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三国時代の文学スレッド2

1 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/24(水) 01:29:49
後漢末期の建安年間とその前後には、唐代以前の詩聖・曹植や
曹操・曹丕・曹叡など曹家の偉大な詩人たち、建安の七子などが
たくさんの優れた文学作品を残し、中国文学を著しく発展させました。
三国志の戦いや武将、社会情勢などが、
それらの漢文の重要な題材や背景となっています。
また、後世の中国・日本の文芸の題材にも、
三国志の英雄たちは多く取りあげられています。
文学的な側面からも、歴史・人物的な側面からも、
真面目に語るも気ままにだべるも良し。マターリ楽しみましょう。
三曹でも西晋でも蘇東坡でも土井晩翠でもなんでもおkかとミ ・∀・ ミ

纏めサイト:
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/
避難所:
http://2ich.dip.jp/test/read.cgi/warhis/1169542646/

前スレ:
三国時代の文学スレッド
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1157242060/

関連スレ:
ねえ、曹操の詩って良いよね(古文・漢文板)
http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/kobun/965622879/

2 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/24(水) 02:05:33
このスレタイにしてこの>>1・・・ありえん!
ありえんが、ありえん故に三戦板のスレか・・・

3 :1(ry:2007/01/24(水) 02:23:02
前スレの容量がなかなか埋まらないことに気づくorz
スレ立て早すぎたかもです……こっちを使うのは、前スレが終わってからですね(´・ω・`)

4 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/24(水) 06:13:14
マルチは要らんな

>>3
細々保守しながら気長に行きましょう(´∀`)

5 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/24(水) 09:47:55
中国英雄板の方が落ち着いて語れる気もするが

6 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/24(水) 10:21:15
働かざる者、グチャグチャ言うべからず>>5

7 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/24(水) 13:20:02
中英は三戦より更に人少ないからね…

8 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/24(水) 13:23:04
マターリ汁
三戦板を見捨てないで盛り上げて行こうぜ(´∀`)

9 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/24(水) 15:10:45
>>7
その半分以上は糞レスしてる基地外だけどね
基地外ばかり集まって人大杉の板って過疎板より幸せなんだろうかOTZ

10 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/24(水) 15:15:46
>>9

豆がらを燃やして豆を煮るでない

11 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/24(水) 15:21:59
この板で何を燃料にして豆を煮よと申される?

12 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/24(水) 16:14:45
>>11

(植´Д`)<同じ家(板)に住むもの同士
        そうそうグチャグチャ叩かないでくれよ、兄ちゃん

13 :無名武将@お腹せっぷく:2007/01/24(水) 18:37:44
今の所荒れてないから引き続き三戦でいんじゃね?
もし荒れたら中英に引っ越せば良いさ。避難所もあるし。
俺は三戦のカオスが好きw

14 :1(ry:2007/01/25(木) 01:05:51
どもであります(`・ω・´)ゝ

>>3-13
済みませんorz 中英板では三国時代はあまり歓迎されないかと思って、
勝手に三戦に立てますた……○| ̄|_

ところで前スレを500KBまで埋めてきますたが、
まだ書き込めるようなのですが一体どうs(ry

15 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/25(木) 01:57:49
(`・ω・´) 新スレ乙です!

ちょwww埋まってないのかwww
恥が長く残るがこっちで訂正しとくよ。
×魏の明帝が位につき→○魏の明帝が殿を建て
×張懐権→○張懐瓘

16 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/25(木) 03:30:20
でも前スレもう書けないね。
「ERROR:このスレッドは512kを超えているので書けません!」
て言われた

17 :まとめサイト ◆XoQX5vgfQU :2007/01/25(木) 12:19:43
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/
ここまでUP
新スレおめでとうございます。前スレのlogもUPしました。

18 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/25(木) 18:49:28
前スレの最後の蘇軾が相変わらず周瑜マニアでワロタw

19 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/26(金) 11:09:11
新スレage

20 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/26(金) 12:38:45
新スレ乙


大戦にヒ様復活&かあんちゃん参戦おめ。
…漢字でねーw

ときに取扱範囲を議論中か…
どうなるんかな

21 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/26(金) 16:13:25
新スレおめ。
中英の自治も三国志解禁か規制かで揉めてるから
>>13氏の言う通り当面は三戦に居るのが無難だろうね

22 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/26(金) 18:02:05
新スレ乙です。
旧スレ「朔風」キタ━(゚∀゚)━ッ!!!!
朔風大好き。美しい。

23 :1(ry:2007/01/27(土) 01:50:39
どもであります(`;ω;´)ゝ

>>15
Thxです! 前スレはもう書けないみたいなので、そのうちお(受験生向けry

>>16-17,>>19,>>21
Thxです(`;ω;´)ゝ

>>18
東坡先生は、ほかにも諸葛亮の八陣図とか司馬懿と桓範の話とか随筆に書いていて、
相当な三国志おたくですおねw。周瑜ファンが嵩じるあまり、謎の赤壁洞窟に探検に行ったりwww
東坡先生の時代ですでに赤壁から800年ぐらい経っているので、
現代の日本でいえば、壇ノ浦に想いを馳せて義経公ファンになるようなものでせうか。
しかし先生は念奴橋では「小喬初嫁了……」と言ってますが、赤壁のときには小喬は嫁いでから
10年ぐらい経ってるのですからw、「さわやか青年提督周瑜&初々しい美人の新妻」的な、
先生のドリーム赤壁を詠んだ作ですおねw。というか、先生は赤壁を肴に酒がのみたいだけ(ry
そんなことばっかりして遊んでいるから(ry

>>20
Thxです。自分はゲームしないので分からないですが、何晏ちゃんのような
非力な文化人がゲームにいて、はたして役に立つんだろうか。すぐ氏んじゃってゲームオーバー(ry
そういえば、最近自分の地元の文政年間の文書を読んだのですが、人の文章がうまいことを
褒めるのに「何晏ちゃんの景福殿みたいに上手だよ」と言ってる部分があってワロスですたw

24 :1(ry:2007/01/27(土) 02:19:49
>>22
朔風(*´Д`)ハァハァw
この後も四言詩は潘岳、陸機陸雲兄弟から陶淵明にいたるまで詠まれていますが、
曹植たんの四言詩の神話的な美しさは、他のいずれに類をみるでしょーか。
『朔風』冒頭の「仰彼朔風」の興句がもたらす修辞の効果は、まったくいかばかりでせう!
「彼の朔風を仰ぎ……」これだけで、すべての人の眼前には遥かなパノラマがもたらされることでせう。
すでに非常に多くのりっぱな人が筆を尽くして曹植たんを褒め讃えているのでしょうから今さらなのですが、
四言詩に完成された古装的な美しさ、アルカイックな洗練は曹植たんに極まったものに思えます。
そんなわけで勝手に曹植たん(*´Д`)ハァハァw

ところで、朔風は詩経の邶風の『柏舟』も本歌にしているそうなので、
いちおう白文だけうpしておくです……簡体字ヽ(`Д´)ノワカラン 漓江出版のバカバカ

『柏舟』  詩経・邶風

泛彼柏舟  亦汎其流
耿耿不寐  如有隠憂
微我無酒  以敖以游
我心匪鑑  不可以茹
亦有兄弟  不可以拠
薄言往愬  逢彼之怒
我心匪石  不可転也
我心匪席  不可巻也
威儀棣棣  不可選也
憂心悄悄  慍于群小
覯閔既多  受侮不少
静言思之  寤辟有手摽
日居月諸  胡迭而微
心之憂矣  如匪浣衣
静言思之  不能奮飛

