軍の陣地に向けて出陣する。
其の策とは船上の藁人形を矢で射らせてその矢を拝借しようというものであった。
しかしここで思わぬ誤算が生じてしまう。なんと曹操軍は火矢を射てきたのである。
哀れ孔明の船団は炎上、自身も火に巻き込まれ焼死してしまう。
臥龍はついに其の才を発揮することなく、地に臥したままその生涯を終えたのである。
このとき孔明の船団を包んだ炎は天高く立ち上りまるで赤い壁に見えたため、
後世の人はこの戦いを赤壁の戦いと称したという。

7 :無名武将@お腹せっぷく:2006/08/17(木) 00:46:09
劉禅 (205-208)

劉備の実子。長坂での戦いで趙雲が彼でなく麋夫人を助けたため代わりに井戸に投げ込まれた。



8 :無名武将@お腹せっぷく:2006/08/17(木) 01:00:55
関羽
魏の将軍。劉備の配下だったが曹操に攻めこまれ降伏。
袁紹との戦いで顔良、張コウなどを討ち取り武功をあげる。
その後も漢中方面で旧主劉備相手に奮闘した。

簡雍
劉備配下の将。若い頃から劉備とは兄弟のように仲がよかったという。
入蜀後は荊州を任せられ曹仁を攻めるなど中原を震撼させるが、
傲慢な性格が災いし部下に裏切られ死亡した。

9 :無名武将@お腹せっぷく:2006/08/17(木) 01:21:25
麹義 (不明-208)

エンショウ配下の猛将。公孫サンを攻めたときに突如現れた趙雲を一刀に切り伏せ、武名を上げる。196年、公孫サンを北平城にて斬り伏せエンショウに「我が英布なり」と賞賛される。
198年に呂布と共鳴して曹操を破り、同時に宴会中に酔った呂布を絞め殺し、呂布の領土も併合。
ここからの戦いのほぼ全て麹義が総大将である。200年にエン術を、203年に孫策を、205年に李カクを破り、エンショウが王に任命されると車騎将軍になった。しかし208年に馬騰征伐の際に病に倒れ亡くなった。武王とおくりなさるた

10 :無名武将@お腹せっぷく:2006/08/18(金) 15:44:18
>>6
ワロス
だが前半はイラネ

11 :無名武将@お腹せっぷく:2006/08/18(金) 15:47:35
>>10
前半も面白い。よけいなことをいう子ね

12 :無名武将@お腹せっぷく:2006/08/18(金) 16:03:30
【曹操】(155〜170)
中常侍・大長秋曹騰の孫。
友人の袁紹との賭けで、張譲の屋敷に忍び込み彼を暗殺しようと目論んだが、
警備兵に捕らえられ殺される。演義では袁紹が回想するのみ登場する。

13 :無名武将@お腹せっぷく:2006/08/28(月) 01:07:57
【曹操】(155〜234)
後漢末期の将。黄巾賊との戦いなどで功績を上げる。190年に陳留で旗揚げし反董卓連合を結成する。
虎牢関で董卓軍を追い払い、長安に逃げる董卓軍を追撃中に徐栄の伏兵に遭い、惨敗。
その後は劉備玄徳に仕え、赤壁の戦いでは鶏肋を矢に使うという鬼才を発揮し、六虎大将軍の一人となった。
劉備玄徳亡き後、董卓が立てた王朝、長を滅ぼし、呂布は降伏した。
その後も蜀の七虎大将軍(呂布が入る)の一人として活躍し、228年、楽々と呉を滅ぼし、三国時代は終わりを告げた。