25 :1(ry:2007/01/27(土) 02:23:36
>>24
×寤辟有手摽 → ◎寤辟有摽 ヽ(`Д´)ノ

そいで、曹植たんの『朔風』の「汎舟」は、テキストによっては「泛舟」れす。

26 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/27(土) 16:01:16
朔風の詩は、「昔我同袍」の句の
同袍を兄弟の意に取って、文帝との仲違いの悲哀を詠んだと解釈する説と
親友の意に取って、親しい友達と別れた(死別の可能性も)悲しみを詠んだとする説の
2通りあるようだね

人民文学出版社という所から出ている『曹植集校注』(繁体字)という本では、
この詩を王サンの死んだ建安二十二年以後の作と取って、
同袍との「乖別」を王サン等との死別と解釈しております

27 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/28(日) 15:04:53
はわわ、御主人様、何処に行っても売り切れです!
予約すれば良かったよ・・

28 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/28(日) 15:06:57
ごめん恋姫の誤爆orz

29 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/28(日) 15:27:02
アホwwwwww

30 :1(ry:2007/01/29(月) 01:31:35
どもであります(`・ω・´)ゝ

>>27-29
はわわ……それってこのゲームですおねw ttp://www.tactics.ne.jp/~baseson/koihime/
傾城水滸伝みたいで激ワロスですwwさすが馬琴は秋葉原に住んでいただけあるなと(ry
しかし人物紹介のページに曹植たんが見当たらなくて、がっかりしたようなほっとしたようなw

>>26
Thxです!! なるほどー。巴蜀書社の魏晋四言詩研究という本では、
朔風はその意象を>>24の柏舟から借りたものとしていて、
兄弟の不仲を悲しんだ作としてるみたいです。いちおう訳もうpしておきまする。

>>24書き下し、適当ですお……)
「彼の泛(うか)ぶ柏舟(はくしゅう)、亦(ま)た其れ汎(へん)として流る
耿耿(こうこう)として寐(い)ねず、憂いの有るを隠す如し
我(われ)酒無きに微(あら)ず、以って敖(あそ)び以って游ぶ
我が心は鑑に匪(あら)ず、以って茹(く)らう可(べ)からず
亦た兄弟(けいてい)有るも、以って拠(よ)る可からず
薄言に往きて愬(つ)ぐるは、彼の怒りに逢う
我が心は石に匪ざれば、転がす可からず也(や)
我が心は席(むしろ)に匪ざれば、巻く可からず也
威儀(いぎ)棣棣(ていてい)として、選ぶ可からず也
憂心(ゆうしん)悄悄(しょうしょう)とし、群の小さきを慍(うら)む
覯閔(こうびん)既に多く、侮を受けること少なからず
静かに言(ここ)に之(これ)を思い、寤辟(ごへき)して摽(ひょう)有り
日居月諸(日よ月よ)、胡(なん)ぞ迭(こもごも)にして微(び)なる
心の憂うは、浣(あら)わざる衣の如し
静に言に之を思い、奮飛(ふんぴ)するを能わず」

31 :1(ry:2007/01/29(月) 01:33:21
>>24訳、適当ですお……)
「柏でつくった舟がうかび、ゆらゆらと流れてただよっています。
(わたしの)心はざわめいて眠れず、まるで憂いがあるのを隠しているようです。
わたしはお酒がないわけではないので、それで遊んでみたり出かけてみたりします。
(しかし)わたしの心は鏡ではないので、すべてを飲み込むわけにはいかないのです。
また兄弟もありますが、たよるわけにはいきません。
訪ねていって何をうったえても、彼を怒らせてしまうのです。
わたしの心は石ではないので、転がすことはできないでしょう。
わたしの心は筵ではないので、巻くことはできないでしょう。
威儀をただして態度はおちつき、よりわけることなどできないでしょう。
(わたしの)心は憂いに沈み、仲間の少ないことを悲しく思います。
人にいつもひどいめにあわされ、ばかにされることも少なくありません。
冷静にここにそれを思うと、ぱちぱちと手(で胸)を叩きます。
太陽よ月よ、なぜあなたがたはどちらも暗いのですか?
心の憂いは、まるで洗っていない衣のようです。
冷静にここにそれを思うと、飛び立つこともできません」

自分は中国語があやふやにしか読めないのでよく分からないのですがorz、
漓江出版の解題によれば、邶には柏の葉(?)で笹舟のようなものをつくって川に流して
厄をはらおうとする習慣があり、それを歌った詩らしいです('A`)ヤッパヨクワカンネ

32 :1(ry:2007/01/29(月) 02:27:37
>>26
Thxです!! 朔風は「魏都」をギョウとするか洛陽とするかで、
ギョウだったら建安年間(220年以前)、洛陽だったら黄初以降(220年以降)の作で、
建安年間の作だと、212年ぐらいまでは兄弟仲良くギョウに住んで(?)いたので、
214年ごろから曹丕との跡目争いがはじまり、215年に東征の留守番役をくらったり(東征賦)、
217年の疫病で友人の建安七子のうち5名までが没したり、219年に楊脩が殺されたりした
ことを詠んだ作(>>26さん)という解釈になるみたいれすね。
そうすると、建安だと「君不垂眷」の「君」は、「曹操がかえりみてくれないよ」ですおね……。
そいで、洛陽だと黄初年間以降になるので、「君」は曹丕か曹叡ですおね。
・昔我同袍
・子好芳草
・君不垂眷
この「同袍」「子」「君」がそれぞれ誰になるのか(あるいは同じ人か)が、
いろいろ研究する先生によって違うみたいですね。
岩波の『曹植』の伊藤正文先生は、同袍=兄弟、子=彪または親友、君=曹叡、
詠まれた時期は太和2年、中華書局の『三曹詩選』では、
同袍=兄弟、詠まれた時期は黄初4年(223年)の雍丘で、あとは決まってないよ、みたいですね。
建安22年(217年、疫病の年)とか黄初6年(225年)とか、色々あるみたいでワカラン(゚Д゚)ウボァー
「豈云其誠」を「豈に其の誠を云(ひるがえ)さんや」と解題してるのもあってワカラン(゚Д゚)ウボァー
自分には、「仰彼朔風」という興句がかっこよくてきれいだなというのしかワカラン(゚Д゚)ウボァー

33 :1(ry:2007/01/29(月) 02:29:38
でもなんというか、

↑N
          ◎ギョウ

                          ○東阿
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━(黄河ですおorz)
  ◎洛陽  ○官渡          ○鄄
            ○雍丘                ○臨菑
       ◎許昌   ○陳


みたいな感じになると、洛陽は曹植たんのいたところからは
北というより西にしか思えな(゚Д゚)ウボァー 全然ワカンネから寝るますorz

34 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 14:37:18
新スレ発見

35 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 23:55:28
新スレになってから過疎?

36 :1(ry:2007/01/30(火) 02:16:39
>>34-35
前スレの最後で、自分が誘導をまちがえたからなような気がしますスビバセンorz

ひつこく>>33の続きなのですが、
「仰彼朔風、用懐魏都、願騁代馬、倏忽北徂……臨川慕思、何為汎舟……誰忘汎舟、愧無榜人」
ということは、曹植たんは川の南岸にいて、北にある魏都を想っているのですおね。
もしも「川」が黄河をさすならば、「魏都」はギョウであるべきですおね……
それとも黄河ならば「河」とするから、もっと小さな別の川なのかな……
でも、技巧上の理由で黄河だけど「川」の字を使ったのかもだしワカンネorz

しかし、わかることだったら今までの研究者の人がとっくに結論を出してるのでしょーから、
きっと今のところは、曹植たんに直接聞くとかしない限り謎なことなのでせうね(*´Д`)

37 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/30(火) 18:45:58
前スレ落ちないね。書けないのに

ギョウが魏都のとき曹植タソは何処にいるの?