14 :無名武将@お腹せっぷく:2006/08/28(月) 01:52:52
>>13
つまらん

15 :無名武将@お腹せっぷく:2006/08/28(月) 11:51:48
劉備(161〜171)
字は玄徳。後漢末の人。
タク郡タク県(現在の河北省タク県)楼桑村の出身。
父は州郡の官吏で、家も士豪の屋敷として栄えていたが、劉備が物心つく前に父は死亡。
母と二人暮らしの劉備の家の暮らし向きは徐々に悪くなり、劉備は五歳になると母の筵売りを手伝い、
働きに出た。しかし、母から常に自分が中山靖王の子孫であると聞かされていた劉備は少しも挫けず、
いつも庭にそびえる巨大な桑の木に登っては、それを皇帝の御車に見立てて「いつか俺はこれくらい
大きな御車に乗る皇帝になってやるんだ」と将来に夢を膨らませていた。
171年、タク県の視察に来た督郵の車に轢かれて死亡。享年10歳。行商人から茶を買って、
病気の母に飲ませようと家路を急ぐ途中だった。

200年、とうとう仕官の目処も立たず地方の一書生として人生を終えることを悟った詩人の諸葛亮は、
旅の途中で楼桑村に一面の桃園があるのを発見し、その中に一つの小さな墓石があるのを見つける。
土地の人から幼くして逝った皇帝を夢見る少年の話を聞いた諸葛亮は落涙し、墓の隣りに一つの石碑を建てた。
これが今に残る諸葛亮の詩「桃園決義長恨」である。この詩は後世の文学に多大な影響を与え、
薄幸の少年を主人公にした小説は現在に至るも作り続けられている。

16 :無名武将@お腹せっぷく:2006/08/28(月) 11:57:39
わざとやってるんじゃないかというくらいにつまらない

17 :無名武将@お腹せっぷく:2006/08/28(月) 12:05:51
そんなことないよ、職人さんがんがれ!

18 :無名武将@お腹せっぷく:2006/08/28(月) 12:36:16
【劉備】
黄巾の乱後、自ら中山靖王劉勝の末裔と称し、当時の皇帝を見事に騙し、多大な恩賞を得る。
董卓台頭時は連合軍の軍資金や兵糧を地元民に流出。民衆から感謝されるが緒将の反感を買い、それが元で連合軍の維持が不可能になる。
連合軍解散後、陶謙の元に身を寄せ、薬や女を駆使して短期間で城を譲り受ける事に成功。
その時、競争相手となった曹操暗殺を企てるも失敗。その後、呂布や袁術、曹操による劉備討伐軍から逃れる為国を放棄。
諸勢力からの逃亡を装い、華北の袁家にもぐりこむ事に成功。持ち前の饒舌で袁家緒将を疑心暗鬼に陥らせる。また、同時に曹家にも腹心を送り込んで内部破壊を行わせる。
いよいよ曹操との決戦という時、兵糧庫守衛に酒を振る舞い、情報を曹軍に漏洩して逃走。
曹軍の勢力の届かない所で静養しようとした劉備が次に望んだ場所は荊州。
当時の領主は老衰で、正常な判断ができなかったことから、必死に拒絶する劉表家臣を尻目に見事に仕官成功。1国を任される。
しかし、劉表死亡後、元劉表部下や諸勢力から攻撃されるが、数万の民を人質に取る機転を利かせた作戦で南下に成功。
孫権の元にむかって助勢を断られると、軍師や先代当主の嫁を侮辱。怒った孫権を言葉巧みに操り曹操にぶつける事に成功。
戦いを孫家に任せ、自らは荊州併合に力を注ぐ。


19 :無名武将@お腹せっぷく:2006/08/28(月) 12:53:32
>>13
つかさ、最初のほう人のやつ勝手に写さんでくれる?

しかもつまらんし

20 :無名武将@お腹せっぷく:2006/08/28(月) 14:02:20
長文とやりすぎ(>>13のバカとか)は読む気失せる

21 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/01(金) 14:30:34
【教育】歴史授業:オンラインゲームで理解度向上 東京大など研究[09/01]
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1157084208/

22 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/01(金) 15:10:46
>>7
趙雲ひでぇwwwww幼児虐待ワロスwwうぇっうえっっwww

23 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/01(金) 15:49:21
関羽(158-235)
字を雲長。
ここから五虎任命まで同じ。
陸遜に江陵を攻められて麋芳、博士仁などの勧めもあり降伏。
一族郎党を全て引き連れ呉に移り住み平穏な毎日を過ごす。
以前の字の長生は裏切りの代名詞となる

24 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/01(金) 15:55:45
張飛 (166-185)
字を翼徳(益徳)
劉備、関羽とともに義を結び黄巾党を討伐するが、官位が無いために董卓に面罵される。
それに怒りを感じ、義兄弟の静止を振り切り董卓に斬ってかかるが董卓は万夫不当の豪傑だったため返り討ちにあい殺された

25 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/01(金) 15:57:11
劉備(161)

字を玄徳にする予定だったが難産で流産してしまい、鳴き声を発することなく死去した。

26 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/01(金) 16:04:26
糞スレ

27 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/01(金) 16:12:03
趙雲 (170-260)
字を子龍

ここから長坂直前まで同じ

長坂の戦いで麋夫人と阿斗がいないことに気づき敵に単騎で突入する

しかし麋夫人達を見つける頃には周りを敵に囲まれ絶体絶命

麋夫人は井戸に身を投げると言い出すが趙雲は「大丈夫、みんな助かる最善の策があります」といい、麋夫人と阿斗を乗せたまま魏に投降

劉備は子龍の全身これ悪なりなどと罵った

麋夫人は一生趙雲と話すことはなかったという

投降後趙雲は曹操に何故投降したか聞かれると「人間、自分の命が一番なんです。なの状態で阿斗だけつれて駆けても逃げられんし、麋夫人と阿斗つれて投降すれば一生安泰に暮らせる多大なる爵位も貰えるで候ぞ」
と平気で言ったという

結局征南将軍まで出世し子を何十人ももうけ老後はギョウで静かに暮らしたという

28 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/01(金) 16:16:42
56 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2006/05/31(水) 14:47:40 ID:???
そうやって甘やかすと後悔することになるぞ。てゆーか今がその時だが。

57 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2006/05/31(水) 14:47:55 ID:???
まあ削除人様がお墨付きを与えてる以上、我々下々がどうこう
言っても詮無き事だが…

58 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2006/05/31(水) 20:26:09 ID:???
軍事の話題どころか政治の話題すら、たまにしかしてない。

59 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2006/05/31(水) 20:27:28 ID:???
>>55
よく溢れるんだけど。収納物が

60 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:2006/06/04(日) 10:57:57 ID:???
保守

61 名前:名無し憲兵上等兵[age] 投稿日:2006/06/06(火) 00:45:07 ID:???
>>6
前スレの最後の方を参照のこと。w

29 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/01(金) 16:43:30
おもしろいおもしろくない以前に日本語でおk
まぁおもしろくないけど。

30 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/02(土) 16:40:07
>>25
なんで歴史に残ったのかが気になるw

31 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/07(木) 23:24:54
糞スレ

32 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/07(木) 23:26:31
これほど無意味なスレ見たことが無い。

33 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/08(金) 02:41:13
昔立ったスレは良スレだったのにな

34 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/22(金) 12:43:16
糞スレあげ

35 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/22(金) 13:43:07
ホウ徳

蜀の将。馬超と共に劉備に降伏し、蜀入りする。
入蜀後は関羽と共に荊州を守り、廖化と共に援軍を乞う使者となる。荊州没落後は、関羽追悼戦夷、南征、北伐等に参加し蜀滅亡寸前まで蜀を支えた。蜀滅亡後の消息は未だ不明。

36 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/22(金) 13:51:03
ここまで読んで>>7が一番笑ったかな。

37 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/23(土) 04:38:26
>>27
曹操はそんな男、どんな猛将であろうが処刑する

38 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/23(土) 17:31:00
諸葛亮孔明
 
劉備が2度めで諦めてしまったため、野に埋もれたまま平穏な生涯を過ごしたらしい
晩年「わしなら三国に分けてのう・・あーして、こーして・・」と妄想を語っていたらしい

39 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/23(土) 17:41:11
諸葛格

諸葛謹の実子、諸葛亮の甥

父の廬に諸葛子喩と書かれたため筆を用いて諸葛子喩之廬と書こうとしたが誤って諸葛子喩即チ廬と書いてしまったために親不孝ということで斬首

40 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/23(土) 18:21:12
>>39
ワロタw