38 :1(ry:2007/01/31(水) 02:46:27
鄴は205年に許昌にかわって曹魏の拠点となり、209年に銅雀台ができ、
その後220年に曹操が没し、曹丕が禅譲をうけるまでの間、魏の都だったんですおね。
曹植たんは建安16(211年)に平原侯に封ぜられ、212年ごろまでは平和に『登台賦』などを作ったり、
214年には
臨菑侯に封ぜられつつ、ギョウをまかされて『東征賦』をよんだりしてるので、
・215年:張魯討伐? 跡目争い?
・217年:曹丕が立太子、疫病で建安の七子のうち五名が病没
 どこかこのへんの時期に奥さんと娘さん没、司馬門事件
・219年:酔っ払って曹仁助けに行けないよ事件、楊脩が殺される、曹熊没
のあいだは、ずっと
臨菑侯なんですおね。
そいで、217年に魯粛が没したときに、曹操はその矛先を呉から逸らせて
より多くを劉備に向けてますが、しかしずっと呉は仇敵であるので、曹植たんがこのへんのどの時点で
「凱風永至、思彼蛮方、願随越鳥、翻飛南翔」といってもおかしくはないですおね。
「昔我初遷、朱華未希、今我旋止、素雪云飛」は、正史に細かい月日が載ってないので、
「夏に赴任してまた冬に戻ってきたところ」がどこなのか、自分はよく分からないですorz
もしも「川」を黄河とするならば、臨菑侯のときは、曹植たんの任地は「川」の南岸にあり、
「魏都」は「川」の北岸にあって雪もふるし、曹植たんはギョウと臨菑を行ったりきたりしてますおね。
でもやっぱり臨菑からみたら、ギョウは北というより西にしか(ry やっぱりよくわからんです……orz

↑N
          ◎鄴
                                     ○平原
                          ○東阿
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━(黄河ですおorz)
  ◎洛陽  ○官渡          ○鄄
            ○雍丘                       ○臨菑
       ◎許昌   ○陳

39 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/31(水) 02:52:30
ttp://www.taisen2.x0.com/card/img/up1376.jpg

40 :1(ry:2007/01/31(水) 03:07:02
>>39
Thxです! 前スレのゲームのカードですおね(((( ;゚Д゚)))ギャーーー
曹丕がマリリンマンソンみたいで(((( ;゚Д゚)))ギャーーー
っつか、馬岱以外みんなホラー系(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル ……とおもったら、馬岱スレに同じ画像がw
月岡芳年の馬岱もあってワロスw 月岡芳年の曹操(血まみれじゃないやつ)は、すごくきれいです。

どうでもいいんですが、世説新語か何だったかで
「曹丕は気難しくて、お抱えのお針子さんが縫った(織った?)服じゃないとゴネた」
っつー話を読んだような気がしましたが忘れますた(´・ω・`)

41 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/31(水) 07:04:34
月岡芳年の曹操と聞いて飛んで来ましたw

42 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/31(水) 07:42:34
>>40
>月岡芳年の曹操

kwsk

43 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/31(水) 19:59:47
曹家の次男坊はホントにこだわり派なんだな…。
まさにブログ(ry

44 :1(ry:2007/02/01(木) 01:54:38
前スレからの誘導を間違えたので、しばらくあげるようにしておきますorz
前スレはもう512kBに達していて書けないので、dat落ち待ちみたいです。

>>38を一部訂正;
×209年に銅雀台ができ→◎210年(建安15年) ですた。他にも違うかもorz

>>41-42
芳年の月百姿シリーズには、「波立つ長江にうかぶ緋の旗船の舳先に立って、緋矛を手にし、
緋の戦袍に風をうけ、月に映える南屏山を臨む曹操」という、やたらかっこいい一枚があるですw。
早稲田の早大の図書館にあっていつでも見られますお(゚∀゚)これは怖くないですw。
あと、芳年の別のやつで、錦絵じゃない三国志シリーズをどこかで見たように思ったのですが忘れますたorz

>>43
でも、出典を忘れたので定かでないです。週末に図書館で世説新語(だったかな……)を確認してきますorz

45 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/01(木) 05:07:32
>>43
曹丕は次男じゃないぞ

46 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/01(木) 05:11:40
曹昂を数えたんじゃ?

47 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/01(木) 08:28:18
曹鑠を入れれば三男

48 :41:2007/02/01(木) 11:41:00
>>44
月百姿か、ありがd。画集とか出てないですか?

49 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/01(木) 11:48:58
絵発見したお

http://enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakunishik/results-big.php

50 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/01(木) 11:59:56
49見れなかったから探して来たんで貼り直してみる
ttp://enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakunishik/results-big.php?shiryo_no=201-2375&Max=9
多分>>44の1氏の早大の図書館が運営しているデータベースだね
関西人なんで見に行けない俺には嬉しい、っつか曹操格好良過ぎ

>「波立つ長江にうかぶ緋の旗船の舳先に立って、緋矛を手にし、
>緋の戦袍に風をうけ、月に映える南屏山を臨む曹操」という、やたらかっこいい一枚
横山曹操も赤いよな 曹操には赤が似合う

51 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/01(木) 12:22:44
昔個人情報スレにいた芳年好きの匂いがするがw

52 :49:2007/02/01(木) 12:24:49
>>50
うおっすまん!そしてありがとう

他にも曹操の浮世絵はあったけど
コレが白眉ですな

53 :41:2007/02/01(木) 12:30:25
>>49-52
ありがd。赤壁?綺麗だなあ。

54 :1(ry:2007/02/02(金) 00:10:19
どもです(`;ω;´)ゝしばらくあげてみますorz

>>45-47
曹昂をかぞえて次男かと理解してますた。そっか、早世した曹鑠もいれると三人目ですおね。
曹丕は、もっと後の平和な時代の高級官僚の家とかに生まれてれば、
ばりばり内政をしつつ、李漁とかとこだわりの一家言を論じあえたりして良かったかもですねw。
そういえば、李笠翁校注三国志(だっけ?)は、クドそうで面白そうなので一度読んでみたいですw。

>>48-53
SUGEEEEEE!!! Thxです!! これであります。いつ見てもきれいだなー。
「諸葛亮の拝風台がある南屏山を睥睨して、昇る月に対酒当歌を吟じ、いまこそ戦いを挑む曹操」
とゆー、演義屈指の名場面の図ですね。画集は自分は分かりません(´・ω・`)スミマセン
朱色は芳年独特の、いまにも手が染まるようなあざらかな赤ですおね。
曹植たんの『公讌』でも「神飇接丹轂(突然の風は朱塗りの車を押し)」、
文帝誄でも「朱旗所勦、九壤披震……」とありますが、なんか地位のある人が乗るのりものは
朱に塗られているのがデフォみたいなので(違うかも……)、曹操の船も当然旗艦でしょうから
船体まで朱に塗られていたかは分かりませんが、朱旗はあげていたのかと思いますた。
でも、このあとどうせ赤壁で黒こげうわなにをあqwせdrftgyふじこlp;

あと、芳年の月百姿シリーズには、「月明かりの赤壁の崖下に舟をうかべてあそぶ風流人達」
という図もあるのですが、たぶんこれは蘇軾先生の前赤壁賦の図ですおね。
芳年は唐物趣味のある人で三国志ファンですが、中でも当時にはめずらしい曹操ファンぽくてさすがだなーと思いますw。

55 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/02(金) 06:36:34
>>54
>朱色は芳年独特の、いまにも手が染まるようなあざらかな赤
あざらかっていう日本語初めて知った。ピッタリだねえ。
-大辞泉
-あざ‐らか【鮮らか】
-[形動ナリ]魚肉などが新鮮なさま。生き生きとしているさま。

56 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/03(土) 02:42:30
ttp://enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakunishik/results-big.php?shiryo_no=201-2381&Max=9
>「月明かりの赤壁の崖下に舟をうかべてあそぶ風流人達」
見付けた。浮世絵っていいもんだな

57 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/04(日) 06:28:50
>>40
マリリンマンソンって何?と思わずググってしまいましたw
似ているような似てないような…

というのは置いといて、曹丕が衣服に拘ったということについてですが、
某サイトからこういう文を見つけました。参考になれば嬉しいです。

・魏の後宮には「鍼神」と讃えられた裁縫の達人がいた。
文帝・曹丕は彼女が縫った衣服しか身に付けなかったという。
神の名は夜来。曹丕の寵姫でもあった彼女は、夜に明かり一つ
無い部屋で瞬く間に衣を縫い上げるほどの腕前だったそうです。
しかし食べるものといい着るものといい、
とことん拘り派ですな、陛下は……

58 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/04(日) 07:56:27
反対に曹操がまったくこだわりなくて
服も質素で破れたシーツを自分で縫ったりしてたんじゃなかったっけ

59 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/04(日) 15:30:26
既出だったら御免。
「曹瞞伝」によると曹操は腰には小さな皮の袋をぶらさげ、ハンカチや小物を入れていた、とか。
更に曹瞞伝には、普段の冠をつけたまま賓客に会う、とか
人と談論するときは冗談まじりにしゃべりまくって、思ったことはすぐ口にした、とか
上機嫌で大笑いしたはずみに頭を卓上の器につっこんで頭巾を食べ物でべとべとにしたり・・・・・w

60 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/04(日) 20:25:43
どんな爆笑トークだよ…w

61 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/04(日) 20:37:50
>>59
それ前スレの陸機のとこでも少し出てたなw

62 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/04(日) 21:54:41
つまりポシェットをぶらさげていたということでよろしいか

63 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/04(日) 22:00:03
つまり、
曹丕はブランド品にとことんと拘るタイプで
曹操は腹巻ステテコ姿で客の前に出ても気にしないタイプ、
ということかな。
私生活まで正反対な親子は面白いですねw

64 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/04(日) 22:08:11
また、曹丕と曹植は詩に対する価値観まで違うよね。
曹丕−蓋し文章は経国の大業云々
曹植−男子たるもの戦にぃ云々

65 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/04(日) 22:10:07
曹丕はディレッタントっぽいね

66 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/05(月) 12:07:37
>>64
曹植への当て付けの一面もあったんじゃないの?

67 :1(ry:2007/02/05(月) 22:16:45
>>55-56
エコエコ(・∀・)アザラカうわなにをすあqwせdrftgyふじこlp;

どうでもいいのですが、週末の節分は、もともとは前スレの武帝哀策文↓の
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/so_hi/butei_saku.html の
方相氏というのがでてくる、周礼に載ってる追儺という儀式らしいすおね。
周公の時代から豆まいてたのかー。

>>57
Thxです!! 鍼神にして寵姫の夜来夫人……そんな感じのオカルト話だった気がします(`・ω・´)ゝ
でも一体何に出ていたのか思い出せない……とりあえず、世説新語には出てなかったですorz
なんか、明とか清とか後の時代の眉唾本wに出ていたような記憶が……ちょっと発掘してみるます。

>>58-63,>>65
前スレの陸機たんのとこでもちょっと出ましたが、魏書の武帝紀の最後の裴注ですおねw
いちおう、魏書のさいごの該当するところだけうpしておきます。

魏書武帝紀第一 裴注より
「魏書曰……雅性節倹、不好華麗、後宮不錦繍、侍御履不二采、帷帳屏風、壊則補納、
 茵蓐取温、無有縁飾
(魏書にいわく……(曹操は)いつも倹約をする性質で、華麗なことは好まず、後宮(の女性)にも
 錦や刺繍の布を用い(させ)ず、従者も一色以上の色のくつを履かず、帷帳や屏風も壊れたらすぐに修理して使い、
 寝具やしきものは暖かさをもって採用し、ふち飾りはつけなかった)。」

「伝子曰、太祖愍嫁娶之豪奢、公女適人、皆以皁帳、従婢不過十人
(伝子にいわく、曹操は婚姻(の儀式)が豪奢なことをあわれに思い、自分の公女を人にやるときには、
 ぜんぶに黒いとばりをかけ、従う侍女も十人を過ぎることはなかった)。」

68 :1(ry:2007/02/05(月) 22:17:48
>>67つづき
「伝子曰、漢末王公、多委王服、以幅巾為雅、是以袁紹、崔鈞之徒、雖為将帥、皆著縑巾。
 魏太祖以天下凶荒、資財乏匱、擬古皮弁、裁縑帛以為帢、合于簡易随時之義、
 以色別其貴賎、于今施行、可謂軍容、非国容也
(伝子にいわく、漢末の王侯は、多くが王服をはたに置いて、ひと幅の布でつくった隠士風の頭巾をかっこいいとし、
 袁紹や崔鈞(崔豹)の仲間達は将帥といえども、みなこの絹の頭巾をかぶった。(しかし)魏の曹操は、天下が荒れており、
 資源や財力が乏しいので、昔ふうの皮の冠や、絹を裁断して四隅のない冠をつくり、TPOにあわせて簡易にかぶり、
 色を違えて身分を区別するようにした。今も施行されているが、これは軍服にはなるが、政務用にはならない)。」

「曹瞞伝曰、太祖為人佻易無威重、好音楽、倡優在側、常以日達夕。被服軽綃、
 身自佩小鞶嚢、以盛手巾細物、時或冠帢帽以見賓客。毎与人談論、戯弄言誦、
 尽無所隠、及歓喜大笑、至以頭没杯案中、肴膳皆沾汙巾幘、其軽易如此
(曹瞞伝にいわく、曹操の人となりは軽々しくて威厳がなく、音楽が好きで、芸者をそばにおき、
 いつも昼間から夕暮れまで(妓芸を)楽しんでいた。きるものは軽い(ラフな)絹で、自身の腰に
 ちいさな皮の袋をさげ、ハンカチや小物をいれて、時には四隅のない略式の冠で賓客に会った。
 人と話すときにはいつも冗談をいい、隠すところはまったくなく、喜んで大笑いすると
 頭を杯やお椀に没するに至り、肴とお膳がみな頭巾をびしょびしょによごす、そんなふうに軽々しかった)。」

自分はこのへんの描写が好きです。曹操笑いすぎww
自分はずっと、そんな威厳のないことは遺言のお香と同じく黒歴史にして書かなきゃいいのにw
と思っていたのですが、前スレで

>688 :無名武将@お腹せっぷく :2006/12/04(月) 07:58:58
>きっと当時の感覚では
>爆笑してお椀に顔つっこむ>>>>越えられない壁>>>>お香を気にする
>だった・・・・・・カモネ