41 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/23(土) 18:49:18
呂布 字を奉先

劉備軍と紀霊軍を和睦させるために矛に矢を当てると豪語したが外れ、傍らで大爆笑していた張飛に腹を立て殺害
そのあと劉備はエンジュツにより滅ぼされ曹操に逃げた
呂布はエンジュツと誼を結ぼうとしたが断られ開戦するが圧倒的な兵力を誇るエンジュツに押されていき城を捨て西北に逃亡した。(ここからは三國志戦記2と同じ)

42 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/23(土) 19:16:33
劉禅

蜀漢二代目の皇帝、父は蜀漢初代皇帝・劉備玄徳。
父・劉備玄徳が病床に伏した頃から時の丞相「諸葛亮」に全権を託す
若き頃は自ら丞相に師事し、内政外交の指南を受けるという勤勉さも近年確認されている
暗君の如き振る舞いは敵を混乱に陥らせるための策の内であったらしい

丞相・孔明の死後、後任として姜維を指名
丞相・姜維は劉禅の伝聞役として活躍、この頃より劉禅の本領が発揮される
魏国・呉国・南蛮と呼ばれていた各国より「有能の士」を掻き集めていた

遂に9度目の北伐で魏国に引導を渡す事が出来、司馬兄弟(司馬懿の息子)を自らの策士として置き留める事に成功した
(「人徳乃帝、罪ヲ問ワズ唯彼ラノ功ヲ讃エル」という劉禅の人徳の広さを讃える一文が残されている)
当時の孫権も「真の有能の士は無能の如く振る舞い、数多き有能の士を自在に操る」と感心していた

孫権没後、呉国は蜀国に恭順する
こうして三国時代の幕は閉じ、短い平和な時代が始まった…

* 後に、司馬家末裔の司馬炎により長き終わりの見えない戦国の世が再び開かれるのは
  劉禅没後数年のことである

43 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/23(土) 19:36:26
>>42きんもー♪

44 : ◆CYv.xZXgKU :2006/09/23(土) 20:15:43
劉禅

 劉備に「後は任せる。劉禅を補佐してくれ。もし補佐するに値しないなら帝位に就いてくれ」と言われた諸葛亮
 諸葛亮は始め劉禅を補佐するも嫌気が差し、帝位を奪還する。
劉禅は南蛮山越の元に逃亡
呉と内応してショクに進行
圧倒的な強さの象、呉の持ち味である水戦で水陸両方から攻め入る
更に時期がきたとばかりに魏からも進行を受ける
趙雲や、魏延などの猛将を出すも敗北
ショクは滅び、南蛮の国が益州に誕生
しかしその後、劉禅は呉の策略により南蛮が裏切り死亡する

45 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/24(日) 10:29:16
諸葛亮 字は孔明

幼少時に兄の諸葛謹と饅頭の取り合いをして伯父に叱られグレて家をてでごろつきになってしまう。
ごろつき仲間と酒場でたむろしていた所を伯父と諸葛謹が連れ戻しにくるが、袋叩きにして殺してしまう。
その後、町のはずれでやくざの徐庶と義兄弟の契りを結び、各地のごろつきや山賊を集め寄せ「臥龍組」を結成する。これが日本で言われるやくざの元素と言われている。
結成後、戦乱の世の中で台頭をあらわしていた曹操軍を襲い金銀財宝を奪い曹操を捕らえ、自分の前に連れてこさせ足をなめさせて散々な屈辱を与えた後、斬首したと言う。この事から呉の軍師・周瑜は諸葛亮の事を「孔明とは残虐か魔か」と言った。
曹操軍を滅ぼして数国を支配した臥龍組だっが、智略で劉備玄徳の軍に滅ぼされ、自らは捕らえられ処刑された。

46 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/24(日) 10:40:23
やりすぎはつまらんなぁ

47 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/24(日) 10:48:06
>>46
じゃあお前が書いてみて

48 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/24(日) 10:52:15
>>1-47
のうちのどれかにあるよ

49 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/24(日) 12:59:35
自分は書けないくせに自分の文章読取の乏しさを棚に置いてやりすぎはつまらんとかシケるし

50 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/24(日) 13:00:39
「やりすぎはつまらんなぁ」って発言が作品をつまらなくするんだよ

51 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/24(日) 13:07:30
作品に対する反応がないからってムキになるなよw

52 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/24(日) 13:10:46
そちらは書く こちらは見る側
不特定多数の人間が入り乱れてる三戦板
評価するやつもいれば酷評するやつもいるだろう
そんな一酷評であんたらの作品は打撃を受けるのか?
なら酷評が来ないような奴を書けば良い ただそれだけの話

53 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/24(日) 13:31:30
>>51
自分自身に罪悪感を覚えないか?

54 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/24(日) 13:31:52
僕の作品を叩かないでVS何か叩いて憂さ晴らししたい

55 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/24(日) 13:33:41
>>52
>なら酷評が来ない作品を書けば良い

そんなのこっちの勝手。どんな作品を書こうがこっちの自由。

56 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/24(日) 13:34:54
>>54
勘違いしてんじゃねえよ

57 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/24(日) 13:37:03
ふん、自分は書けないくせに他人の作品は否定しやがって。随分虫のいい恥知らずがいるもんだ

58 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/24(日) 13:41:28
>>55
酷評一つで左右されるのか?
酷評なんて無視すればいいだろ
酷評されないような作品っていったのは書き方が悪かったせいか伝わってないみたいだがやりすぎをなくすとかじゃない。


59 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/24(日) 21:34:01
劉備(リュウビ、161?−?)

後漢末期の武将。字は玄徳。
はじめ、中山靖王・劉勝の末裔を自称し兵を募り黄巾討伐などで軍功をあげた。

193年、徐州の陶謙が曹操の攻撃を受けた際に救援に駆けつけ、そのまま徐州に身を置くようになった。
この後、病が篤くなった陶謙から徐州の支配権を譲り受けるが、この時迎え入れていた呂布の反逆にあい
曹操のもとに敗走。そのまま曹操に仕えた。

曹操にもその器量を評価され、呉討伐などで活躍した。
その後、鎮南将軍まで昇進したが、没年は分かっていない。

演義では213年の濡州口の戦いで潘璋に斬られている。

60 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/25(月) 01:21:26
・関平
 関羽の親戚とされている関羽配下の一人、
 「アメマー」という奇声を上げての一騎打ちは無敵の強さを誇る

・呂布
 王允の娘の招蝉を娶るが梅毒に犯され、すぐに病死
 董卓の死因も招蝉の梅毒が原因かとも云われている

・馬超
 関羽から拝借した赤兎馬より落馬し、絶命

61 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/25(月) 03:26:57
>>60アメマークソワロタ

62 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/26(火) 14:38:00
張飛
 
非常に短気であったらしく
主君の再三の登用に応じないとある在野の士を屋敷ごと焼き殺したという話がある


63 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/26(火) 21:01:17
関羽(158?-200)

河東郡解良の人。はじめ塩の密売に携わり、人を殺して官吏に追われて
幽州に逃れ、関羽と名乗った。後、張飛とともに劉備に仕えるが、曹操軍と
戦って破れると、独り曹操軍に投降する。多士済々の曹操軍にあって功を
焦る嫌いがあり、官渡の戦いの前哨戦となる白馬の陣で、袁紹軍の猛将
文醜・顔良の連携の前にあっけなく斬られた。