と教わって感動しますた(↓左にいくほど威厳大)。
曹操の名誉のために書きそえれば、すべての記述の前後に相反する彼の立派さが称えられていますw

69 :1(ry:2007/02/05(月) 22:19:17
>>64
曹植の『与楊徳祖書』があらわされたのは、建安21(216)年-24(219)年としている本が多いみたいなので、
ほんの数年前には曹操のおぼえもよく、宮廷で活躍して23歳にしてギョウの留守を任されたりもしていたのに、
急に疎んじられ臨菑侯に封じられっぱなしで、度重なる孫権や張魯の討伐にも置いてきぼりにされ、
こんなとこで文章ばかり書いててても仕方ねーよ、俺は曹操の息子として国のために働きたいよ! と
のんだくれまくる若い曹植たんのすがたは、なんとなく容易に想像がつくような気がします。
>>66
曹丕は、曹植が任地で不遇を囲っていることは当然知っていますし、
弟が楊脩にあてた手紙の細かい内容まではしらなくても、弟が国政に参加したいと思いながら
筆に遊ぶしかない状況にあることはよく分かっていたでしょーかと思います(自分が与してるんだから……)。
しかし、国政を安定させるために、人気ある皇位継承者の弟をなるべく排して、
自分の地位を確固たるものにしなければならなかった曹丕が、
弟へのあてつけのために「弟よ、おまいは僻地で詩ばっか書くしかなくて気の毒だねウハw」
みたいな意味で典論を「蓋し文章は経国の大業にして……」と書いてひろく発表するとは、
当時から曹植の文章の腕が曹操を含む人々から非常な評判を得ていたことを考えあわせると、
自分はなかなか思えないような気がしますですー。
もしそういう意図(曹植に対するあてつけ)があったとしたら、典論の文章だと
「曹植たん=文章ウマイ=文章は経国の大業=曹植たんを国政に参加させたげようよ!」
という式が成り立ってしまい、当初の意図と矛盾してしまう上に曹丕の為にはならないように思うのですが……
だから、典論は曹植へのあてつけではないような気がするんですが(´・ω・`)デモヨクワカンネ

とりあえず、今週中にでも典論うpしてみます。
曹丕はほんとに、時代にそぐわないディレタントですおね。李漁とか米フツと会わせてみたいw

70 :1(ry:2007/02/05(月) 22:29:50
>>67-68
あれ、すごい勢いで置換ミスorz
×伝子→◎傅子 です。伝子ってなんだorz

71 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/06(火) 01:25:16
>>69
楊脩への手紙が史書に残っているということは、
どの時期だかは知りませんがその手紙の内容が衆目に晒されたのではないでしょうか。
タイミングとしては受けた楊脩死後と書いた曹植死後の二つが考えられますが、
手紙は受けた側に残っているわけで、漢中で楊脩が曹操に殺害された時、
持ち物検査があってその折りにでも発見されたんじゃないかと思います。

72 :1(ry:2007/02/06(火) 01:39:49
おおー寝ようと思ったらdxです!

>>71
おお! なるほどー。曹植たんは曹丕より長生きしてるので、曹植の死後に手紙が
見つかったのでは曹丕があてつけで典論を書くのに遅すぎるので、楊脩がころされたときでせうか……
王粲の賦が出そろってるので、典論も217年以降の文であることには間違いないですね。

73 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/06(火) 06:11:08
典論は孫権にまで与えているので相当自信満々だったんでしょうな
曹芳の時代に物笑いの種になってしまいますが

74 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/06(火) 07:39:43
曹操注釈版孫子も孫権に送りつけたって説を見たことあるんだけど、
この親子は案外似たもの同士ですなw

75 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/06(火) 15:02:30
孫権もいい迷惑だなww

76 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/06(火) 15:22:03
妙なところ似てんのな
オレの、オレの、オレの話を聴け〜い!ってとこ

曹操は「オレオレ!オレだよ!」って寄ってきて話しかけてくるけど
曹丕はぼそっと呟いて、人が「ん?」って振り向くと、嬉々としてしゃべり出す感じ

77 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/06(火) 15:53:24
この親子、気質としては権力もった学者タイプだからな

78 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/07(水) 00:14:20
>>73
それって燃えない布の事…だったかな?

>>76
どっちも可愛い例え方だなww


79 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/07(水) 01:54:13
火浣布のことだね

80 :1(ry 典論(・∀・)デキタ!:2007/02/07(水) 02:00:02
バロスwww>>76は落語の寝床の旦那さんのようだww
しかし、どっちにしても話聞かないと頸がとぶから孫権も大変(ry

曹植たんも、タイプとしては「オレの酒を呑めーい!」の曹操系な感じですおね。
そういう尻に火のついたタイプの人が、一族が国の興亡をかけて中央でバリバリ
働いてるなかで、自分だけ仕事ももらえずに地方に封ぜられたら、かなり辛そうですおね。
逆に、仮に曹丕が立太子せずに地方の王様になっていたら、ほどよくのどかに仕事したり
グルメしたり文章書いたりしつつ、けっこう満足して過ごしそうな希ガスw

火浣布の話もおもしろいので、そのうちやりたいです(・∀・)
とりあえず、曹丕の典論をうpしておきます。
きっといろいろ間違ってるので、ぜひ訂正を↓(ry

81 :1(ry 典論1/5:2007/02/07(水) 02:01:01
『典論論文』  魏文帝
(白文)
「文人相軽、自古而然。傅毅之於班固、伯仲之閒耳。而固小之、与弟超書曰、
武仲以能属文為蘭台令史、下筆不能自休。夫人善於自見、而文非一体、鮮能備善。
是以各以所長、相軽所短。里語曰、家有弊帚、享之千金。斯不自見之患也。
 今之文人、魯国孔融文学、広陵陳琳孔璋、山陽王粲仲宣、北海徐幹偉長、陳留阮瑀元瑜、
汝南応瑒徳璉、東平劉楨公幹、斯七子者、於学無所遺、於辞無所仮。
咸以、自騁驥騄於千里、仰斉足而並馳。以此相服、亦良難矣。蓋君子審己以度人。
故能免於斯累、而作論文。
 王粲長於辞賦。徐幹時有斉気、然粲之匹也。如粲之初征、登楼、槐賦、征思、幹之玄猿、漏#x536e;、
円扇、橘賦、雖張蔡不過也。然於他文、未能稱是。琳瑀之章、表、書、記、今之雋也。
応瑒和而不壮。劉楨壮而不密。孔融体気高妙、有過人者。然不能持論、理不勝詞、
以至乎雑以嘲戯。及其所善、楊班儔也。常人貴遠賎近、向声背実。又患闇於自見、謂己為賢。
 夫文本同而末異。蓋奏議宜雅、書論宜理、銘誄尚実、詩賦欲麗。此四科不同、故能之者偏也。
唯通才能備其体。文以気為主。気之清濁有体、不可力強而致。譬諸音楽、曲度雖均節奏同検、
至於引気不斉、巧拙有素、雖在父兄、不能以移子弟。
 蓋文章経国之大業、不朽之盛事。年寿有時而尽、栄楽止乎其身。二者必至之常期、未若文章之無窮。
是以古之作者、寄身於翰墨、見意於篇籍、不仮良史之辞、不託飛馳之勢、而声名自伝於後。
故西伯幽而演易、周旦顕而制礼。不以隠約而弗務、不以康楽而加思。夫然則古人賎尺璧、而重寸陰、
惧乎時之過已。而人多不強力、貧賎則懾於飢寒、富貴則流於逸楽、遂営目前之務、而遺千載之功。
日月逝於上、体貌衰於下、忽然与万物遷化。斯亦志士之大痛也。融等已逝。唯幹著論、成一家言。」