義に薄く、匹夫の勇だけが取柄の人柄をさし、当代より「微善公」と失笑を
以って称される。


64 :無名武将@お腹せっぷく:2006/09/26(火) 22:54:38
>>7
ワロタ

65 :無名武将@お腹せっぷく:2006/10/06(金) 21:57:27
ワラエン

66 :無名武将@お腹せっぷく:2006/10/08(日) 21:00:55
周瑜
オナニー中に心臓麻痺。享年17歳

67 :無名武将@お腹せっぷく:2006/10/09(月) 18:06:38
諸葛亮(?-?)
 結局誰からも声がかからず死亡。
 最後まで臥せてただけの臥竜。

68 :無名武将@お腹せっぷく:2006/10/18(水) 04:01:08
寥化 (170ー266)
184年、黄巾の乱に参加したその日張角死去し素性をごまかし十常侍の護衛として働き始める
189年にエンショウが何進暗殺を機会に十常侍を抹殺した時には田舎に帰っており難を逃れた。 その後は韓福に仕える
192年韓福がエンショウにのっとられると放浪中の呂布軍と出会い行動を共にする
198年呂布が滅亡した際は父の葬儀で田舎に帰っており難を逃れエンジュツに仕えるがまたしてもすぐ滅ぶ。 この時は外交官としてエンショウの下に行っていた。そしてそのままエンショウに仕える。
205年曹操が河北一帯を治めると劉表の下に逃れた。 この頃から疫病神とあだ名される
208年劉ソウが降伏すると馬騰に仕えるが211年に馬騰は暗殺され馬超も敗れ今度は張魯の下に逃げる
216年張魯が降伏するとやっと劉備に仕え荊州の関羽を補佐するようになる
219年関羽が斬られると上庸に逃げるが既に孟達は魏に降っており仕方なく魏に仕えてやると言ったが疫病神はいらんと拒否られる その後無事成都に帰還
225年南征は腹痛を理由に従軍しなかったが諸葛亮曰わくそれが勝因だったのこと
227年本人の強い要望で北伐に従軍。街亭にも着いていったが寥化が疫病神と呼ばれてることを知らない馬ショクは寥化とともに山頂へ布陣し大敗 馬ショクは斬られたが寥化は斬ったら祟られるという理由でお咎めなし
234年寥化が夢で吉兆を見たその日諸葛亮死去
245年寥化の便秘が治ったその日蒋苑死去それからも寥化の運が良い日は重臣が死ぬ日と言われ費偉、董允、張凝も例に漏れない
263年四つ葉のクローバーを見つけた日に蜀滅亡
265年寥化は癌を患ったが患ったその日に魏が晋に滅ぼされた
「使い方を間違えなければ歴史がその人ひとりで変わっていた」
と陳寿は語っている

69 :無名武将@お腹せっぷく:2006/10/18(水) 05:54:00
呂布(?―198)
五原郡九原県。はじめ丁原に仕えたが、丁原が執金護の地位を濫用して菫卓と対立し、
後漢末の混乱に拍車をかけたためこれを討ち、菫卓に仕え王朝の安定に尽力する。

しかし度重なる乱により漢王朝の権威は失墜し、菫卓は恐怖政治に頼らざるを得ない状況に
追い込まれる。そのため漢王朝がますます衰退していくにおよび、呂布は菫卓誅殺の
勅命を受け、これを果たす。

その後王允らの裏切りにより長安を追われると、各地の賊徒を討つ義勇の軍となる。
やがて曹操が私憤から徐州で大虐殺を行っているとの報を聞き、これを懲らしめるための
軍を起こす。戦が2年に及ぶ中、根拠地を持たない呂布は敗北。徐州に逃れる。

一方徐州は劉備一党が牧の陶謙を毒殺し、州を乗っ取っていたが、袁術との抗争が
激化すると、陶謙の遺臣たちとの対立が表面化。劉備が遠征中に主将張飛が曹豹を
殺害し逃亡するという事件が起こり、徐州の安定のため、再び軍を起こす。
佞姦な劉備は一時呂布を対袁術の矢面に立たせることを画策し、徐州を譲り渡す。
その後も呂布直属の騎馬隊の馬を盗むなど姑息な嫌がらせを重ねたため、温侯な呂布も
さすがに激怒し、劉備を徐州から追い出した。