82 :1(ry 典論2/5:2007/02/07(水) 02:02:26
>>81書き下し、適当ですおorz)
「文人の相軽んずるは、古(いにしえ)よりして然り。傳毅(ふき)の班固(はんこ)に於けるは、
伯仲の閒(はくちゅうのかん)なる耳(のみ)。而るに固は之を小なるとし、弟の超に書を与えて曰く、
武仲(ぶちゅう)は文を属(つづ)るに能(あた)うを以って蘭台令史と為(な)るも、筆を下してより休むを能わず。
夫(そ)れ人は自ら見るを善くせども、文は一体(いったい)に非ざれば、能く善(ぜん)を備うは鮮(まれ)なり。
是を以って各(おのおの)の長ずる所を以ち、短き所を相軽んず。里語(りご)に曰く、家に弊帚(へいそう)有り、
之(これ)を千金に享(きょう)す。斯(こ)れ自ら見ざるの患(うれ)い也(なり)。
 今の文人、魯国の孔融文挙、広陵の陳琳孔璋、山陽の王粲仲宣、北海の徐幹偉長、陳留の阮瑀元瑜、
汝南の応瑒徳璉、東平の劉楨公幹、斯の七子の者、学に遺す所無く、辞に仮(か)る所無し。
咸(みな)以って、自ら騁驥(きろく)を千里に騄(は)せ、仰いで足を斉(ひと)しくして並び馳す。
此を以って相服せしみ、亦た良く難(かた)し。蓋(けだ)し君子は己を審(つまび)らかにし以って人を度(はか)る。
故に能く斯の累を免れ、文を論ずるを作す。
 王粲は辞賦に長ず。徐幹は時に斉気し、然れど粲の匹(たぐ)い也。粲の初征、登楼、槐賦、征思、
幹の玄猿、漏#x536e;、円扇、橘賦の如く、張蔡と雖(いえど)も過ぎさる也。然れども他の文に於いては、
未だ是に稱(かな)う能わず。琳瑀の章、表、書、記は、今の雋(しゅん)也。
応瑒は和にして壮ならず。劉楨は壮にして密ならず。孔融は体気(たいき)高妙とし、
人に過ぎる者有り。然れども論を持すに能わず、理は詞に勝らず、以って雑(まじ)るに嘲戯(ちょうぎ)を以って至る。
其の善き所に及ぶに、楊班の儔(ともがら)也。常なる人は遠きを貴び近きを賎しみ、声に向かいて実に背く。
又(また)自ら見るに闇(くら)く、己を賢と為すと謂うを患(うれ)う。

83 :1(ry 典論3/5:2007/02/07(水) 02:03:15
 夫(そ)れ文は本(もと)を同じくすれども末は異なる。蓋(けだ)し奏議(そうぎ)は雅(みやび)を宜しくし、
書論は理(ことわり)を宜しくし、銘誄は実(じつ)を尚(たっと)び、詩賦は麗(うるわし)きを欲する。
此の四科は同じくせず、故に之(これ)に能う者は偏る也。
唯(ただ)通才(つうさい)は其の体を備うに能う。文は気を以って主と為す。気の清濁に体(たい)有り、
力で強いれども致す可(べ)からず。諸(もろもろ)を音楽に譬うに、曲度(きょくど)は均(ひと)しく
節奏(せっそう)は検(けん)を同じくすると雖も、引気に至るは斉(ひと)しからず、巧拙に素(もと)有るに、
父兄に在(あ)りと雖も、以って子弟に移すを能わず。
 蓋(けだ)し文章は経国の大業(たいぎょう)にして、不朽の盛事なり。年寿は時有れども尽き、
栄楽は其の身に止(とど)まる。二者は必ず之れ常の期に至り、未だ文章の無窮に若(し)かず。
是れを以って古(いにしえ)の作者、身を翰墨(かんぼく)に寄せ、意を篇籍(へんせき)に見(あらわ)し、
良史(りょうし)の辞を仮らず、飛馳(ひち)の勢いに託さずとも、声名は自ずから後(のち)に伝わる。
故に西伯は幽せられども易を演(の)べ、周旦は顕ぜども礼を制す。隠約を以てども務めずんばあらず、
康楽を以てども思いを加えず。夫(そ)れ然らば則ち古人の尺璧(せきへき)を賎しめども、寸陰を重んずは、
時の過ぎるを惧(おそ)るる已(のみ)。而るに人は多く強力(きょうりょく)せず、
貧賎は則ち飢寒(きかん)を懾(おそ)れ、富貴は則ち逸楽に流れ、遂に目前の務めを営み、
千載の功を遺(のこ)す。日月(じつげつ)は上に逝き、体貌は下に衰え、忽然として万物に与し遷化(せんか)す。
斯れ亦(また)志士(しし)の大痛(たいつう)也。融等(ら)は已(すで)に逝きぬ。唯だ幹は論を著し、一家言を成す。」

84 :1(ry 典論4/5:2007/02/07(水) 02:04:17
>>82訳、適当ですorz)
「文人がたがいに相手を軽んじることは、古くからそうであったことです。
後漢の章帝のときに宮廷に仕えていた傳毅と班固においては、(その才に)優劣はありませんでした。
しかし班固はこれをつまらないものと考え、弟の超にあてた文章で、「武仲(傳毅のあざな)は文章を書くのが
うまいので蘭台令史の役職につけたけれども、文章をかきはじめても自分で止めるタイミングを知らないのさ」
と言っています。そもそも、人は自分のすることは善いものに見えますが、文章は一つの形式ではないのですから、
(それらすべてを)うまく書ける技術を備えている人はまれです。そのために、おのおのが自分が得意な
分野を自慢することで、下手な分野を互いに軽んじあうのです。世間では、家に壊れたほうきがあったら、
これを価千金にあたると考えるといいます。これは、自分のことは見えないものだという問題点のことです。
 現代の文人では、魯国の孔融文挙、広陵の陳琳孔璋、山陽の王粲仲宣、北海の徐幹偉長、陳留の阮瑀元瑜、
汝南の応瑒徳璉、東平の劉楨公幹、この七名の学者たちは、学問においては学んでいないことはなく、
文章においては贋物なところがありません。かれらは自分たちをして皆ことごとく、すぐれた才能をみずから
駿馬のように千里のとおくにも馳せさせて、天を仰いで足並みをそろえて駆けていこうと思っています。
こういうことなので、彼らが互いを屈服させたりすることは難しいのです。
思うに、君子たるものは自分のことを詳しくはっきりとさせたうえで、他人(の才能)をはかるものです。
そうすれば、(先の傳毅と班固のような)わざわいを免れ、文章について論じることができるのです。

85 :1(ry 典論5/5:2007/02/07(水) 02:05:05
 王粲は辞賦に優れています。徐幹の文章ははときに斉国風ですが、王粲と同じく優れています。
王粲の『初征賦』『登楼賦』『槐賦』『征思賦』、徐幹の『玄猿賦』『漏#x536e;賦』『円扇賦』『橘賦』などは、
少し前に名文家とうたわれた張衡や蔡菑よりも優れています。しかし、王粲と徐幹も、辞賦以外の文章では、
いまだ張衡や蔡菑にはかないません。陳琳と阮瑀の章、表、書、記は、現代でもっともすぐれています。
応瑒の文章は均整がとれてなごやかですが、勢いがありません。劉楨の文章は勢いさかんですが、
しっかりと精密ではありません。孔融の文章は才気の薫り高く、他の人より俄然すぐれた部分があります。
しかし、論調をしっかり組み立てることができずに、文章の内容がことばの表面にまけてしまうので、
たまに戯れだったり嘲笑うような表現がまざってしまうことがあります。(しかし)彼の得意な分野では、
(その文章は)前漢の楊雄や後漢の班固と同じぐらいに優れています。
そのへんの人は、昔のものをありがたがり最近のものは評価せず、名声ばかりを見て本質に背を向けるのです。
また、自分のことをよく見ることができず、自分を賢いと考えてしまうのは愚かなことです。
 そもそも文章は、根源は同じですが末端は異なっています。思うに、奏議は雅やかにするべきで、
書論は論理的にするべく、銘誄はその内容が大切にされるべきで、詩賦は美しくあるべきです。
この四科はそれぞれ形式が異なっているために、これらの上手な者はそれぞれに偏ってしまいます。
ただいっさいに通じた才能のある者だけが、このすべての技能を備えているのです。
文章は、目に見えない息や力などの「気」がその根幹となります。「気」の清濁は個人的なもので、
なにかの力で強いたところでどうにかできるものではありません。これを音楽にたとえれば、
同じ旋律を同じ楽譜や演奏法で演奏したとしても、呼吸のしかたは同じではないし、うまいへたには
素質というものもあるので、父や兄であっても子や弟にそっくり同じ演奏をさせることはできないのです。

86 :1(ry 典論6 orz:2007/02/07(水) 02:07:02
 思うに文章は、国を治めるための大仕事であり、朽ちることのない立派な事業です。
(人の)寿命はいつかは尽きますし、栄誉や楽しみも(その人が)生きている間だけのことです。
この二つのことにはいつか必ず期限がきてしまうので、いまだ文章の果てなく無限であることに及びません。
こうしたわけで、昔の文章家は、その身を筆と墨によせ、その思いを書物にあらわすことで、
歴史家のことばも借りず、権力のいきおいにたよりもしなくても、名声が自ずから後世に伝わったのです。
ですから周の文王は羑里に幽閉されていても易経をまとめ、周公旦は礼をさだめられたのです。
文王は苦しい生活をしていても(文章の)務めを怠ることはなく、周公旦は安楽にしていても
自分勝手にはなさらなかったのです。そもそも、昔の人が大きな壁をいやしんで、わずかな時間を大切にしたのは、
(朽ちない壁よりも)時間が過ぎていくことのほうをおそれたからです。しかし、今の人は少ししか努力せず、
まずしい人は飢えや寒さをおそれ、豊かな人は気ままな遊びにばかりかまけていて、目先のことばかりをし、
ついに永遠にのこる功績をやり遺してしまいます。月日は天の上で過ぎてゆき、人の体は地上で衰え、
一瞬のうちにすべてのものと同じくなって死んでしまうのです。これはまた、志のある人にとっては
非常に痛ましいことです。孔融たちはすでに没してしまいました。
ただ徐幹だけが『中論』を著して、彼独自の見識や考えを形にできたのです。」


なんつう数学的な文章、理路整然としたきれいな論でありましょう(*´Д`)
曹丕は詩賦においてもむろん冠絶していますが、そういった感情が鮮らかに
発露する文よりも、むしろこういう文章を書いたほうが三国一wだと思うです。


87 :1(ry 典論おまけ:2007/02/07(水) 02:09:02
あと、魏書の華佗伝の裴注に典論のきれはしが載っていたので、
白文だけうpしておきます。訳はなるべく今週中に(ry

魏書方技伝第二十九華佗伝、裴注より
(白文)
「文帝典論論郤倹等事曰、
 潁川郤倹能辟穀、餌伏苓。甘陵甘亦善行気、老有少客。盧江左慈知補導之術。並為軍吏。
初、倹之至、市伏苓価数倍。議郎安平李覃学其辟穀、餐伏苓、飲寒水、中泄利、殆至隕命。
後始来、衆人無不鴟視狼顧、呼吸吐納。軍謀祭酒弘農董芬為之過差、気閉不通、良久乃蘇。
左慈到、又競受其補導之術、至寺人厳峻、往従問受。閹豎真無事於斯術也、人之逐声、
之至於是。光和中、北海王和平亦好道術、自以当仙。済南孫菑少事之、従至京師。
会和平病死、菑因葬之東陶、有書百余巻、薬数嚢、悉以送之。後弟子夏栄言其尸解。
菑至今恨不取其宝書仙薬。劉向惑鴻宝之説、君游眩於子政之言、古今愚謬、豈唯一人哉。」

88 :1(ry:2007/02/07(水) 02:13:32
相変わらず読みづらい直訳ですみませんorz
とりあえず訂正orz
>>85 ×『漏#x536e;賦』→◎『漏卮賦』

89 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/07(水) 02:30:17
三国時代の中国の価値観が曹丕と曹植の対比でよくわかるね
叙情的で広大な空間を感じさせる文章と論理的で整然とした小部屋のような文章では前者が尊ばれるわけだ
もし日本だとこじんまりとした曹丕の方に軍配が上がって詩聖の名は曹丕の物になったかもしれんな

90 :1(ry:2007/02/07(水) 02:37:28
手紙を見ると、曹丕と曹植の文章のタイプの違いが明らかで面白いですおね。
曹丕の手紙は形式どおりにはじまって、綿密に組み立てて統制されて、繊細におわり。
曹植の手紙は立て板に水のように、どばばばーーと言いたいことが美しくぶちまかっててワロスw

91 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/07(水) 04:16:29
文章から文才ではなく、頭の良さを比べると現代日本人的な観点からすればどう見ても曹丕に軍配が上がりますな

92 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/07(水) 05:58:59
典論GJ!!オマケもあるんだね。
典論は本来どれぐらいの長さだったんだろうか。
曹丕は詩より論が面白いのに同意。まさにブログ(ry

93 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/07(水) 08:02:18
曹操・曹植は感情が先走るタイプで、
曹丕は感情を理性で抑えられるタイプなんでしょうな

この親子を見るに付けカーチャンの卞氏が気になって仕方ない。
曹操という下地があったにせよ、ここまで面白い才能を産み出すなんて
カーチャンもただ者ではなかったと思うのですよ

94 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/07(水) 10:27:40
>逆に、仮に曹丕が立太子せずに地方の王様になっていたら、ほどよくのどかに仕事したり
>グルメしたり文章書いたりしつつ、けっこう満足して過ごしそうな希ガスw

糸井重里みたいですねw

95 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/07(水) 10:33:11
埋蔵金探ししたりしそうだな

96 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/07(水) 11:28:32
埋蔵金発掘したら逆賊扱いだぞ

97 :1(ry:2007/02/07(水) 11:45:29
曹丕は、メンタル的にはバタバタした乱世の皇帝がわりと向いてなさげなようなw
曹植たんはミニ奸雄的な部分で、逆に独り平和にさせとくと発狂しそうじゃ

98 :名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/07(水) 12:18:57
しそうじゃってどんな老人ですかw

曹丕は戦争弱いしなあ

99 :まとめサイト ◆XoQX5vgfQU :2007/02/07(水) 13:32:19
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/
ここまでUP

100 :無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 14:55:54
だいたい知らない奴が口出しするな
その時代に生きていない人間には無駄だってこいうの
何が文学だ?かってにコピーして欠け

101 :無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 15:00:49
>>98
ここは文学スレなんで細かい話は避けるけど
曹丕は戦争弱い訳じゃないよ
アレはあの当時の北方軍の戦術ドクトリンそのものが持つ戦術的限界で
要するに曹操の限界がついに表層化して且つ決定的になった場面

102 :98:2007/02/07(水) 15:12:57
ムムム 悪気は無かった。申し訳ない。軍板で勉強してくるよ

103 :無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 16:30:03
マターリマターリ。誰にでも間違いはあるぜ('∀`)
>>87
華佗伝に典論の切れ端とは気が付かなかった。お疲れ様です。

104 :無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 16:48:03
>>101
ニセクロさん?