徐州を追い出された劉備は、当時天子を奉戴し朝廷に跋扈していた曹操をそそのかし、
呂布征伐の軍を起こさせる。
呂布と曹操の戦は熾烈を極めたが、曹操の卑劣な水攻めにより、これ以上城内の民を
苦しませないため、呂布は降伏。信義と漢への忠誠をつらぬいた生涯を閉じた。

三国志の著者陳寿は、呂布を評して、心優しいところがあり、たやすく人を信じてしまうため、
常に裏切られ、損な役回りを押し付けられたとしている。

死に際し、まだ年若い張遼の命乞いをし、張遼が涙を流しながら、命乞いなどいらない
武士たるもの死ぬときは死にます、と答えたというエピソードはよく知られている。

70 :無名武将@お腹せっぷく:2006/10/22(日) 16:00:17
上げ

71 :無名武将@お腹せっぷく:2006/10/24(火) 00:26:20
張松

蜀郡の人。初めは益州牧劉璋の別駕従事であった。
法正・孟達らと語らい、蜀の将来を案じて曹操の元へ使いしたが、
その博覧強記の才を曹操に認められてそのまま抑留される。
やむなく曹操に降るや、秘書郎に任じられる。
才のあった張松は一年を待たずに秘書令へ昇進。やがて太史令を歴任する。
その厚遇に感激した張松は曹操への忠誠を誓い、蜀の地図を曹操へと引き渡す。

後に曹操が馬超を制し、漢中侵攻となった際に参丞相軍事に任じられ、共に漢中へと進む。
持参した地図を元に山道の侵攻を助け、盟友、法正・孟達をも引き込み、
劉璋を降服させる事に多大なる貢献をした。
投降した劉璋は綿竹にて曹操らを出迎えた。
先立って城へ踏み込んだ張松は、「綿竹よ、私は帰ってきた!」と一声を放つが、
劉璋に忠実であった兄・張粛の手によって、その場で刺殺される。

72 :無名武将@お腹せっぷく:2006/11/01(水) 17:26:54
張松の顔がもそっとましだったらな

73 :無名武将@お腹せっぷく:2006/11/25(土) 23:48:00
age

74 :無名武将@お腹せっぷく:2006/11/27(月) 01:34:45
孫堅

後漢末の群雄の一人。江東に勢力を持ち黄巾の乱の鎮圧などで名をはせる。
その後反董卓連合に参加し奮戦、董卓に焼き払われた洛陽の復興を行うなどの活躍を見せるが、
連合の解散後、荊州の劉表軍との交戦で戦死する。
長男は既に亡く次男の孫権が家を継いだ。
また孫権は袁術の傘下となり、後年曹操軍との戦闘で戦死した。

75 :無名武将@お腹せっぷく:2006/12/17(日) 22:35:31
保守

76 :無名武将@お腹せっぷく:2006/12/30(土) 22:55:59
孫策(175-201)

後漢末期の群雄の一人。父は袁術の武将として活躍した孫堅。
父の死後、袁術の命により支配下にある部民を束ねて長江流域を
征服していったが、袁術が曹操に大敗したのを機に独立。呉郡、
会稽郡などを支配し「江東の小覇王」と謳われた。
200年、曹操が北方の袁紹と対立し、軍をそちらに向けた隙を
狙って曹操の本拠地許を急襲、しかし留守居役の荀ケの頑強な
抵抗に遭い、手間取っているところを駆けつけた曹操自らの援軍に
撃破され、落ち延びる際に広陵太守・陳登に討たれた。

性急な性格であり、それ故電撃的な侵攻作戦を得意としたものの
じっくりと策を練ることが不得手であり、それが許急襲という致命的な
失敗を招く羽目となり、引いては孫家の没落を招くこととなった。
なお、次弟孫権が跡目を継いだものの、動揺する領内を抑えきれず
袁一族を滅亡させた曹操に自発的に降ることとなった。

27 KB
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

★スマホ版★ 掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

read.cgi ver 05.04.00 2017/10/04 Walang Kapalit ★
FOX ★ DSO(Dynamic Shared Object)