105 :無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 16:50:57
やはり自分は曹丕の詩が好きだ。
初めて短歌行見たときはこっちも哀しくなった(つД`)

106 :無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 17:12:27
>>102
あいや
責めるつもりは毛頭なかった
ただ曹丕が戦争弱いっていう定評につい脊椎反射でレスしてしまっただけなんだ
こちらこそスレの雰囲気壊して悪かった


107 :無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 17:18:37
('∀`)

108 :無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 19:56:33
>>90
ブチまけてるのに美しい曹植は凄いよなw

109 :1(ry:2007/02/08(木) 00:02:56
Thxであります(´;ω;`)
自分はよくわからんですが、曹丕と曹植はやっぱえろい人の言うように、
文字どおり伯仲の間、典論ふうにいえば、ふたりとも文才にすぐれていて、
しいていえばとりわけても曹丕は論に、曹植は詩賦に冠絶しているよ、みたいなふうかと?
そいで、優劣をつけるためではなくとも、それぞれをよりたのしむための比較論的な補助として
作品を対比させて読んでると、(自分は)わかりやすくて面白いなーと思うようなorz

>>81訂正
×魯国孔融文学→◎魯国孔融文挙 orz

>>93
丁夫人はあの時代に、あの曹操に啖呵をきっているからすごいですおね。まさに女傑w

110 :1(ry:2007/02/08(木) 00:03:54
#そいで、ちょっと戻るのですが、典論がこのあとどういうふうに各論を
展開させていったのかわかりませんが、すくなくとも文学に関しては、ここまでの論調だと、
やはり>>69の「曹植たん=文章ウマイ=文章は経国の大業=曹植たんを国政に参加させたげようよ」
が成り立ってしまうので、たとえ曹丕が曹植の与楊徳祖書を読んでいたとしても、
典論に曹植へのあてつけの意図をこめたとは考えにくいような……?

もちろん、仮に曹丕が曹植の文章を高く評価していたとしても、
誄でもないのに自分の身内である弟をほめたたえるとは礼からして考えにくいですし、
そもそも好悪いずれに評価しても彼の政権にとっては面倒くさいことになるでしょうから、
典論には(少なくとも現存する部分には)曹植の名が出てこないのだと思うます。
 そこまではいいのですが、曹植が文才にすぐれていることは、
太祖曹操をはじめとした当時の人々のコンセンサスだったのですから、そこで曹丕が典論で
「蓋文章経国之大業……」といって、文章を国政の大事業として評価することは、
(#不遇をかこって筆に遊ぶしかない曹植側からはあてつけがましく見えるかもですが)
曹丕側からすると、文章にすぐれた曹植を経国の才があると評価することにはなれど、
人気皇位継承者の曹植を僻地に封じておいて皇帝の権力を確固たるものにしたいという政策とは
矛盾するように思えるのですが……??(´・ω・`)ヨクワカンナイケド

#でも、「……雖在父兄、不能以移子弟」のところは、曹操や曹植と自分の文才をくらべて
#好悪のいずれにしても思うところがあって示した文章とも理解できますおね
#(たとえば、曹植の詩賦をみな褒めるけど、論なら俺のほうがうまいぞ、とか)。
#そういう意味では、典論には曹植たんに諷する意図があったとも読めますおね(違うかも)

111 :無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 00:49:17
「鍼神」で大漢和を探してみたら出典がでてきたよ

五胡十六国の前秦・王嘉の「拾遺記」(「王子年拾遺記」)
という書物に載っている故事らしいっす

112 :無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 01:03:27
>>110
文章に価値を見出してない曹植を蹴り出して「文学最高、国家事業だよね」とすることは
政治こそ男児の本懐、文学は手慰みとした曹植への物凄い迂遠な嫌味にはならないでしょうか
つまり「文章を大事に考えないお前なんか俺の政権にはイラネーヨ」という事です
また文章も国政の一部とする事によって文学からも締め出ししてるように私には考えられるのです
これはあくまでも個人的な考えなのでそんな考え方もあるんだな程度に思ってもらえるとありがたいです

113 :無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 01:06:03
曹丕の「文章への愛」はちょっとフェチ入ってる感じなので
ドバドバーっとぶちまける曹植への当てこすりというか、煽りが入ってる感じだ

114 :無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 15:57:14
フェチw

115 :1(ry:2007/02/09(金) 00:33:08
>>111
SUGeeeeeee!!!!! Thxです!! 拾遺記読んだことないからこんど読んでみよう。
そんな昔の文献に出てるってことは、あながち後世に創作した眉唾話じゃないのかもw
自分も>>67の夜来夫人の出典を思いだしますた。
天一出版社の明の『艶異編』第八巻・薜霊芸に出てますた。
なかなかエロい話で満足w( ゚∀゚)o彡゜長いので、そのうちうpします。
備忘メモ:あと、岩波の『太平記』巻第十三・龍馬進奏事の菊慈童の話も
発掘したので、そのうちうpします。年代の整合性がなんかおかしいような希ガスです。

>>112
Thxです!! なるほどー、曹植たんが典論を読んだら「兄貴、イヤミだぜー!」と
めちゃくちゃ思いそうですおねw。典論の論調だと、みんなは曹植たんや曹操を
文才に卓越していると褒めるけど、そりゃたしかに奴らも詩とかはうまいけど、
形式によっちゃイマイチじゃん、と言ってるようにも読めますかもですおねw。
(このへんは自分が勝手に思うだけですが)やっぱコンプレックスがあったのかなーと。
しかし大筋としては、典論は果物のグルメ詔のように、好きな文学の博物志みたいなのを
つくりたかったんだろうなというように見えますおね。つくづくそういうのが好きなんだなとw

116 :1(ry:2007/02/09(金) 00:36:35
#しかし、「曹植の文才はすごい」というのは当時の人々のコンセンサスだったのは
間違いないのですが、「曹植が中央の国政に参加したがってるけどできなくて筆遊びしてる」
という見識のほうは、多くの人が持っていたものなのでせうか?
もしそっちのほうのコンセンサスがなければ、曹丕が典論に曹植たんを諷するような
意図をこめていたとしても、それは曹植たんの「中央に行きたいよ」という
尻に火がついたような心情をしっている曹植たんの周囲の人か、
せいぜい魏宮廷周辺の人にしか通じないような……
 しかも典論は、なにしろ孫権にあげたぐらいなので、曹植たんのそういった細かい状況が
伝わらない大陸中に広まることや、さらには曹丕がいみじくも「文章之無窮」と言及しているように、
ひろく後世にのこって当然ということ、つまり曹植たんの内情を知らない地方や後世の人が
読むことを前提として考慮して書かれた(書かれるべきであった)のでしょうと思います。

 そうすると、自分はどーしても、曹植を中央から遠ざけておくという政策と典論の論旨は、
他人から相反するようにとられる危険性が大きすぎるように思えるのですが……
 曹植たんのそういう状況を知らない多くの人に、
「文学を国家事業とするならば、なぜ中央に当世の文章の天才曹植を招かない/招かなかった?」と
いう声をあげさせるもとになってしまうような気がするのですが……(´・ω・`)ナンカチガウカモ
 それとも、そんな政治的な意図はなく/無視して書かれたのか(そんなことあるのかな)、
または曹植たんに対するあてつけの意図なんかはなかったのか……??(´・ω・`)ヨクワカンネ

#あと、前スレhttp://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/logs/1.html
477さんが薄葬詔は典論をしたじきにしてるかもというのをおそわりますたが、
典論と薄葬詔の論旨のメソッドは、やっぱりそっくりですおねー。
群雄が割拠しちゃ興亡するところをずっと見てきて、自身が禅譲をうけて
漢朝の終焉までみていると、永遠のものへのあこがれが出てくるのかなー。
つくづく曹丕はへんな(おもしろい)皇帝だなーと思うです。

117 :無名武将@お腹せっぷく:2007/02/09(金) 05:43:14
>>116
>曹植を中央から遠ざけておくという政策と典論の論旨は、
>他人から相反するようにとられる危険性が大きすぎるように思えるのですが……
曹丕は政治的リスクよりも自由に書きたいことを優先したとか?
俺も良く分からんが曹丕ならそれぐらいやりそう。

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